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早朝の釜石市街を歩いた。連れ立って散歩をする老夫婦、軽々とジョギングして行く中年の男性。1時間ほど歩いて、出会ったのはその3人だけだった。震災3ヶ月後に訪れた釜石は、倒れかけたビルや屋根に乗り上げた車の残骸など惨憺たる状況だったが、それから2年、瓦礫はすべて撤去され、家屋の多くも取り壊されて、中心商店街は巨大な空き地になっている。人々は仮設住宅に移ったか、この街を諦めて、出て行ったのだろう。
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甲子川のほとりに立って対岸の製鉄所を望むと、煙突から登る白い蒸気が海の方向へ流れている。しかし風は無いに等しく、川面は滑らかに風景を映している。カモメだろうか、白い鳥が上流を向いて浅瀬の小魚を狙っている。この川を、鮭がたくさん遡って来るのだと、初めてこの街に来た際に土地の人が教えてくれた。赤茶けた鉄橋はそのころと同じだが、列車はもう通っていない。製鉄所の高炉も消えた。そして津波が来た。
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釜石観音に登り、通俗的な観光施設に辟易しながら釜石の海を一望した。左右から延びた緑の丘が包み込む湾はあくまでも穏やかで美しく、津波の記憶とはつながりにくい。遥か外洋を向いて立っている観音は、街を守ってくれなかったけれど、あの揺れを耐えたのだから頑丈ではある。中心商店街にぽつんと残ったように建つホテルから暮れなずむ街を見下ろすと、ホテル界隈に灯は乏しく、街にぽっかりと黒い穴があいていた。
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三陸のうち、なぜかこの街にだけ4度も来たことになる。そのせいか勝手にシンパシーを感じるものだから、今は人影が薄れていても、釜石はまた、きっとにぎわいを取り戻すと信じている。大打撃を受けた中心商店街とは異なり、甲子川を渡った釜石駅周辺は被害が少なかったようで、新しいスーパーがオープンするなど、街の装いを整えつつある。南三陸の被災地を見て来て、釜石にも、新たな街造りが本格化する気配を感じた。
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私たちの旅は、このあと内陸に向かう。花巻から盛岡を目指すのだ。従って途中、遠野を通過することになる。時間に余裕がないものだから遠野物語は素通りしたけれど、1ヵ所だけ私のわがままで寄り道をした。陶芸家・加守田章二の工房跡だ。リタイア後の趣味に陶芸を選んだ私は、改めて名のある陶芸家の作品集に目を通した。人間国宝の作品は素晴らしいけれど、そうした伝統工芸以上に、私は加守田の斬新さに目を奪われた。
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その工房は、遠野の街を少し離れた、小さな集落の入り口に建ち、門柱に「か守田」とある。簡素な平屋の住居棟と、レンガを積んで造った窯場が向き合って、かつての作陶の熱気を偲ばせる。遠野という、いかにも日本的因襲の濃いイメージの土地にあって、あの斬新なフォルムや色はどうやって産み出されたのか、益子で制作に励んでいた彼は、遠野の土に魅せられたらしい。没後、市に寄贈され、市が整備・保存しているが無人だ。
この稿を書いている折り、立ち寄った新宿の百貨店でギャラリーを覗いた。「加守田太郎作陶展」とあった。もしやと思い尋ねると、尋ねた彼が個展の主で、章二の息子さんだった。遠野の工房を訪ねて来たと伝えると「あの窯も震災でだいぶ崩れ、地元の方々が修復してくださいました」ということだった。お父さんの作風を思い出しますと感想を述べると、「ちょうど父が死んだ年になりました」と応えた。50歳ということだ。(2013.9.26-27)
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甲子川のほとりに立って対岸の製鉄所を望むと、煙突から登る白い蒸気が海の方向へ流れている。しかし風は無いに等しく、川面は滑らかに風景を映している。カモメだろうか、白い鳥が上流を向いて浅瀬の小魚を狙っている。この川を、鮭がたくさん遡って来るのだと、初めてこの街に来た際に土地の人が教えてくれた。赤茶けた鉄橋はそのころと同じだが、列車はもう通っていない。製鉄所の高炉も消えた。そして津波が来た。
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釜石観音に登り、通俗的な観光施設に辟易しながら釜石の海を一望した。左右から延びた緑の丘が包み込む湾はあくまでも穏やかで美しく、津波の記憶とはつながりにくい。遥か外洋を向いて立っている観音は、街を守ってくれなかったけれど、あの揺れを耐えたのだから頑丈ではある。中心商店街にぽつんと残ったように建つホテルから暮れなずむ街を見下ろすと、ホテル界隈に灯は乏しく、街にぽっかりと黒い穴があいていた。
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三陸のうち、なぜかこの街にだけ4度も来たことになる。そのせいか勝手にシンパシーを感じるものだから、今は人影が薄れていても、釜石はまた、きっとにぎわいを取り戻すと信じている。大打撃を受けた中心商店街とは異なり、甲子川を渡った釜石駅周辺は被害が少なかったようで、新しいスーパーがオープンするなど、街の装いを整えつつある。南三陸の被災地を見て来て、釜石にも、新たな街造りが本格化する気配を感じた。
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私たちの旅は、このあと内陸に向かう。花巻から盛岡を目指すのだ。従って途中、遠野を通過することになる。時間に余裕がないものだから遠野物語は素通りしたけれど、1ヵ所だけ私のわがままで寄り道をした。陶芸家・加守田章二の工房跡だ。リタイア後の趣味に陶芸を選んだ私は、改めて名のある陶芸家の作品集に目を通した。人間国宝の作品は素晴らしいけれど、そうした伝統工芸以上に、私は加守田の斬新さに目を奪われた。
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その工房は、遠野の街を少し離れた、小さな集落の入り口に建ち、門柱に「か守田」とある。簡素な平屋の住居棟と、レンガを積んで造った窯場が向き合って、かつての作陶の熱気を偲ばせる。遠野という、いかにも日本的因襲の濃いイメージの土地にあって、あの斬新なフォルムや色はどうやって産み出されたのか、益子で制作に励んでいた彼は、遠野の土に魅せられたらしい。没後、市に寄贈され、市が整備・保存しているが無人だ。
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この稿を書いている折り、立ち寄った新宿の百貨店でギャラリーを覗いた。「加守田太郎作陶展」とあった。もしやと思い尋ねると、尋ねた彼が個展の主で、章二の息子さんだった。遠野の工房を訪ねて来たと伝えると「あの窯も震災でだいぶ崩れ、地元の方々が修復してくださいました」ということだった。お父さんの作風を思い出しますと感想を述べると、「ちょうど父が死んだ年になりました」と応えた。50歳ということだ。(2013.9.26-27)
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