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昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

805 山代(石川県)湯処で九谷五彩の技を見る

2017-12-28 11:17:53 | 富山・石川・福井
今回の旅の行程は「九谷焼」が中心である。そもそも九谷焼は17世紀半ば、大聖寺川上流の山深い九谷村で焼かれた色絵磁器のことだ。だから大聖寺駅前には「古九谷發祥の地」の碑が建っている。古九谷とはこの九谷村で焼かれた九谷焼を云うのだが、そこでの焼成はわずか50年余で途絶える。その理由は謎のまま、ただ限られた数量の色絵磁器が残された。それから100年余、幻の磁器は再興され、古九谷の技術が甦るのである。



九谷焼は大聖寺藩の九谷金山で発見された陶石がすべてのスタートであるから、藩の記録がはっきり残っている。藩主・前田利治は家臣(と思われる)後藤才次郎を有田に派遣、色絵磁器の製法を学ばせる。そして1655年、九谷古窯が築かれ、大聖寺藩独自の色絵磁器製造が始まる。藩主も英明であったが、藩の殖産を託された後藤らも偉かった。同じ谷から色絵付けの原料となる鉱石を採掘し、完成度の高い磁器製造に成功したのだ。

(石川県九谷焼美術館のパネルより)

古九谷の時代、すでに赤・紺青・緑・黄・紫の五色(九谷五彩)を駆使した五彩手や、緑や紺青を塗り込んだ青手など、有田の流麗な文様(例えば柿右衛門)とは別種の、粗々しいほどに豪快な色絵を出現させている。そして1824年、大聖寺の豪商・豊田(吉田屋)伝右衛門によって、失われた九谷焼の技術は再興されるのである。この謎めいた出自も魅力となって、九谷は有田や鍋島などと並ぶ、一大色絵磁器産地となって現代に至る。



こんな具合に書いていると、いかにも私が九谷焼に憧れていると思われるだろうが、実は私は九谷焼が苦手なのである。九谷焼は器の姿形より色絵の鮮やかさに命を注ぐ焼き物なのだが、その色遣いが私には古すぎて好もしくない。名品と讃えられる大皿であっても、新しい絵付けを施された現代物でも、部屋に飾る気にはならない。ただし、これだけの色彩を鮮やかに発色・定着させる九谷の技倆には凄みがある。今回はそれを確認しに来た。



再興九谷の窯跡が保存されていると知り、山代温泉に行く。加賀には温泉郷が多い。山代もその一つで、大きなホテルが林立している。温泉街の中心に共同浴場である「総湯」が残り、古い湯治場の町割を伝えているのだそうだ。温泉街の入口には魯山人が半年間滞在し、九谷の名工から伝統技術を学んだ寓居が公開され、街の反対側の北向き斜面には、九谷再興に苦闘した吉田屋一門の窯跡が保存されている。登窯や色絵付け窯などだ。

(再興九谷のかつての作業風景=窯跡展示館のパネルより)

窯跡に工房と展示館が併設されていて、絵付けの専門家が上絵を描いている。描くのは1300度ほどで本焼きされた磁器だ。そこに色絵を上絵付けし、800度ほどで再焼成して完成である。本焼きされ、釉薬で白く輝いている表面に、さらに色釉薬を重ねるのである。透明のガラスの上に、発色する別のガラスを焼き付けるようなもので、このガラス質同士の相性が難しい。「今は専門の釉薬屋さんが調合してくれます」と現代の絵付師さん。



伝統の継承は大切だが、九谷は古九谷の呪縛に捕らわれたままなのではないか。大聖寺の九谷焼美術館で新作を見ても、そう感じることが歯がゆい。デザインの新風は魯山人あたりから吹き始めたと思えるのに、未だに本流とはなっていない。東京のセレクトショップでは、能美市の若手作家らの新作九谷が人気なのだが、地元では見当たらない。だとすればそれは作家のセンスというより、流通に課題があるのかも知れない。(2017.12.23)
















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