今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

806 吉崎(福井県)吉崎にナミアムダブツ陽が落ちる

2017-12-29 07:00:00 | 富山・石川・福井
すでに全てが失われ、何も残されていない処だとしても、かつてそこで交錯した人間たちのエネルギーが、幽かにせよ今も漂っているに違いない、そんな風に思える、あるいは思いたい土地がある。例えばこの国が戦乱に疲弊し、民衆は逃散し流浪し餓死するしかなかった15世紀後半、越前の辺境に出現した宗教都市がそれである。親鸞から8代、その血脈に連なる浄土真宗本願寺派の蓮如が築いてみせた吉崎御坊とは、いかなる処なのか。



御坊の在所は福井県あわら市吉崎。石川県との県境ぎりぎりの処で、加賀市の観光巡回バスがここにも立ち寄る。私の一人旅はもっぱら徒歩と公共交通機関頼りなので、そのバスでやって来た。ガイドさんは珍しそうに私を見たから、普段はあまり降りる人がいないのだろう。北面は日本海につながる北潟湖が広がり、鹿島の森が浮かぶ姿は実に美しい。街並みの西から南は小高い丘が囲み、松の梢がひときわ高いあたりが吉崎御坊跡である。



本願寺吉崎別院の堂宇を抜けて、御坊跡への石段を登る。ごくごく小高い丘なのだけれど、私にはきつい。登り切ると陸上競技場ほどの平坦部が広がっていて、黒松と桜が渾然と冬寂れている。中央奥に光雲作の巨大な蓮如像が建つ。北と西は崖となって、北潟湖に突き出した台地であることがわかる。蓮如が京の周辺を離れ、布教の拠点をここに求めたのは、立地もさる事ながら、所有する奈良・興福寺から使用を認められたからである。



蓮如(1415-1499)がこの地にいたのは、50代半ばのわずか4年余に過ぎない。その短期間にこの丘を均し、坊舎を建て、集まった門徒衆との「寄合談合」に臨んだ。蓮如は法名だけでなく、この時代にあって身分を超えて人々と接する、天性のカリスマ性を持っていたのだろう。瞬く間に吉崎は北陸門徒の聖地となり、人で溢れた。今は閑静な住宅地としか見えない麓の街には、宿坊が軒を連ね、芸人や酌婦、馬借らが喧騒を極めた。

(越中・砺波の瑞泉寺)

あまりの殷賑さに御坊経営が手に負えなくなり、蓮如は逃れるようにこの地を去る。そして法主を失った吉崎御坊の法灯は細って行く。しかし勢力を増した加賀の本願寺門徒は一揆を起こし、守護と対立を強める。同じころ越中でも一向一揆が勝利し、一帯の本願寺支配が実現していく。私は以前、砺波の街を歩いていて瑞泉寺に立ち寄った。越中一向一揆の拠点となった山間の街の寺院の、あまりに豪壮な伽藍に驚かされたことがある。



私は宗教に関心があるけれど、それは信仰心からではなく、人を惹きつける教義と、惹きつけられる人間に対する興味に他ならない。世界中で多くの人々が信仰によって生きる力と安らぎを得て、そして時には争いに突入してしまう。その激しいエネルギーはどこから来るのか。つまり「人間とは何か」を知る手がかりとして、宗教を知りたいのである。吉崎の丘上は落日に照らされ、堂は消え人も無く、550年前と同じ風が吹いている。



毎年4月の蓮如忌には、多くの門徒が参集する。そして京都からは蓮如の御影が、7日間を歩き通して門徒衆に運ばれて来る。私には驚愕的宗教行為に映るが、途切れることはない。御坊の麓には隣接する両市が運営する「県境の館」がある。国境は尾根や河川が通常であるけれど、大聖寺藩が北潟湖を埋め立てたことにより、珍しい県境が生じたのだという。宗教も政治も、すべからく境界を固めたがるのが人間なのであろう。(2017.12.23)
















コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 805 山代(石川県)湯処で九... | トップ | 807 大聖寺(石川県)白山と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

富山・石川・福井」カテゴリの最新記事