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熱田神宮に来ている(注:2009年時点)。在所は名古屋市熱田区神宮1−1−1。尾張国の聖地に違いない。神社のすぐ南には、旧東海道の七里の渡し跡が残っているから、かつては海に臨む社域だったのだろう。北方8キロほどに名古屋城がある。この配置を知って反射的に難波の住吉大社と大阪城の関係を思い浮かべたが、意味があるかどうかは分からない。ただいずれも神社の方が歴史ははるかに古く、熱田社の創祀は2世紀に遡るのだとか。恐ろしいほど古い。
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そのホームページによれば、創祀は日本武尊が東国平定の帰路、名古屋市の火上山に草薙の剣を置いたまま、三重県亀山市の能褒野で没したことがきっかけなのだという。妃がその剣を熱田に祀ったことで、ここは聖地になった。全て伝承の時代のお話ではあるが、草薙剣は天皇を天皇たらしめる三種の神器の一つになったものだから、熱田は「伊勢の神宮に次ぐ格別に尊いお宮」として崇敬を集め、明治元年には神社から神宮に格上げされたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/a4/c03b915dab08cddec4a874cc4dec7ba8.jpg)
何か行事が終わったのだろうか、巨樹が鬱蒼と茂る参道を、神職と巫女さんと思われる装束の一団がリヤカーを引いて行く。リヤカーには飾り物のような包みがたくさん積まれている。神社も一つの組織として日々活動しているのだから、神職とはいえ神社に勤める身であればこうした雑務をこなすのは当然ではあろうけれど、どこか浮世とは一線を画したような装束の人たちが、人間味あふれる作業に就いている姿はどこか微笑ましい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/b9/f9c5dd378076f36ae07524d186d98baf.jpg)
そもそも神社とは何であろう。こうしたテーマになると私が頼るのは『日本を知る辞典』(社会思想社)なのだが、あまりに詳しくて目下の私に読み通す気力はない。そこで広辞苑を頼ると、「神道の神を祀るところ」と実に素っ気ない。では「神道」とは何か。「わが国に発生した民族信仰」と、これまた簡潔である。つまりは日本人が、自らが意識する以前に染み込んでしまったような、八百万の自然神や祖神に対する畏怖の思いを祀る場なのだ。
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神社は日本中に八万五千社以上もあるのだそうで、氏神、地神、屋敷神の祠まで加えたら、それこそ八百万でも足りないかもしれない。敗戦によって国家神道は廃され、神社本庁という宗教法人が設立されたが、制度的に各神社を包括するものではない。八百万の神々は日本から律令の残滓が一掃されることで解放され、本来の野に還った。熱田神宮も「神宮」という響きは敷居が高いが、江戸時代までの「熱田神社」だと思えば野の香りがしてくる。
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何事にも順位をつけたがる人間は、神様まで格付けする。神道における神の筆頭はもちろん天照大神である。熱田の祭神・熱田大神は、草薙神剣を依代とする天照大神であるから、当社は「伊勢の神宮に次ぐ」格式だということになる。しかしそんな理屈を声高に言う必要はない。「神社」の時代から熱田社への崇敬は、今も堂々と残る「信長塀」が雄弁に物語っている。神社は人為的格式などではない、土地人の思いによって高められることが最も尊い。
能褒野で息絶えたヤマトタケルは、白鳥となって大和に帰ったと伝えられる。その白鳥陵を、御所市まで訪ねたことのある暇な私だけれど、タケルの父・景行天皇の治世を2世紀まで遡らせることはいかにも無理があると思う。ただ12代目の大王だという景行の時代、列島各地の人々は、大和からやって来た武力集団に次々と伐り伏せられていった歴史はあったのだろう。そのシンボル草薙剣が、なぜ「火上山」に残されたかは謎である。(2009.9.29)
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そのホームページによれば、創祀は日本武尊が東国平定の帰路、名古屋市の火上山に草薙の剣を置いたまま、三重県亀山市の能褒野で没したことがきっかけなのだという。妃がその剣を熱田に祀ったことで、ここは聖地になった。全て伝承の時代のお話ではあるが、草薙剣は天皇を天皇たらしめる三種の神器の一つになったものだから、熱田は「伊勢の神宮に次ぐ格別に尊いお宮」として崇敬を集め、明治元年には神社から神宮に格上げされたという。
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何か行事が終わったのだろうか、巨樹が鬱蒼と茂る参道を、神職と巫女さんと思われる装束の一団がリヤカーを引いて行く。リヤカーには飾り物のような包みがたくさん積まれている。神社も一つの組織として日々活動しているのだから、神職とはいえ神社に勤める身であればこうした雑務をこなすのは当然ではあろうけれど、どこか浮世とは一線を画したような装束の人たちが、人間味あふれる作業に就いている姿はどこか微笑ましい。
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そもそも神社とは何であろう。こうしたテーマになると私が頼るのは『日本を知る辞典』(社会思想社)なのだが、あまりに詳しくて目下の私に読み通す気力はない。そこで広辞苑を頼ると、「神道の神を祀るところ」と実に素っ気ない。では「神道」とは何か。「わが国に発生した民族信仰」と、これまた簡潔である。つまりは日本人が、自らが意識する以前に染み込んでしまったような、八百万の自然神や祖神に対する畏怖の思いを祀る場なのだ。
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神社は日本中に八万五千社以上もあるのだそうで、氏神、地神、屋敷神の祠まで加えたら、それこそ八百万でも足りないかもしれない。敗戦によって国家神道は廃され、神社本庁という宗教法人が設立されたが、制度的に各神社を包括するものではない。八百万の神々は日本から律令の残滓が一掃されることで解放され、本来の野に還った。熱田神宮も「神宮」という響きは敷居が高いが、江戸時代までの「熱田神社」だと思えば野の香りがしてくる。
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何事にも順位をつけたがる人間は、神様まで格付けする。神道における神の筆頭はもちろん天照大神である。熱田の祭神・熱田大神は、草薙神剣を依代とする天照大神であるから、当社は「伊勢の神宮に次ぐ」格式だということになる。しかしそんな理屈を声高に言う必要はない。「神社」の時代から熱田社への崇敬は、今も堂々と残る「信長塀」が雄弁に物語っている。神社は人為的格式などではない、土地人の思いによって高められることが最も尊い。
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能褒野で息絶えたヤマトタケルは、白鳥となって大和に帰ったと伝えられる。その白鳥陵を、御所市まで訪ねたことのある暇な私だけれど、タケルの父・景行天皇の治世を2世紀まで遡らせることはいかにも無理があると思う。ただ12代目の大王だという景行の時代、列島各地の人々は、大和からやって来た武力集団に次々と伐り伏せられていった歴史はあったのだろう。そのシンボル草薙剣が、なぜ「火上山」に残されたかは謎である。(2009.9.29)
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