今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1042 岡崎(愛知県)竹千代が「こんにちわー」と駆けて行く

2022-07-16 10:34:42 | 岐阜・愛知・三重
信州下伊那の山中に発し、岐阜・愛知県境を流れ下る矢作川が、美濃三河高原を抜けて潤す西三河の大地は「岡崎平野」と呼ばれる。豊川が形成する東三河の豊橋平野とは、緩やかな丘陵が隔てている。そうした穏やかな風景の丘に「おかざき世界子ども美術博物館」がある。豊橋からの名鉄を美合という小さな駅で降りる。ガランとしたタクシー乗り場で途方に暮れていると、「タクシー来ないでしょ」と声がしてびっくりする。振り向くと誰もいない。



脚もとに目を落とすと、小さなお婆さんがニコニコ笑いながら私を見上げている。そこにタクシーがやって来たので、送りがてら美術館に行こうと考え見回すのだが、お婆さんはもうどこにもいない。小さな体で思いのほか動きの早いお婆さんであった。そうやってたどり着いた子ども美術館は、不便な立地を挽回するかのようにオブジェの広場や森が丘陵地に広がって心地いい。同じころ黄色い帽子の幼稚園児が「こんにちわー」とやって来た。



北村西望、流政之、岡本太郎、ロダン、ブールデル、マイヨールと、名だたる作家の可愛らしい作品が点在している。チビッコたちは慣れた様子でアート教室に進み、創作活動に取り組み始める。2階の展示室では「子どもたちのアール・ブリュット展」が開催中で、市内の特別支援学校の生徒らの作品が賑やかに展示されている。絵を描き、工作をしたり粘土を捏ねたり、幼児期の私がここにいたら広場で駆け回り、終日、退屈はしなかっただろう。



岡崎の子どもは幸せだと思い、およそ480年前にこの街で生まれた男の子を思い出した。松平竹千代、後の徳川家康である。三河の土豪・松平家の嫡男である家康は、6歳で今川氏へ人質に出されたから、幼くして厳しい人生を歩んだわけだが、同じころ、別の意味で厳しい人生を送っていた6歳年長の日吉丸は、竹千代の暮らす岡崎城から遠望できたであろう矢作川の矢作橋で野宿して、蜂須賀小六に出会っている。同じ街での歴史の交錯である。



岡崎市は人口38万5千人.。今では隣の豊田市に人口は超えられたが、西三河の中心の街なのだろう。矢作川の支流・乙川が、街を南北に分けて蛇行して行く。整備の行き届いた遊歩道を街の北側へ、桜城橋を渡る。広々とした板敷きの歩行者専用橋だ。駅で「Jazzの街・岡崎」のポスターを見かけたが、ここで橋上演奏されるのかもしれない。橋を渡ると「竹千代通り」から国道1号「康生通り」に出る。「家康生誕」であるから康生。全て家康である。



私は「岡崎城下東海道二十七曲り」を歩いているようだが、空襲で中心部を焼失した街は直線道路が広々と延び、現代的な明るい街区が続いている。岡崎城内の茶店で菜めしと田楽をいただく。八丁味噌がたっぷりかかった木の芽田楽は、いささか甘いものの不思議なほど旨味が凝縮している。岡崎は八丁味噌発祥の地なのだ。八丁蔵通りには2軒の蔵元が「延元二年」の暖簾を下げるなどしている。楠木正成が湊川に散った翌年、1337年創業である。



晴れているから暑いのだけれど、街歩きは爽快だ。乙川と城跡公園の空が広く、街路の整備が行き届いているからだろうか。私が歩いたわずかなエリアがそうした地域だったのかもしれないけれど、郊外の子ども美術館も含めとても居心地のいい街に思える。岡崎藩は竹千代と三河武士の故地であることから、江戸時代を通じ幕府から特別な扱いを受けたらしい。そうした思い入れが、今も街並みに漂っているような感じがするのである。(2022.7.8)

































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