職員室通信・600字の教育学

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屋根裏のブロガー。まだ無線ランの電波強度を確かめていないが適切であれば、屋根裏部屋からブログの更新を

2010-05-31 14:22:09 | Weblog

10.05.31 まだ無線ランの電波強度を確かめていないが適切であれば、屋根裏部屋からブログの更新を




◆ここ数日、物理的&精神的エネルギーの大半を、古書店DAKAの解体作業に費やしている。
 古書&資料を8箇所、すなわち、8つの異なる空間、照明の下に分散。

 昨日は、その8つ目の場所=「屋根裏部屋」での作業。
 階段の昇り降りを伴う書架&書物の移動もたいへんだったが、それ以上に、いちばん高いところで高さ1メートル10センチ、低いところで90センチ(反対側は70センチ)という屋根裏での中腰や座ったままの作業がきつかった。
 腕がしびれ、汗がドッとふき出る。




◆8つ目と7つ目は、まだ作業の途中だが、古書店DAKAの解体に関して、アトランダムにメモ。

(1)これまで「古書&資料の配置・配列=わたしの精神の構造」と言いつづけてきた。
 休日の朝、古書店DAKAに入ると、障子から差しこむ陽の光で書棚に濃い陰影ができている。
 それは、まるで自分の魂の内側のようだった。
 魂の内側に沿って底へ底へと降りていくと、高校生の頃、はじめて堀辰雄に、太宰治に、江藤淳に、高村光太郎に接したときの気持ちが蘇る……ということがあった。
 解体により、堀辰雄&江藤淳は、ドアを2枚隔てた15メートル先の空間に、太宰治は、ドアを1枚隔てた8メートル先の空間に移動した。
 これによって、わたしの思考にどういう影響を与えるのか?……プラスかマイナスか? あるいは何もないのか?……少しだけ楽しみにしている(^_^)v。

(2)現時点の感じ。
 粗くいうと、さっき、ガランとしたDAKA古書店内の隅にある、いつもの木製、折りたたみ式の、ハンモック風、肘掛け椅子に身を沈め、書架がなくなった白い壁→壁→壁を見まわしていたら、人生の時空間の移動中に突然、チャートを喪失したような頼りなさ……と、それとはまったく逆に、自分をがんじがらめに縛っていた歴史的な精神構造から脱出したような開放感とがあった。

(3)上記と密接不離のことだが、これまでの古書店DAKAの解体により、自分の精神の内部を、お客さんの視点で見直したり、あるいは、自分の精神の内部にお客さんと同じ視点を有しつつ存在してみるということが出来なくなってしまった。
 これは残念だ。
 しかし、だからといって、元の古書店DAKAの形態に再び戻ることは、絶対にない(ノ△・。)。

(4)屋根裏部屋では、まだ無線ランの電波強度を確かめていないが、強度が快適の範囲であれば、近いうちに、屋根裏部屋からホームページやブログの更新をしてみたい(*^_^*)。

(5)上記との関連だが、屋根裏だけでなく、他の7つの空間からも、もちろん、ブログの更新は可能だ。
 これは、(1)でいった「楽しみ」と同じだ。




◆人生の分岐点
 前回の記事(5/27)の末尾、「○年○月○日」の最後が「ま、まず、1ヵ月間、横書きをつづけてみよう」だったが、Diary原本には、それにつづいて次のような記述がある。

 「横書きDiaryの記述の場所を、僕の部屋だけに限定せず、職員室でも、教室でも、居間でも……と、拡大する。」

 これには補足が必要だ。
 職員室で私的なDiaryを書くという意味ではない^^;。
 職務上の学習指導案、研究報告等々、すべて横書きDiaryに含む……ごった煮状態……という意味だ。
 この「ごった煮」作戦については、また日を改めて触れることにするが、「僕の部屋だけに限定せず、職員室でも、教室でも、居間でも……」は、今回の古書店DAKA大解体と関連があるのかもしれない。

 ○年○月○日

 朝、神社に参拝。
 昨年の破魔矢を供え、新しい破魔矢をもらう。
 僕、鶴子、千早、光太郎、柏手を打つ。
 僕の願い。
(1)(引っ越しに伴い)千早が新しい学校にうまく通えますように。
(2)鶴子にも、千早にも、光太郎にも、新しい年が平安でありますように。
(3)僕の身体がよくなりますように。
(4)「横書きDiary」が実り多いものになりますように。

 鶴子や、千早や、光太郎の願い事は、何だろうか?
 おおよその見当はつく。
 それを「おおよそ」のまま、そっと自分のうちの空間に保存しておく。
 去年もそうだった。
 いつもそうだ。
 家族というのは、こういうものかもしれない。

 神社の帰路、書店に寄る。
 千早は『不思議の国のアリス』、光太郎は『林の虫たちの1年』を買う。

 午後6時~午後11時、TVで「戦国時代物」を観る。
 実にくだらない。
 年末の「幕末・維新物」もそうだった。
 どちらも「時代」の描き方が安易。
 だだ、「時間」を流しているという感じ。
 歴史の受験参考書を読み飛ばしている感じ。
 話し方が稚拙なために、自分の思いや真意が相手に伝わらないことが、僕の場合、よくある。
 それより悪い。
 たとえば、勝海舟と榎本武揚の意見対立……これを討議・討論・論争のカタチで描いている。
 が、単なる言い合いの姿・言い合いの内容では、「時代」は決して見えない。
 スイカを真っ二つに割って、真っ赤な断面を見せるように、「時代」を見せなければいけない。
 それが出来ていない。

 ああ、僕の教育の仕事も同じ……。

 猛烈に食欲あり。
 朝は餅(醤油焼き&あんこ餅)。
 昼は雑煮。
 夜はお好み焼き。

 ○年○月○日

 朝、雑煮を食べてから、千早、光太郎と公園に行く。
 一回りしてから、公園を出、もっと奥へと入ると、墓地があった。
 改修された墓地で、崖際にキャラメルのように墓石が並べられている。
 この改修工事のとき、鶴子といっしょに、ここに来たことを思い出した。
 千早や光太郎が生まれる前のことだ。
 夏の夜、盆踊りなどやらない場所から、盆踊りの歌が聞こえるので、懐中電灯で夜道を照らし、音を頼りに近づいていった。
 墓地改修に伴う供養の盆踊りで、まばらな踊り手が「なにやどやれ」を踊っていた。

 崩れて転がり出ている墓石もある。
 「昭和七年五月四日 永子 一才」
 「幸太郎」という名前も目に入る。
 転がって斜めになっていた。
 没年齢二十三歳。

 「光ちゃんも、死んだら、ここに来るんだ」というと、怖がって、僕の手を握った。
 家に着くまで、ずっと握っていた。
 ほどいてもほどいても、すぐ握り返してきた。

 夜、TVで「イス取りゲーム」をやっていた。
 音楽に合わせて、イスのまわりを、おどけて、まわっている。
 おどけて……ではないと思うけれども、他の適当なことばが見つからない。
 いつか音楽は止まる。
 止まる瞬間を待って、グルグルまわっているのだ。
 自分の姿を見るように、TVの人々を見る。
 音楽は、いつまで待っても止まらないかもしれない。
 止まらなかったら、僕はずっとこのまま、こうしておどけて、イスのまわりをまわりつづけなければならないのだろうか?
 そうなったとき、いったい、だれが「ゲーム」の終わりを宣告してくれるのだろうか?
 僕なのだろうか?
 それとも僕以外の誰かなのだろうか?
 僕以外の誰かだとすれば、それはいったい誰なのだろうか?



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自分の精神の内部をお客さんの視点で見直してみる
気晴らしに自分の精神の内部をお客さんの視点で見直してみる、あるいは息抜きに自分の精神の内部にお客さん

★画像=散歩コースの、こころはろばろ/スラバヤ沖/バタヴィアの沖/神社の森で撮影(RICOH・CX3)。


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