職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

恩師・奈良駅前の食堂でカツ丼、食うてきた

2005-01-23 09:51:22 | Weblog

05.01.23 恩師・奈良駅前の食堂でカツ丼、食うてきた

◆今年にはいって、わたしの心境に一大転換があった。
 もちろん、心境の転換など、そうたびだひあるものではない。

 近いところでは、〈学社連携・融合の推進〉→〈保・幼・小・中という垂直軸の体制に依拠・依存した学社連携・融合(水平軸)の推進〉くらいである。
 これは、「学社連携・融合論者」が「小・中連携論」に依拠、依存するというのだから、ほんとうに屈辱的「一大転換」であった。 
 
◆今回の転換は、無人駅についての、いわば「発見転換」である。
 これまで無人駅に向かうときは、日常の生活圏において自分を枠取りしている大小のシステムから脱出し、「無人駅で、孤高に、宇宙と向かい合う」のだ、「束縛にがんじがらめの自己を解放する……」のだ、「無人駅は異界への通路」なのだ、というような気持ちがあった。 
 
◆しかし、何度、無人駅に行っても、こういう気持ちにはなれない。
 無人駅のわたしは「だれかに見られているのではないか?」「薄暗く、湿っぽい待合室のベンチに座っているとき、だれかがやってきたら、変質者と思わないか?」「オシッコがしたくなったらどうすればいいのか?」と、キョロキョロ、落ち着かない。

 とてもとても「自己の解放」「孤高」どころではないのだ。 
 
◆無人駅に行きたいか?と問われれば、ぜひ行きたい。
 しかし、行けば、またギャップに苦しむ。
 去年、一年間、このことに苦しみつづけた。
 苦しみながら、今年になって、ふと気がついたのだ。

 「孤高に宇宙と……」というのも「自己を解放する……」というのも、すべて日常生活圏での発想に過ぎないのではないか?

 〈フローベルは社会的に自殺することで社会的な「私」をその作中に作り出した〉という日本的「私小説論」の系譜に、わたしがしばられているだけではないのか?((((((≧∇≦))))))バッハッハ。 
 
◆行きたいから、無人駅に行く。
 行った結果として、なにもすることがなくて、ただ帰ってくる。
 それはそれでいいのではないか。
 なにもすることがない「真空の」自分に出会えたのだから。
 なにも思考しないで、ただキョロキョロしている自分に出会えたのだから。 
 
◆高校時代の恩師(漢文)に、よく奈良に行く方がいた。(大阪の上本町駅または鶴橋駅から奈良まで近鉄快速で30分) 
 わたし「センセ、きのう、奈良でなにを見てきはったんですか?」 
 センセ「駅前の食堂でカツ丼、食うてきた」 
 この恩師のことばを思い出した。←まだ「思考」の途中です(^0^*オッホホ)。 
 
◆写真は階上駅で撮影。


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