WALKER’S 

歩く男の日日

高野みち

2009-04-11 | 高野山町石道

 いよいよ明日、高野山町石道を歩くので、予習として「街道をゆく」のビデオテープを引っ張り出してきた。司馬遼太郎の「街道をゆく」のテレビ版は全部録画して持っている。3倍速で録画してVHS7本になる。
 その第27回「高野山みち」は次のようなナレーションで始まる。
 『九度山とは町の名で、山ではない。紀伊の国、高野山が北に向かって山々や谷々を重ねようやく紀ノ川に至ろうとする岸辺にある。北方の葛城山脈と南方の高野山を中心とする山塊群の間に挟まって、川がゆうゆうと河原を広げつつ流れている』
 司馬さんは町石道に入って数十メートルの所まで行って引き返している。ぼくはそこから20km以上歩き続けることになる。放送では6時間かかるといっていたけれど、ぼくは5時間で踏破したいと思っている。

  高野山町石道
 高野山町石道は高野七口といわれる高野山の登山道七本のうち、弘法大師空海によって高野山の開創直後に設けられた参詣道で、紀ノ川流域の慈尊院(海抜94m)から高野山壇上伽藍(同815m)を経て高野山奥の院弘法大師御廟に至る高野山への表参道です。
 町石道が開かれた当初弘法大師は慈尊院から高野山までの道沿い一町約109mごとに木製の五輪卒塔婆を建立したとされます。文永3年(1266年)以降は、鎌倉幕府の有力御家人、安達泰盛らの尽力で朝廷、貴族、武士などの広範な寄進により朽ちた卒塔婆に代わって石造の五輪卒塔婆が建立され、ほぼ完全な形で今日に遺されています。
 町石にはそれぞれ密教の仏尊を示す梵字と高野山に至る残りの町数、そして寄進者の願文が刻んであり、巡礼者や僧侶はこの卒塔婆に礼拝をしながら、全長約23km(うち高野山内4km)、標高差700mの道程を一歩一歩、山上に導かれて行ったのです。
 町石道は三十六町一里制にもとづき、古代条里制がほぼ完全な形で遺る遺構であり、聖山・高野山とともに今後も注目を集めることでしょう。

   わかやま観光情報、というサイトに分かりやすい解説があったのでそのまま写させて頂きました。

   九度山から
 四国の巡礼道で一番長い山道は11番藤井寺から12番焼山寺までの12.9km。標高差は660mだけれど、幾度も登り下りを繰り返すので実際はその倍以上は登ることになる。速い人で4時間、遅い人は7時間以上かかることもあるという。
 慈尊院から大門までは19.4km、標高差は同じくらいではあるけれど6.5kmも長い。どういう坂があるか、どこに何があるか、分からないことだらけだ。しかも1年前四国から戻って以来一度も山道を歩いていない。太股の裏の筋肉に張りが残っている。靴はおろして5日目、天気は最高によいけれど、不安だらけのまま九度山駅に降り立ったのは10時5分、四国と同じ、ここまで来れば前へ進むしかない。


 真田庵
 10時12分、真田庵に到着、表通りから少し奥まったところにあった。大きな案内板が出ているので行き過ぎてしまうことはない。写真の長屋門が入り口で、その内部はちょっとしたギャラリーになっていた。その中で目に付いたのは、ずいぶん前のNHKドラマ「真田太平記」のポスターでした。真田幸村役の草刈正雄、その兄の信之役の渡瀬恒彦、女忍者役の遙くらら、そして紺野美沙子(信之正室、本田忠勝の娘)の4人が写っている。ぼくはこのドラマを熱心に見ていたのでとても懐かしい。それにしても直射日光が当たる場所ではないのに、このポスターの色のあせ様は、その月日の長さを思わずにいられないものです。放送されたのは24年前、中村梅之助、中村梅雀親子が、徳川家康、秀忠親子役で出演していました。


 慈尊院
 先が長いので真田庵の境内には入らなかった。長屋門の中で5分ほどたたずんで庵を後にした。1kmちょっと行くといよいよ町石道の始まりである慈尊院の石垣が見えてくる。先に裏門が見えたのでそちらから入ってしまった。裏門は通用口でその半分は小さな垣根に囲まれたゴールデンワンコの居住地域になっていた。ここから入ってくる参拝者はいないようで、不思議そうにぼくを見上げている。おとなしいワンコで助かった。門をくぐると左手にお大師さんの像、ここはまだ高野山ではない。高野山ではお大師さんは生きておられるから像は一切見当たらない。
 弥勒菩薩がまつられた本堂(重要文化財)の手前に深緑色の大きな石碑がある、世界遺産に登録された記念の石碑だ。町石道とともに慈尊院も世界遺産なのだった。写真の鳥居に続く石段が町石道の始まりであり、その途中の右手に180町石が静かにたたずんでいた。いきなりの長い石段に足取りも重い。

  柿の里
石段を登りきったところが丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)の境内、慈尊院の守護神が祀られている。境内を抜けて右手の緩い坂を下っていくといよいよ山道が始まる。
 『町石というのは一丈一尺の石柱で、山頂まであと何町かを知らせる道しるべなのだが、石柱の頂が五輪の形をなし、石柱の表面に梵字が刻まれ、形は簡素な石の柱ながらも一基ずつがさまざまな菩薩を象徴しているということになっている。
 山頂まで180基ある。
 旧道を少し辿ってみたが、百歩も行かぬうちに、深山幽谷に紛れ行ってしまいそうで、そのまま引き返して石段の途中に戻った。』
 街道をゆく、に記されている旧道の入り口は確かに深山幽谷の趣があった。でも、それはすぐに終わってしまった。舗装された急峻な山道は果樹園に入っていく、背の低い手入れの行き届いた柿の木が一面に植わっている。この時季葉っぱもほとんどつけていないので遠目にははげ山のように見えるかもしれない。日差しが容赦なく照りつける、南へ向かっていた坂道はやがて大きくUターンして北側の尾根の頂を目指す。坂はますます急になる。北に方向を転じると大きく視界が広がってくる、紀ノ川流域の大パノラマが自分だけのものだ。東は橋本あたりから、目の前の高野口町、下流のかつらぎ町までが一望の下にある、もしかしたら笠田のあたりまで見えているかもしれない。笠田というと、釣りきち三平が小鷹網をふるって鮎を捕ったところだ。中州の船岡山が見えているかは確認できなかった。

  雨引山分岐
 紀ノ川に突き出た山の端の北端をぐるっと巡って南へ転じると右手に展望台が見えた。まだ166町、1.5kmほどしか来ていないので休む訳にはいかない。岬の頂に立っている巨大な電波塔にどんどん近づいていく。この塔は電車の中から見えていた。まさかあんな高いところまでいきなり登ることはないだろうという、希望的観測はいきなり裏切られた。急坂はまっすぐ鉄塔に向かう、少し手前でその右をすり抜けて雨引山の登り口へ向かう、ここまで来ると登りは一段落、そしてようやく林の中へ入って山道らしくなってくる、日差しが遮られて、ようやく歩きに力が入ってくる。分岐点には必ず緑色の標識がある。←慈尊院 大門→、の新しい標識で全く迷う心配はない。四国でおなじみの赤い矢印と遍路人形の遍路シールも見ることができた。まもなく雨引山分岐に到着、153町、展望台から1.4km、登りがほとんどなかったので、あっという間だった。雨引山の標高は477m、ここはまだ300mくらいしかないのかもしれない。舗装道路はここまで、あとは地道が続く。ここまでは柿畑で働く人たちの生活道路なのだろう。

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