ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

謎のまま

2017年03月31日 01時06分18秒 | Weblog
やはり三月が過ぎるのは早かった訳であるが、二月と違って31日
あるにもかかわらず、二月と同等かそれ以上に過ぎるのが早く感じるのは
一体なぜなのか。また、往々にして日本で言い慣わされたことのようにも
思えるが、海外とかでも同様にそう感じられているのか、その辺りが
少し気になった。

結局のところ感覚的なものなので、体系化したり、科学的に説明したり
して、証明を得るのは存外難しい事なのだろうと思うし、仮にそれが判明した
所で、特段何かの役に立つわけでもないので、皆『そういうものだ』と
決め込んで、深く探らないのかも知れない。

とりあえずウェブで調べようかとも思ったが、もう遅いのでまた時間のある
時にしよう。←という流れで謎が置き去りにされている可能性もある。
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結局戻ってくる

2017年03月29日 00時24分20秒 | Weblog
大判の液晶タブレットを導入して一年半余り、日々のお絵描きは粗方
デジタルに移行したのであるが、つい色を付けたくなったり、凝り出して
やたらに時間をかけて描くようになってしまったりと、変な欲が出始め、
結局とりとめもなく、ただ手を動かすだけのようなお絵描きは
アナログで良かろうという結論に至る。

結構久し振りにアナログで描いてみると、無限の解像度と、筆致の自在さ
具合に危うく帰ってこれなさそうになる。液タブやその系統の機器の進化は、
未だに止む所を知らない勢いで伸びているとは言え、このアナログで描く
ある種の心地よさに近い感覚をほぼ再現するには、まだ結構な時間がかかる
だろうと改めて実感する。

もうそろそろ人生において、デジタルで描いた時間とアナログで描いた時間が
釣り合い始める頃であるが、三つ子の魂とでもいうのか、若いころの感覚の
方がどうにも優勢のようだ。これからさらに気の利いた機器が登場して、
それこそ数年後くらいには『ペンもスケッチブックももはや不要なり』とか
言っているかも知れないが、今のところはそれぞれの良さをそれぞれ味わう
ことにする。

もう最近では、物心ついたころにはデジタル絵、という人も結構いるのだろうな
と思うと、随分未来に来たものだという気持ちになる。
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思っていた程

2017年03月26日 23時24分12秒 | Weblog
実家にもあった。職場にもある。そして新居にもついてきた。
何か。ウォシュレットである。
もはやそんなにも一般に浸透した感のあるアイテムであるが、やたら
保守的な身空であるために、実はこれまで一度も使ったことが無かった。
単純に使い方も知らないので、失敗してみっともない思いをしたくない、
という心理も大きいかも知れない。

そんな中、何が原因か腹を下す。何度も厠に出入りし、そうなると
尻も疲労するため、ついにこの時が来たとばかりに、自宅のウォシュ
レットを試すことにした。ここは自宅。他の誰もいないので何をどう
間違っても少しの問題もない。

…結果としては特に心配していたようなこともなく、さらりと大人の壁を
越えたというような心境であった。思っていた程でもないが、思っていた
以下でもなかった。今まで構えていたのは何だったのだろうと逡巡する
という事すらないような、そんな出来事であった。

話は変わり『衛府の七忍』の三巻はいつ出るのかと調べてみたら、
三か月くらい前に既に出ていた。
その間本屋でも探していたつもりだったのだが、数が少ないのか、実は
三か月くらい本当に本屋に行ってなかったとか、軽い自己不信にとらわれる。
郵便受けを一か月くらい改めてなかったりとかザラであるから、案外
実は三か月本屋に行ってなかった、というのはあり得る話である。
ともあれ、折を見て買おう。
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改造計画

2017年03月24日 00時16分39秒 | Weblog
我が家の居住区の明かりは、寝床から遠く、いつも電気を消してから
床に就かねばならない。問題は暗くて危険だとかそういう所ではなく、
寝床で本や端末などを読み耽った後に、おもむろに明かりを消して寝る、
という行動が困難な点にある。

そこで、部屋の明かりをリモコンで操作できるようにするアイテムを
色々と探してみることにした。

まず始めに見つかったのが、電灯の根元に噛ませる方式のもので、
それなりに廉価で使いやすそうではあったが、受信機もそこに付いている
ために、解放状態でないと機能しないという欠点があり断念。
我が家の電灯は吊るすタイプのものではなく、潰れた饅頭が天井に
張り付いたような形状のもので、受信機を覆い隠してしまう。

次に見つけたのが、壁のスイッチに細工をするタイプのもの。
やや値段が高く、電気工事(技士の資格)が必要というハードルの高さは
あるものの、素人でも設置した例はある(作業の動画もある)ようで、
これならばおそらく行けるだろうと考えたが、個人的に今まで何度となく
感電を経験しており、もしかしたらそっちの縁があるのかも知れぬと、
杞憂めいた不安を抱いているのと、電灯のある部屋のブレーカーを落とさ
なければならないのが億劫なため、やや尻込みしている。

ああでも、引き換えに得られるものはまさに楽園のような環境である
のだから、やってみる価値はあるだろう。大丈夫、何とかなる。
はずである。
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影もないが力はある

2017年03月22日 00時29分28秒 | Weblog
調べものをする時や、人にものを作ってもらう時に個々人が抱く
イメージというものがあるが、煙のようにうすらぼんやりした印象に
反し、実のところは結構な力を持った存在である。
そのおかげで、調べものをしていても、中々これだというような答えに
辿り着けなかったり、何度もリテイクを繰り返して制作サイドを辟易
させたりという、時間の無駄とそこから生じる悲劇を生む原因に
なっていると考える。

こういった自己の『求めるもの』に対するアプローチ手段は、上記の
ようなイメージ主体のものだけではなく、他に想定される目的や場面に
応じて、"大体これくらいの範囲内で"と決めた上で行うものもある。
この場合は事前の想定や情報の精度が高いほど、決まるまでにかかる
時間は短くて済む。

この方法は絵とか感覚的な価値観に訴える分野においては通用しない
のではなかろうかと思う人も居るかも知れないが、個人的な考えから
すれば、可能である。
どこぞの富豪が、昔のメディチ家よろしく芸術家に絵を描かせるという
ような場合ならば、確かに難しいかも知れないが、今の時世においては
そのような例は稀で、大体は商業的に依頼があって制作するというような
流れであろう。

商業的に美術を必要とする場面で、そこには殆どの場合、目的と目標が
存在する。(クライアント側もそういった具体的な目的と目標を彼らの
ボスに提示しないと、会社が財布を貸してくれない)
なので、"大体これくらいの範囲内で"と理詰めで決定を下すことも
できると考えるが、感覚的なものであるので、好き嫌いであったり、
感情に足を取られたり、考えが回らなくなることも多々あることと思われる。

とは言え、イメージ主体の制作方針は高コストなのは間違いないので、
少しでも制作コストを抑えたい場合は、理詰めで行く方法が良いだろう。
制作サイドとしても、往々にして振り回されて疲弊することの多い、
イメージ主体のクライアントよりも、大事な所は理詰めでカッチリ締める
所の方が信頼が生まれやすいと感じる。
長い目で見ればさらにお得と言えよう。
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着陸は困難事

2017年03月19日 23時16分39秒 | Weblog
『神羅万象チョコ』がどこにも売っていないのだが、これは梯子を
外されたとか、そういうフェードアウトの前兆なのか。
ごく個人的な印象ながら、絵柄的に今回の弾は多少元気を取り戻した
ように見られたが、色々先が見えなさそうである。
来週見かけなかったら、ウェブでもう一箱行っておくか…。

思えば、こういったおまけシールやカードの類でちゃんとストーリー的に
完結を迎えることが出来たものは数えるくらいしか知らない。
かの有名なビックリマン(天使VS悪魔シリーズ※1)やドキドキ学園ですら、
打ち切りエンドどころか失速してフェードアウトというような終わり方を
しているのだから、いかに大団円が困難かが伺える。

※1 32弾(打ち切りの次の弾)がかなり間をおいて発売されたが、そこから
ちゃんと終われたのかは不明

かと言って、『ビックリマン2000』のような、シールとストーリーの内容は
ちゃんと大団円なのに、コレクター的に止めを刺さんばかりの手加減無しの
絞りっぷりで阿鼻叫喚※2なのもやめて欲しい。

※2 シール総数が他の弾よりものすごく多い上に、素材替えが8回あった。
ついでに当たりシールも最終弾仕様で、本気で集めるならば相当の数
(8倍くらい)を買う必要がある。最後のとどめが、枚数限定で本当の最後の
最後に予告なしで用意された懸賞シール(当たりシールを送ると貰えるシール)
という、まさに外道。

神羅万象チョコの美点はこういった過去の惨劇を反省材料としているような
所で(一部例外あり)、この勢いで有終の美を飾ることが出来たら、長く語り
継がれる伝説となるであろう。
とは言え、この弾で終わる保証もないが。
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生活と共にあれど

2017年03月17日 00時15分27秒 | Weblog
休日に目薬を買いに行くが、そこで今更のようにその値段に結構な
差があることに気付く。こういう時にウェブは便利で、大抵の疑問に
大体答えてくれる。まだ使い慣れてはいないが、スマホならば出先でも
それが可能である。
さておき、目薬の値段の差はそれに含まれる成分の数に依るところが
大きいらしく、つまりは大体何となくイイ感じにしておいて、という
要求だと高くつくということである。

目の充血を解消するだけ、とか、目のかゆみを抑えるだけ、というように
特定の機能に特化したようなものが安価で供されているようであるが、
ある程度以上の異変に対しては眼科で処方してもらう方が良かろう。

また、それと同時に歯磨き粉も尽きていたので購入する。
これもまたピンキリの差が激しい。今までなるべく『お気に入り』とも
いうような特定の品を使うようなことをせず、買う度にその時のフィーリング
で購入するようにしてきたのだが、これだと言えるような決定的、劇的に
良かったものに未だ出会えていない。

現状歯磨き粉に対して抱いている個人的な感覚としては、どれも大差ない、
というようなもので、実際もそれほど差と言えるような差のない世界なのかも
知れないが、本当のところはどうなのだろうか。一応あまりケチらず、
安過ぎず高過ぎずの範囲から毎回選ぶようにはしているのだが、本当に高い
ものは別次元だったりするのだろうか。

目薬もそうであるが、歯磨き粉は、人のものを借りてお試しでという行為が
憚られる品であるし、いきおい店頭でのお試し版のようなものもないので、
中々外の世界が見えづらいというか、天井がどれくらいの高みにあるのか
想像しづらい。

とりあえず味がどうだったかくらいの記憶しかない。
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偶像に求めるもの

2017年03月15日 00時13分57秒 | Weblog
いつの間にか『神羅万象チョコ』の季節であったが、もはや慌てても
仕方なし(どうせ数か月かけて大量に買うのだから)というような
心境に至り、スタートダッシュは控えることにした。

それとは別に、フィギュアの世界において、個人的に少々不思議に
思う所があり、覚書ついでに記しておくこととする。

フィギュアには、座像というべき座ったポーズのものが多く存在し、
椅子に座ったり地べたに座ったりと様々であるが、どういう訳か
尻や腿が接地の関係で平らになっているものはひどく評判が悪い。
椅子側に凸状のダボがあって、尻に突き刺して固定する方式が
何やら生理的に来るというのならば分かるが、椅子無しで飾ることも
無いはずなのに、そんな不自然な、もっと言えば尻の魅力の一つで
ある『外力による変形=やわらか感』を捨ててしまう意味が分からない。

なお、その場合変形するのは椅子側の方で、往々にして尻の形状の
くぼみが出来ている。(気が利いたフィギュアだと内部に磁石が仕込んで
あったりもするが、ダボとか、固定用のピンもない場合が多い)

あともう一つが胸の表現である。
元となるキャラに依るところも大きいが、胸の大きいキャラの方が
割合として多く、いきおい人気の高さも窺える。しかし問題はその形状
で、空気の入った風船を二個並べただけのような、重みに乏しく、
材質の都合もあり硬く見えてしまうほどの、これまた大きなうま味所を
捨てているとしか思えないような表現で、それだけでガッカリする。

柔らかいから、重みがあるから(それに伴う変形の表現があって、PVCと
いう無機物が俄然体温を帯び始めるから)良いのではないのか?
少なくともエロ要素の濃いフィギュアに関してはそれが是ではないのか?

アイドルとか魔法少女とか、そういうファンタジーの住人がモチーフならば、
体重などという俗な要素を排した表現を入れるのは間違っていないと思うが、
エロの領域に足を踏み入れておいて、なおファンタジーめかした存在という
のは、双方の良い所を捨ててしまっているように思えてならない。

あと、最後に、股座の立体というか形状について、納得のいかない
エロフィギュアがまだ結構多い。元絵に忠実な結果という場合もあるが、
もう少しこだわっても良いのではないかと思う。

そこまで言うならば手前で作れという話である。
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世界の真ん中の外

2017年03月12日 23時05分43秒 | Weblog
ある時にふと、自分で嫁キャラを設定して、それを描き続けていけば、
それは永遠の恋人というか女神的な存在になるのではなかろうか、と
考えたことがある。 
描けば描くほど上達もするし、より魅力的にするために上達しようと
いう気も起きてくる。常に自分自身と共にあり、意にそぐわないことは
しないし、老いることもないし、先立たれることもない。

その時は、なるほどこれは結構なものだと思いもしたが、言うまでもなく
倦んだ状態によくある発想で、少ししてから『これは駄目だ』とすぐに
思い直すに至る。

何が駄目か、結局のところ己の枠を超え得ないという点に尽きる。
どこまで行っても自分の想定内でしかなく、予想外という事態が起こらない。

生き物がどうして番いになるのか、ということについて、他者と交わる
ことで多様性の獲得と、自らの抱えたリスクの次代への伝播確率を減らす
ことが出来る、という説があるように、"己の持っていないもの"を持ち込む
ことは生物的にも理に適ったことなのだろう。

ある漫画のあるキャラが、人は『安心』を求めて生きるという旨の台詞を
発していたが、個人的には人は『想定外』も求めて生きていると考える。
『想定外』はドキドキやワクワクを引き起こすものでもあるが、行き過ぎれば
理解の度を越えて頭に混乱をもたらすもので、いずれにしても『安心』とは
相容れないことの多い要素である。

こと異性に求めるものは突き詰めれば、繁殖という本能が根っこにある行動で
あるから、より個々人の求めるものが如実に表れるのではなかろうかと思え、
自分の場合は異性に求めるものが『自分に無いもの:想定外』だったと、
今更にして気が付かされたという、そんな話である。

もちろん『安心』を求める人も居て然るべきで、例えばアニメや漫画等の架空の
存在を伴侶として愛を注ぐことは、『安心』を突き詰めた結果の一つとも
言えよう。何が正しくて、何が悪いという問題ではなく、どちらがより濃く
現れるのかという、それだけの、そういう問題である。

なので、冒頭で書いたような、己の女神と共に切磋琢磨していく行為も、
合う人には合うだろう。一人では想定内の軛から逃れ得ないかも知れないが、
梵我一如という言葉もある。悟りや真理への道程は基本一人乗りであるから、
突き詰めれば、あるいはとんでもない結果に行きつくかも知れない。
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そのケツに火が灯る

2017年03月10日 00時42分39秒 | Weblog
身の周りのものが色々変わる年であるという実感を日々強める
次第であるが、いよいよもって生活の方も忙しさが加速して、
何年か前のような青息吐息の状況を呈し始めてきている。

救いは一応のゴールが見えている点であるが、そういきなりには
昔のようなブーストを掛けることが出来ず、体か心に負担を
強いることになりそうである。
それにしても5~6年前くらいには、毎日のように終電で帰り、土曜に
朝帰りして夕方出社とかやっていたこともあったが、我ながら
同一人物とは思えないほどの体力と気力である。

ここのところはしつこいくらいに書いている通り、気力の方が
萎え気味なので、体力的にまだ問題なくても、すぐにうんざりして
くるような体たらくで、細かいところの粗ばかりが気になりだして、
ずっとこね回して、無駄に時間を費やしてしまうような、実に
よろしくない状態である。

そのような状況下にあって、今回の逃げ場のない追い立ては、果たして
吉と出るか凶と出るか。ケツに火がついて目が覚めるか、そのまま
焼けて果てるのか、あるいは適当に消して最低限の被害で乗り切るのか、
個人的には黙って焼かれるつもりはないが、それ以上のことは分からない。

これで気力が戻ればいいが。
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