ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

おもてなし

2014年11月30日 23時27分43秒 | Weblog
突然友人が訪れ、飲んだり食べたりしたのだが色々あって、我が家に
泊める運びとなった。しかし、普段利用している寝床を提供した段階で、
我が家の残りスペースは椅子の上かトイレ、もしくは湯船の中だけという
状態になった。
その程度の面積があれば多少程度でも睡眠は取れるだろうと、無闇な
自信のようなものがあったのだが、現実は一時間未満程度軽く眠りに
落ちるのが精一杯という結果に終わった。

普段の生活で十分に慣れていれば、話は違っていたかも知れないものの、
最低限ちゃんと眠るためには、首の筋肉を弛緩させた状態で頭と胴体を
安定させることが必須であると、あれこれ試行錯誤する中で学んだ。
つまり、身長にもよるが上半身分程度の平らな場所(およそ100cm×40cm)
がどうしても必要になるということで、かような面積を持つものは、
上記の中では湯船しかないという事になる。
ただ、湯船には幾らかの水分が残っており、他の部屋よりも格段に寒い為、
下準備と防寒対策を行わないと、体を壊す事必至であり、またそれらの
作業を行う気力も手立てもなかったため、結局椅子で寝た。

我が家の寝床はどう取り繕っても平らといえるような状態ではないが、
それでも友人が帰り、寝直した時には、平らな寝床への感謝のような
気持ちに包まれた心地であった。
ただ、その友人にしてみれば、相当に寝心地の悪い寝床だった可能性は
濃厚である。
個人的な記憶を紐解いても、相当にひどい環境下での野宿以外で、我が
家の寝床よりも平らではない場所で寝たことがない。
(なので最近は寝床を借りるたびに感動する)
…やはり引越しなのか…ッ。
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ゲームプレイ

2014年11月28日 23時14分52秒 | Weblog
月末ではあるものの『新世界樹の迷宮2』が出たので、購入、プレイする。
どんどん簡単になって敷居が下がる反面、スキルなどはどんどん複雑に
なって、スキルツリーと効果を一読しただけでは効果の分からないもの
ばかりで、その点は初心者殺しを貫いていると感じる。

ともあれ、まだ始めたばかりなので、生活を圧迫しない程度にプレイして
いくこととする。
そう言えば、動画サイトなどでは専ら作業用の音楽ばかりを聞くばかり
だったので知らなかったのだが、己のゲームのプレイを動画で配信する
人が増えており、それでそれなりに稼ぎも出せるような人まで居るという。
かなり前からあったそうだが、全然知らなかった。
他人のプレイを見ていても、格ゲーの名勝負とか、アクションゲームの
コンボ動画以外、大して面白いと感じない。

個人的には、いかにも素人という人がとりとめもなく解説しているのが、
どうにも照れくさく感じられ、それが敬遠の最たる理由と感じている。
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ようやく愚者

2014年11月25日 23時21分28秒 | Weblog
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という言葉がある。
個人的にも随分と反省する事の多いそれであるが、額面通りの意味以外にも
色々と推察の余地があると感じる。

経験に学ぶ、という事はやってみて(往々にして失敗して)学ぶという
意味であろうが、基本的に人間の価値観や思想を形成するのは、その体験や
経験であり、次に述べる歴史(知識)と比べても人にとって欠かせない、
かなり根源的な要素ではないかと考える。
そして歴史(知識)に学ぶということは、数多の先達の経験の濃縮上澄みの
ような、因果のエッセンスから、現状に照らし合わせて最適解を導き出す
ことと言え、応用的なそれは正しく行えれば汎用的で先見的なものに
なり得るだろう。

そして、そういった智慧の最大の利点は、付け外しが容易であるという点で
ある。古くなったり、使えなくなったり、より良いものが見つかった時に
上書き、上乗せが簡単にできるということで、一度身に付いてしまったら
容易に引き剥がせない経験と、ここが大きく異なる。
そう考えると、経験に学ぶ者は思考や新たな価値についての柔軟性を
欠く傾向が強まり、それをもって“愚者”と呼ばれるに至るのではないか、
とも思えてくる。

ただ、個人的には経験を踏まえ、反省や分析を行い、次に生かせるので
あれば愚者というほど愚かではないように感じる。
問題は学ばない者であろう。経験は反省なくして学んだとは言えず、
歴史も知っただけでは学んだとは言えない。
学ぶだけでも大変だ。
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長い目で見て何とか

2014年11月24日 23時04分14秒 | Weblog
最近のEテレは今までの『教育する』方針が若干変わったように感じる。
具体的には、『指導者の教育』と言う要素を追加したような印象で、
何を教えるかという他に、どう教えるか、教える以前の準備(具体的な
物の備え、計画、目的、工夫など)について示すものが増えた。

単純に教えるにしても、『ここはこういうものである』とただ解答を
示すのではなく、一度例題を示し、次に『ではこれはどうだろう』と
問いかけるような形式が増え、考えさせる(興味を惹く)ことを前面に
押し出した方針へと変化している。

個人的にそこに身を置いているということもあるが、特に技術職に関しては
新技術の台頭とそれまであった叩き上げの技術(者)との間に、半ば
断絶のようなものが出来てしまっており、つまりは『考え方は新しいが
実戦的な技術がない』人達と『実戦的な超絶の技術を持つが考え方が古い』
人達の相互関係のずれ、という図式に表せるのではないかと感じている。
ついでに言うと、そういった叩き上げの人間がしばしば資質と素養だけで
現場のもう一段階上のレベルでの指揮官に据えられ、現場の溝をより深く
している。

技術者という人間の性質上、指導や管理のスキルなど、そうそうアテに
してはならず、本来ならば戦線を退いた人達が正式に教育を受け、そうして
これらのスキルを身につけるのが望ましいだろう。
従来のように、師匠の下に少数の弟子をつけ、背中を見て学び、技は
盗め、というスタイルでは技術革新のスピードに追いつかなくなった為で、
技術者という観点から見ても、指導者や管理者としての正しいスキルを
持った人はなかなか育っておらず、個々人の“武力”が戦況を左右して
いるような状態である。

上で書いたような問題もあり、今は個々人の武力だけではもはやどうにも
ならない時代になっている。現場にあっては軍師や参謀のような人を
運用する専門家、そして指揮官を育成する専門家なしでは、どのような
ポテンシャルをもった集団であっても結局烏合の衆となり、犬死にという
結末が避けられないだろう。

育てもせずに使い捨てるのがエコだと思っている面々は、数年内に
ぜひとも淘汰されて頂きたい。
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補正まみれ

2014年11月22日 23時26分21秒 | Weblog
意識的にせよ無意識的にせよ、“期待”というものが存在すると、
往々にして正確な判断が下せなくなる。期待や希望的観測が、予測や思考や
現状認識に『×0.n』のような下降補正を発生させていると感じる。

先日、まさにそれを痛感するような出来事があり、100%これは間違い
なかろうとして臨んだことが、あっさり打ち破られ、個人的にしつこいと
思うほどに検証を重ねてみて、ようやく己に掛けられていた幻を払うことが
できたのが、そのきっかけである。
表向きにはそれほど期待はしていなかった事ではあったのだが、心の奥底
ではどうやら強く期待していたようで、まんまと騙された形となった。

以前に、個人的な概算や見積もりは大体どんぶり勘定で、実態の0.7倍
程度しか発揮されず(つまり、実際に100%にするためには、思った値より
およそ1.4倍強やる必要が生まれる)、これを『七掛けの法則』と勝手に
呼んでいるという事を書いたような気がするが、それに類するものであろう。

この七掛けの法則は常時発動型なので、常に注意しておけばいいのであるが、
期待による盲目的補正は、その期待が無意識的なものであることが多く、
その場合知覚が困難になる。全ての補正を考慮に入れ、余裕を十分に
持たせておけば万事問題無しであるが、万事がそのように計らえるとも
限らず、そうなると頼りになるのは『何かおかしいぞ』という違和感と勘、
そして他者の助言ということになる。

幸い上の三点について、個人的には十分に発揮されている、と感じている。
…がこの感覚も補正込みのものである可能性が高く、現実は良くて50%
程度発揮されている状態であろう。
違和感と勘は鍛えようがないので、他者の助言を強化するのが良策か。
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足代わり

2014年11月19日 22時56分41秒 | Weblog
少し前から、高そうな自転車に乗っている人が随分と増えたように感じる。
大阪や都市部での流行りなのか、全国的な流行なのかは分からないが、
多段変速を初めとして数多搭載されている機能が、平坦なここ大阪で
どれほど役に立つのだろうかと首を傾げたくなる。

自転車通勤などをしている人は、毎日のようにある程度の距離を走る
関係上、耐久力のある自転車が欲しくなるのだろうか。
実際、かつて学生だった頃、毎日数キロの行程を往復していたら3年くらいで
チェーンが切れたり、フリーがいかれて空転するようになったり、
タイヤが磨り減ってチューブが露出したり、前の篭が錆と振動で自然に
もげ落ちたりしたので、丈夫なものを、と言う気持ちは分からなくもない。
そう言えば父親も自転車通勤であったが、当時としては珍しく結構高級な
自転車を乗り回していた。

しかし、やはり学生時代に自転車を乗り回していた経験上、事故のリスク
については軽視できない。これまた実際、高校生の時に事故って顔面着地を
決めており、体重の増した今なら骨や首までダメージが来るかも知れない。
上等な自転車でスピードが乗っていたら、速度の二乗に比例したダメージ
上乗せで、大惨事間違い無しである。そしてやはり父親も自転車で
(通勤中ではなかったが)事故をやらかして大怪我を負っている。

何年か前には自転車を持っていたが、色々あって今は持っていない。
時々徒歩15分くらいのところにある店などに寄りたくなると、少しだけ
自転車が恋しくなったりもするが、やはり今住んでいる場所で生活するに
あたって、自転車は不要であるというのが結論である。

詰まる所、メリットに対してのリスクがでかすぎる。自転車を高級品に
してもそれは覆らない。メリットが増えるがリスクも増える。
大阪の道路は怖い。
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湯水の如し

2014年11月17日 23時35分00秒 | Weblog
少し前にタブレットを購入し、その後も何だかんだと購入したために、
今月は結構な出費であった。タブレットも、もの凄く高価と言う訳では
ないが、それで金銭感覚が若干鈍ったため、財布の紐が緩んだのだろう。

PCや、そのソフトや周辺機器にゲーム機など、大きめの出費を迫られる
場面と言うのは定期的に必ず存在するものではあるのだが、徐々にその
間隔が短くなってきているように感じられてならない。
ある道具を手に入れたことにより、連鎖的に発生する需要のせいなのか、
色々と便利になっていく世の中の流れがそうさせているのか、物欲が
麻痺してきているのか、本当のところは良く分からない。

どのみち、貯金の増加率が随分と悪くなった。給料は今まで程には増加
しない反面、税金やら物価は上がり、上で書いたように欲しいものは
増える一方と来ている。その他、そろそろ老後的なものを視野に入れて
いかねばならぬ。

節約…か。
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偶像なればこそ

2014年11月16日 21時55分12秒 | Weblog
資料収集という趣味の名の下に、ジュニア系のアイドル写真集を時々
買うのだが、当たり外れが大きい(ハズレが多い)と感じる。

その原因が表情や仕草の作り方で、プリクラや自画撮りの延長線かと思わせ
るようなそれは、いかにも(当の本人や撮る側は可愛かろうと思っている)
感がきつ過ぎて鼻につき、下品ですらある。
撮る側も、技巧や加工が前面に出過ぎていて、仕上がりがまるで
“お人形”のようになっているものが目立つ。

個人的には、撮る側撮られる側の『可愛いでしょ?』と伝える作為や、
お人形的な綺麗さはノイズでしかないと感じる。某漫画の台詞を借りる
ならば、上質な料理にハチミツをぶちまけるかの如き愚行、である。
非常な偏見であるが、人を専門的に撮るカメラマンはこれ以上ない位誠実か、
これ以上ない位“たらし”である必要があると考えている。中途半端はない。

つまりは、個人名を持つ人を撮る以上、その人となりを写真にするのが
カメラマンの役目であって、撮る相手との間に強い信頼関係を築く事が
まずその第一歩であろうと思う訳である。
“撮られている”という緊張と、親しい人にしか見せないような弛緩の、
谷間のような一瞬を捉えるのが一流カメラマンの仕事で、我々が見たい
のはまさにそれである。

この手のアイドル系のファンが、どのような気持ちで相手を見て、どの
ような期待を持って写真集やグッズを買おうとするのか、それは良く分から
ないが、一個人としての体温やにおいのようなものを感じたい、という
気持ちが少なからずあるのではなかろうか。
とすれば、技巧的で綺麗ではあるが、お人形を並べたかのような写真集
よりも、家族の撮ったアルバムのような稚拙ではあっても温かみのある
ものの方が、ファンにとっては嬉しいものなのではないか。
無論、付き合いたての大学生あたりが、自らの下半身的なプライ
ベートを撮りまくったようなレベルは行き過ぎであり、NGである。

やはりこの方面には疎いのだが、某アイドルグループが、ごく一部の
心無いファンのしでかした凶事があってなお、握手会を存続させたという
事実は上で書いた、温度のようなものを重要視している証左と言えるの
ではないか。

いくらアイドルとは言っても、化粧の延長でフォトショップ加工
しまくったり、その上表情が硬かったりすると、色々と台無し感が募り、
変に小ざっぱりと小奇麗に、技巧的にまとめた画面がそれを助長して
ひどくもったいない気持ちになる。
少し前に流行ったフェチ系の写真集であれば、むしろそれは良い方に
働いたと思うが、一個人を撮るには冷たく、硬すぎる。

きっと求めているのは、温かみのある偶像で、写真はそれを永遠に
留めなければならぬ。
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臥所を共に

2014年11月14日 23時40分35秒 | Weblog
街ではもう既にクリスマスの準備を始めており、めっきり寒くなった。
いきおい朝は布団から出られなくなる事が多くなり、仮眠のつもりで
入った布団からも脱出困難になることがしばしばである。
実際、先日もちょいと四半時間程度横になろうと入った布団から、最終的に
脱出できたのは四時間後であった。しかもその後また寝た。

こうしてある程度以上の睡眠を取るようになると、これまでの人生がほぼ
寝不足状態であったことことに気付く。
半ば極限状態の中でしか生まれないものも多いのは事実であるが、それらは
肉体的、精神的な健康を代償にしたものである。少なくとも今までのような
配分では、体が持たない状態と言える。
そして追い討ちをかけるかのように、睡眠時の時間当たりの回復量も
減りつつあるように感じる。

今後はさらに布団から離れられなくなりそうである。
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向き

2014年11月11日 23時13分09秒 | Weblog
その昔、上司が職場の休み時間に、椅子に座ったままの姿勢で真上を
向いて眠っているのを見て『何と首に悪そうな寝方であろうか』と
思ったものであるが、実際に自分自身でやってみると案外に具合が良い。
机に突っ伏して寝るよりも、寝ている時の負担はもちろん、起きてからの
首や肩周りの痛みも少ないように感じられた。一応、肩は凝るが。

机を前にし、椅子に座った状態であるから、そのまま前に倒れこむような
姿勢が自然かと思っていたが、負担の差という結果から考えると、上を
向くほうが下を向くよりも人間にとっては自然な格好なのかも知れない。

よくよく考えてみると、ヒトと近縁であるサルや哺乳類全般を概観して、
ヒトよりも標準の顔の向きが下向きな生き物は、まるで思い当たらない。
少なくとも顔が上向き(四足歩行時に前向き)の生き物が圧倒的に多い。
爬虫類や鳥類にまで風呂敷を広げて考えてみると、あの首の短さで顔面を
体幹に対して直角に向けるというヒトの基本姿勢が、いかに無茶であるかが
知れてくる。
手を器用に使うとか、非常に重くなった頭を支えるとか、他の生き物には
あまり無いような妙な注文に応えた結果が、かようにおかしな形状を作り
出した原因なのだろう。

ともあれ、実際はどうなのか分からないが、とりあえず椅子に座ったまま
寝るのは極力避けるのが賢明と言えよう。どうしても、と言うのならば
まずはそれ用の枕を探してからが良さそうである。
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