ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

昔のおはなし

2006年07月31日 23時42分42秒 | Weblog
ぼくはかつて美術系の予備校に通っていた。
歴史も実績もある大手の予備校だったせいか、そこには実に多くの
『いわくあり』な人々が集まっていた。

まず、年齢からして若い人は高2、上は30後半までと幅広く、
出身地も浪人生ともなれば北は北海道、南は宮崎までと、正に日本の縮図。

それに輪をかけて皆個性的で、
・僧侶の資格があるが、絵を描きたくて入学
・昼間は路上で流し。休日夜もたまにやってる
・知能も画才も優れているのに、とにかく鬼畜
・新しい素材を周りの迷惑も顧みず実践(撒き散らす)する人
・親しい人に『自分は才能がない』と嘆いて回る人
・耳が不自由で、筆談でコミュニケーション
・講師にやたらと喧嘩腰で接する
・特定の女の子を狙っている講師
・どんなに土砂降りでも傘をささず、風呂敷を頭に乗せてくる人
・画才に恵まれているが、人格が最悪で周りに敵ばかりの人
・自殺する人
・親が絵に理解が無く、食費すらなく皆にごはんを恵んでもらっている人
・無駄に歌が上手い人
・何の因果かイスラエルあたりにボランティアへ行ってしまう人
・やたらと独善的な人
・講師と出来ている人
・合格発表当日、仲が崩壊する女の子達
・気味が悪いくらい真っ直ぐな理想を抱いている人
・油画科なのに油絵具を使おうとしない人
・アトリエの一角でカビを栽培する人
・それを絵に活用しようと考えている人
・しばらく男だと思っていた、女の人(しかも結構美人だった)
・天災級に化粧の下手な人
・モデルの女の人を本気で口説く人
・得体の知れない埼玉県民。とにかく予測不可能

などなど。
多分まだあると思うけど、とにかくやたらに濃かった。

たかだか一年半かそこらしか在学していなかったけど、これだけ
多くの人達に触れる事ができたのは本当に幸運だったと今更ながら思う。

今の美術系予備校の状態は知る術も無いけど、きっと昔と変わらない
のだと思う。むしろもっとタチの悪い連中が増えていそうだ。

これを舞台にした話を作れば『ハチクロ』なんざメじゃありませんぜ。
大学の五倍は人間が濃いし、期間が限られている上に訳ありが多いので
三倍ロマンチックですよ。

それにしても、あの人たちは今どこで何をしているのだろうか。
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まずいものは味わってから隠せ

2006年07月30日 22時52分45秒 | Weblog
あるアニメを見ていて、疑問に思った節がある。

そのキャラはコンタクトレンズを落としてしまう。
その後色々あった後に発見するのだが、問題はその大きさ。

普通の人間サイズと同じなのである。

周知の通り、アニメキャラの目は現実の人間のそれの1.5倍~2.5倍あり、
コンタクトレンズもそれに合わせ3~4センチ位あるべきなのだ。

眼鏡の場合はアニメキャラの目の大きさに合わせて大体は
大きく描かれているのに、この差は何か。

確かに、普通の眼鏡のレンズ並みのコンタクトレンズを入れる姿は
想像するだけで痛い。そしてそのサイズでは、もはやコンタクトレンズ
として成立させ得る記号としての範疇を超えてしまっている。

ならば、どうするのが正解だったのか。

個人的には『描かない』のがそうだと考える。
要するにパントマイム的に、「あるもの」として表現してしまうのだ。
そうすればサイズがどうとか言う文句は減るはず。

記号的省略が暗黙の了解となっているものは、特にアニメ絵において
非常に多い訳で、(小鼻とかシワとか)これから新しく出てくるものに
対しての処理やら扱いやら、もっと考えていく必要があると思う。
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浦島症候群

2006年07月29日 22時05分15秒 | Weblog
三週間ぶり位に町にでた。

最近の休日は、雨やらゲームやらで専ら引き篭もっていたためだ。

とは言え、「夏だから海や山へ行こう」などという殊勝な考えには
至らず、ついでに夜間の隠密行動。
お陰で日にも当たらず、肌は白魚のような驚きの白さ。

さておき、町に出ると色々なものが様変わりしていて、
結構驚く。この驚きは、学生時代に橋本駅(京都のじゃないです)が
一夏で大変貌した時のそれに近かった。

しかし、人間は変わらない。いつものように
おもちゃと漫画を買って帰った。
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またゲーム

2006年07月28日 04時00分32秒 | Weblog
『戦国BASARA2』を買った。

何だか最近はゲームばかりやっている。
なお、『ペルソナ3』との共通点は、有名声優が
声を当てまくっている点であるけど、それが目当てだった訳ではない。

ともあれ内容は、最近珍しいくらいのバカゲーっぷり。
こういうハジケた、ある意味『野心作』が一応でも
受け入れられているのは良い事と思った。

はっちゃけ万歳。
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老婆心と夏の午後

2006年07月27日 01時35分08秒 | Weblog
最新号のジャンプを今更になって読む。

そこで新連載の『斬』が凄まじいまでのアレな空気を放っていて、
不安になり、腹が立った。
例えるなら、国際的楽団のオーケストラの幕間に小学生の
リコーダー演奏をやっているのを見ているような気分。

批評については他に譲るとして、またそれとは別に思った事がある。

学生(制服)+刀って最近多くない?

しかもそれを描く人に限って肝心の刀が適当だったりする。
見た目工夫するか、もっと調べてから描けば良いのに。

日常の中の非日常を表す小道具として、武器や兵器は大変手軽かつ
効果的だと思うけど、それゆえに皆が群がる事を忘れてはいけない。

次の流行はきっとアレだ。

・スーツ+チェーンソー
・スーツ+対戦車ライフル(又は重機関砲)
・制服+核兵器
・奥様ルック+BC兵器


でも、大事なのはそういった『設定』ではないと思うんだ。多分。

とりあえず、口直しに『シグルイ』を読んで寝よう。
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その日まで

2006年07月26日 04時10分23秒 | Weblog
同期と会話をした際の内容。

絵描きの『個性』を最終的に完成させるためには、
自分以外のあらゆるフィルタを通さないありのままを
ひたすらに描き、ただひたすらに描き、描き続ける。

ある程度描いたら今度はそれを一旦全部壊し、また描く。

そうこうしているうちにどうしても消せない自分自身の
『灰汁』が残る。それこそが個性であり、表現であると。

また、そこまで達しえた人はすべからく世に残る偉人と
なっているという事。

ぼくには絵を描く上で、そこまで高尚な考えには至れないかも知れない。
ただ、娯楽のための絵を供するのが関の山かも知れない。
徒にただ壊し、また作る事を繰り返すだけかも知れない。
それどころか、破壊する踏ん切りすらつかないかも知れない。


でも、いつかは至境に達し、何が残るのか見てみたい。

色々あるけど、それでもぼくは絵が好きなのだ。
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イマジネーション

2006年07月25日 03時39分16秒 | 絵関係
例えば、『絵にも描けないような風景』と言われたら
どんな風景を思い描くでしょうか。

人によって違えど、きっとそれは素晴らしいものと思います。

今も昔も人には『想像力』が備わっています。
それは文字や断片的な情報から引き出されるもので、人それぞれに
あらゆる現実を超えた認識を与えてくれるでしょう。

ぼくは、『想像力』がどれだけかきたてられるか、という事が
娯楽にせよ芸術にせよ重要な点だと思っています。

よって、全開よりも、開いてるのかどうか分からない位が良く、
写真のような全てが克明なものより、幽かに煙るようなものが良く、
動作を完了した格好より、動作を開始する直前の方が良いと思うのです。

まあ、人そのものに関しては、竹を割ったような、想像する余地も
無いような人格の方が個人的には好ましいですが。


そして、今回の絵ですが、この流れとは一切関係なく単なる趣味で。
何と言うか水合戦やりたくなったのでございます。

水風船全力投擲したり、水鉄砲乱射したりしたいなあ。
女の子が一人でもいればもう最高。戦場は天国に早変わり。

…。水鉄砲にお酒や醤油を入れるのは禁止ですよー。楽しいけど。


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続・ラノベっぽい

2006年07月24日 23時32分09秒 | Weblog
よく、語尾を特徴的にしてキャラを立てている場合があるけど、
あれは文字主体のメディアだけで通じる技だと思う。

昔のゲームのフルボイス版リメイクとか、ライトノベルのアニメ化
などでは、そのような傾向が顕著に見られる気がする。

映画は問題ないとして、アニメ、ゲームなどではまだ
メディアの特性を何も考えずにものを作っているのではないかと
思ってしまうような節がいくつかある。

ただ、漫画の場合、立ち位置が微妙で、テキストが前面に出ているなら
文字主体、絵が前面に出ているなら直感的情報主体と考えます。

ともかく、原作に忠実だとか、有名声優使っているからとか
そんな事じゃないと思うんですよ。

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ぶっちぎりアウト

2006年07月23日 04時07分02秒 | 絵関係
予告した土曜の分の絵を上げました。

…。手抜きとか言わないように。

確かに、普通の雨の中を表現するはずが、色の選択を間違えて
お天気雨、もしくは日傘みたいになってしまいました。

でも、これはこれで夏の風情なので良しとします。
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みえるという事。あるという事。

2006年07月22日 23時48分25秒 | Weblog
ぼくは仕事で3DCGをやっている。
ポリゴンとか、一般にCGと呼ばれるようなものだ。

CGにおいてものが見える原理は、空間上の任意の座標に三点以上の
『頂点』を指定し、その頂点を結ぶ多角形を『面』とし、
そしてその面の裏表(実際は頂点の情報に内在する)を更に指定する。

それがいくつも組み合わさって『立体』として成立する。
でもそれだとあくまでデータとして『ある』だけで、画面に表示する、
つまり『見る』ことが出来ない。

ライト(もしくは背景、環境などの外的干渉)を設置しないと
画面は一色のままで、立体どころか何の模様も現れない。

CGにおいて、ものはライトなどの外からの干渉がないと視覚できず、
視覚できないものはほぼないに等しいのである。


前置きが長くなったが、これは現実世界にあっても
全く同じである。外からの干渉無くして全ての『認識』はない。
色にしたって、外からの光の反射、吸収によって表れる。

心や個人といった概念でさえもそういったものだろう。
外からの干渉を最前線で受け止める所を『面』に、いろいろな形に
かたどられているだろう。

それは時にものに近く認識できるだろう。
でも思う。外の空間がものをかたどってはいるが、その本体は
一体何なのだろうか、と。

最初に話したCGは基本的に表面だけの存在で、中身はない。
自分の心や個人など、あると思っていたものが
実はなかった、いう可能性も否めない。

でも、そのものの形がどうとか、それがあるのかないのかなんて、
どうでもいいのかもしれない。外を取り巻く何かは確実に存在し、
ものを明らかにしている訳であるし。

取り敢えず、今この場では伝えたい事を完了できないので、
折を見ては補完していきたいと思います。

何だかすごく支離滅裂。
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