ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

世界の真ん中の外

2017年03月12日 23時05分43秒 | Weblog
ある時にふと、自分で嫁キャラを設定して、それを描き続けていけば、
それは永遠の恋人というか女神的な存在になるのではなかろうか、と
考えたことがある。 
描けば描くほど上達もするし、より魅力的にするために上達しようと
いう気も起きてくる。常に自分自身と共にあり、意にそぐわないことは
しないし、老いることもないし、先立たれることもない。

その時は、なるほどこれは結構なものだと思いもしたが、言うまでもなく
倦んだ状態によくある発想で、少ししてから『これは駄目だ』とすぐに
思い直すに至る。

何が駄目か、結局のところ己の枠を超え得ないという点に尽きる。
どこまで行っても自分の想定内でしかなく、予想外という事態が起こらない。

生き物がどうして番いになるのか、ということについて、他者と交わる
ことで多様性の獲得と、自らの抱えたリスクの次代への伝播確率を減らす
ことが出来る、という説があるように、"己の持っていないもの"を持ち込む
ことは生物的にも理に適ったことなのだろう。

ある漫画のあるキャラが、人は『安心』を求めて生きるという旨の台詞を
発していたが、個人的には人は『想定外』も求めて生きていると考える。
『想定外』はドキドキやワクワクを引き起こすものでもあるが、行き過ぎれば
理解の度を越えて頭に混乱をもたらすもので、いずれにしても『安心』とは
相容れないことの多い要素である。

こと異性に求めるものは突き詰めれば、繁殖という本能が根っこにある行動で
あるから、より個々人の求めるものが如実に表れるのではなかろうかと思え、
自分の場合は異性に求めるものが『自分に無いもの:想定外』だったと、
今更にして気が付かされたという、そんな話である。

もちろん『安心』を求める人も居て然るべきで、例えばアニメや漫画等の架空の
存在を伴侶として愛を注ぐことは、『安心』を突き詰めた結果の一つとも
言えよう。何が正しくて、何が悪いという問題ではなく、どちらがより濃く
現れるのかという、それだけの、そういう問題である。

なので、冒頭で書いたような、己の女神と共に切磋琢磨していく行為も、
合う人には合うだろう。一人では想定内の軛から逃れ得ないかも知れないが、
梵我一如という言葉もある。悟りや真理への道程は基本一人乗りであるから、
突き詰めれば、あるいはとんでもない結果に行きつくかも知れない。
コメント
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