ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

訳もなく

2012年10月31日 01時26分36秒 | Weblog
朝の寒さのせいか、大して寝付けず長い夢を見る。

ほとんど行ったことのない、しかも景色が違うはずなのに、なぜか母親の
実家だとわかる場所でおかしな出来事が続く。
今更ながらに、ぼくの見る夢は散文的で、前後や因果の関係が非常に
弱い。隣にいたはずの女性が、次に見た時には兄に変わっていたり、
往路と復路とで道が全く違うことなど至極当たり前である。
本質的に場当たり的なのであろう。

という訳で、今日ももう寝ます。今夜は夢を見ませんように。
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ものぐさ

2012年10月30日 01時41分42秒 | Weblog
朝起きたら首と肩に寝違えたような痛みが。しかし寝違えるような
環境ではなかったので、よくよく思い返してみると、寝る前に寝床に
突っ伏して、ノートにメモをしばらく取っていた事に思い当たる。
この姿勢をすること自体、思えばかなり久しぶりであるが、たかが10分
程度でこの体たらくというのは、いささか年齢というものを感じずには
いられない。

普段から思うことではあるが、寝ながらノートを取ったり、携帯ゲームを
プレイするにあたって最適といえる姿勢が、試行錯誤を繰り返してなお
未だに見つかっていない。仰向けになり両腕を天につき出すような姿勢は
腕が疲れるし、寝落ちした時に持っているものが顔に降ってくる。

うつ伏せの姿勢で、上体を肘で支え前腕で操作を行う、上記のような
スタイルは肩と首にダメージが来る。ついでに目が近すぎて良くない。

横向きに寝て、両腕を真横に投げ出す姿勢だと片方の腕が安定するために、
携帯ゲームのような硬いものには比較的向いているが、長時間続けていると
重みで手が潰れてくる上に、視線が横に向きっぱなしになるので、
目が偏ったような感覚に陥る。そしてノートのようなものの場合、後ろを
支えるものがないので、全く安定しなくなる。

ベッドのような高さのある寝台の縁から、両腕を地面に向かって出し、
寝台と同じ高さの椅子などを頭(額)にあてがうという方法も試して
みた事があるが、やはり寝落ちした時にひどい目にあう。
首がいかれそうになるのと、寝返りが打てず、手先に血が溜まる。

今のところ一番有望なのが、仰向けで寝て、上体だけを45°くらい
起こして腹の上にものを置くという方式。ただし問題は、あり合わせの
ものでは実現できないくらい設備が大掛かりになるという点と、
やっぱり首は疲れるという点。

座椅子みたいな感じで専用器具として売られていそうではあるが、
どうなのだろう。探してみようか。
或いは、より良い手段を求めてみるか。
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戦局

2012年10月28日 23時36分47秒 | Weblog
先日までの話題から一転、例え話でもしてみようかと思います。
ただし、例えの元に対してさして造詣が深い訳ではないので、ツッコミは
暖かめでお願いします。

という訳で、軍隊の話。
軍隊とは国が擁する集団であって、武力を行使したり防衛を行うといった、
力技や荒事を請け負うという認識を個人的には持っている。
その組織で具体的に何が行われているかは置いておいて、ここで問題と
するのは、彼らが職業でそれを行っているという事だ。
曰く、軍規や国際法に則り、作戦や命令に従うという、お役所仕事である。
当然、それを外れた行動はどのような成果を出したとしても原則として
処罰の対象になる。

兵隊という職業は一度前線に投入されたならば、己の戦士としての能力が
生死や作戦の成否を大きく左右する。ゆえに兵隊である以上は戦士と
しての能力を磨くような、武術や格闘技の素養を大きく歓迎する。
しかし、そういった技術が発揮されるのは極限状況下においてであり、
普段から発揮されるべきものではない。徒手空拳の世界チャンプだけで
構成された部隊があったとしても、彼らは銃をとり、軍規と作戦に則り
行動すべきである。あくまでそういった素養に期待するのは、往々にして
起こりうる不測の、かつ極限の状況下での生存率を高める為にであると
個人的には考える。まともな戦況であれば、部隊における個人の力量の
是非が問われる時点で、そもそもの作戦に問題があると言わざるを得ない。
平たく言えば、個人の能力に期待した時点で『博打』になる。

国が擁する切り札を用いてそういった博打を何度か繰り返すと、儲け
以上の損失を被っている事に気がつくはずである。つまり、そんな賭けは
国家の一大事のような、30年に一度あるかないか位の間隔でしか
やってはいけない事である。人道的な話を抜きにしても、その切り札
(エース)が育つまでに最低どれくらいかかったと思う?という話である。

いささか話が逸れたが、言いたい事は、兵隊における武術などの素養は
歓迎されこそすれ、それが主体とはなり得ず、あくまで極限状況下での
生存率を高めるための手段であるという事。
それと、そのような個人技に頼る部隊は軍の埒外(有り体に言ってただの
無法者集団)であるという事の二つ。

想像してみて欲しい。
『軍隊での重責ある仕事に心身ともに耐え切れません』と上官に辞表を
提出するも『体鍛えるとか銃撃つのとか好きでやってるんでしょ。
他にどこ行くの?』と突っ撥ねられる部隊を。実際の自衛隊でこんな事は
ないであろうが、何かがおかしいと思わないだろうか?
そしてさらなる問題が、この状況がほぼ『詰み』であるという事である。
精神科医に診断書貰ってきて休職の後フェードアウト位しか手が
浮かばないのだが、一体どうすれば良いというのだろうか。
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市内一周

2012年10月27日 23時16分45秒 | Weblog
先日より続けているローカル昔語りですが、今回でひと段落の予定です。
細かく書いていけばキリがないので、そういった外伝的エピソードは
また別の機会に書こうと思います。もちろん、これが好評であればですが。

さておき、わが青春の墓標たる、小規模百貨店から再開しよう。

件の店から少し行くと駅の反側出口に面した商店街に出る。前回に書いた
狭ぜまとした印象の駅前があった頃は、こちら側がメインストリートで、
家族で遠方に用事があった帰りなどに、この通り沿いにあるイタリア料理屋
や蕎麦屋で夕食をとっていたものである。ちなみに、幼少の頃は
イタリア料理屋ではスパゲティミートソースを、蕎麦屋ではざるそばを
必ず食べる子供で、他の物には何故か一切手を出さなかった所に、現在にも
通じる『動かざること山の如し』の片鱗が見えよう。

そんな通りを駅と反対方向に進む。後述する、通っていた高校が近くに
あった為、色々と思い出深い店がいくつかあるが、特筆すべきは
カラオケボックスとゲームセンターであろう。
前者は当時流行り始め、かつ娯楽を知り、経済も安定する高校生という
状況にマッチしていた為、それこそ何かあるたびに行っていた。
後者は上と同じような状況下で、しかし単独行動の際にお世話になった
場所で、100円で3枚のメダルを購入し、それでゲームをプレイでき、
ゲームによっては増やすことも出来たという、実にお得な場所であったが、
規模が小さすぎて、最新のゲームが望むべくもない点と、ガラの悪い
連中が屯しており、運が良い(悪い)と彼らによるストリートファイトが
観戦できるというおまけがあるせいで、敬遠されがちであった。
幸運にも、何年も通っていながらも、ひどい目にあうような事は一切なく
隣町のより条件の良いゲーセンを開拓するまでは相当にお世話になった。

商店街が切れる辺り、街道を渡ったその先に通っていた高校がある。
とは言っても、ストリートビューで見てみても不思議とあまり覚えて
おらず、奇妙な感覚にとらわれる。今でも高校の卒業式がまだ済んで
いないから、というような旨の夢をよく見るあたり、いわゆる暗黒時代
だったのかも知れない。

そんな高校のある通りをずっと進んでいくと、図書館、公園と通り過ぎて
行き、線路が見えてくるかというような所に小さな模型店がある。
前回書いたおもちゃ屋からレベルアップした少年が欲したものは、
おもちゃではなく、スケールモデル(プラモ)で、ガンプラなど一切
置いていないという硬派極まりない品揃えは、そんな少年の心を掴んで
離さなかった。とは言え、高校生位の頃には行動範囲が広がり、電車で
数駅先の模型店位にも余裕で足を伸ばせるレベルだったので、案外
ここで買い物をした回数は多くない。
しかし、店に入りその場から大して動けないほど狭い店内と、壁を
天井まで埋め尽くすほどに積まれたプラモの生み出す空間は、今でも
個人的な原風景の一つに数えられるほど印象深いものだった。
ちなみにそんな店内なので、自力でものを探さずに、店の主人に探して
もらうスタイル。昔はそういう模型店も多かったが、今ではもうほとんど
見かける事がない。実に残念である。

さて、旧自宅から始まり、駅方面へ抜けていったこの回想散歩もこれで
終了となります。読んでいて気がついた方もいるかと思いますが、
あくまでも場所が主体であるため、時系列はかなりバラバラです。
例えば、蕎麦屋でざるそばは小学校低学年くらいで、模型店のくだりは
小学校高学年くらいの話です。

少し書いているように、中学生中盤くらいから行動範囲が隣町から外に
移り、市内でどうこうする機会は減っています。
ただ、日々生活の中で移ろいゆく街の状況などは感じており、そういった
空気のようなものを感じ取って頂ければ幸いです。

明日からはいつものような話に戻ります。
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追憶町巡り

2012年10月26日 01時19分17秒 | Weblog
昔語りというと、何やら不吉なフラグを立てているような気がするが、
個人的には変な気を起こすつもりはありません。

さておき、故郷(過去)のコンビニの話である。記憶にある内で最古かつ
最寄りのコンビニは、普段の行動圏の反対側の県道の向かいに建っていた。
しかし、その当時の経済事情ではコンビニの品は高く、お使いなどの
理由がなければ足を踏み入れないような場所であった。余談ながら、
生まれて初めてのエロ本(ペンギンクラブ山賊版)はここで購入した。

そこから街道沿いに西(駅方向)に向かうと、やや大きな神社がある。
しかし、同じ敷地内に同じくらいの別の神社があるために、その差が
理解できず度々混乱を来すことがあった。
初詣でなぜ片方に列が出来ていないのか、実は未だに理解できていない。

駅方面に移ろう。
駅は住んでいた住宅地から徒歩で20分程度の距離にあり、しばらく前に
再開発も行われたりしたが、それ以前はパチンコ屋の電飾とその奥の
病院が印象的な狭ぜまとした印象の駅であった。
その駅前には、郷土史の教科書にも載っている昭和30以前からあるらしい
飲食店が未だに居を構えているが、一度も入った事はない。
その飲食店に面した道をまっすぐ行くと、今はカラオケ屋で昔は西友
だった建物がある。カラオケ屋になってから店内に入った時に、大まかな
レイアウトが西友だった頃と同じである事に気づき、懐かしい気持ちに
なった事もある。

その建物の近くに今はゲーム屋で、昔はおもちゃ屋だった店がある。
おもちゃ屋は奥にゲームの筐体が置いてあり、かの『ストⅡレインボー』
が動いているのも見た事がある。なお、親から買い与えられるおもちゃや
ゲームの過半数はここで購入しており、大変に思い出深い場所である。
それにしても、ゲーム屋になってから、結構しぶとい。今は隣に
似たようなものを扱っている店があるというのに。

そこから踏切を渡ったその先に、今はマンションで昔は小規模百貨店
だった建物がある。多分に漏れず、田舎におけるこういった大型商店は
様々な活動の中心となり得、実際買い物はもちろん、友人と遊んだり、
デートのような事をしたり、別れ話をしたりなど、青春時代の中核と
言っても過言ではない存在である。

という事で今夜はここまで。
果たして需要があるのか非常に疑わしい状態であるが、好評ならば
続けます。また、実際の都市名が分かったら、そっとウェブ拍手などで
お知らせください。
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昔語り

2012年10月25日 01時39分47秒 | Weblog
今夜はもうすぐ寝ようと思うので、この間ストリートビューを見ていて
郷愁に駆られた勢いから、眠くなりそうな故郷の話をば。

ぼくの生まれ育った町は、西武池袋線でしばらく行った所にある、
畑ばかりの場所である。乾燥した風の強い日には空の縁が黄ばみ、家では
窓を数センチ開けておくだけで、テーブルの上がざらつくようになると
言えば、その程度が知れよう。ついでに市役所の周りは北海道かと錯覚
する程に広々とした畑が広がっており、ついでに漂う酪農フレーバーが
野趣に追い討ちをかけている。

物心ついてすぐくらいに越した家は、当時雑木林を開拓して生まれたと
言われる新興の住宅地で、今考えると結構辺鄙な環境であった。
住宅地の中心を通る道沿いには電気屋、肉屋、花屋、パン屋、薬局、青物屋、
文具店、駄菓子屋、歯医者と小さなスーパーなどがあり、その先には
高校もあったが、今残っているのは電気屋とパン屋と駄菓子屋と歯医者
だけで、中には影も形もなくなった店もある。
それらの通りから少し外れたところの保育園に幼少の頃は預けられており、
迎えに来た母親がその足で上の店などに夕飯の買出しに行くのが日課で
あった。

その住宅地にコンビニができたのは比較的最近で、小学生くらいの時分には
コンビニというものがいたくハイカラのものだと感じられた。
なお言うと、小学生の時、風邪で学校を休んだ際に両親がどうしても
外せないという事で、祖母を留守番兼看病に呼んだ事があった。
その時に買ってきてくれた食べ物がマクドナルド(ロッテリアだったかも)
のチーズバーガーであり、しかも初体験の食べ物であった。
小学校低学年の、病気で弱った少年に食べさせるものとしての是非は
さておき、祖母としては元気付ける事と、若者に向いているだろうという
判断からこの選択になったのだと思われるが、案の定あまり食べる事が
できなかった記憶がある。その辺の記憶は曖昧であるが、ともかく
祖母との思い出では屈指と言えるものであることは間違いない。
話がいささか脱線したが、ともかくコンビニは遠かった。

いい具合に眠くなってきたので、続きはまた後日。
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増えたり減ったり

2012年10月24日 02時10分59秒 | Weblog
帰りの道すがら、自宅近くの大通りで車に轢かれた猫を見かける。
最近めっきりグロ耐性が低下したこともあり、目の端にも入れないように
通り過ぎる事にするが、見ないようにしている理由はもう一つある。

何でも、死に際した猫は同情や哀れみをかけた人に憑いていってしまう
という言い伝えがあるらしい。もちろん頭から信じている訳ではないが、
目にするのも嫌なのは間違いないので、とにかく気にしない事にする。
その後、通販の品物を受け取りにコンビニに出向く際に、ふと目を
やったら既にきれいさっぱり片付けられていた。
かなりの深夜だというのに、実に仕事が早い。

そう言えば、この辺りの猫が随分と増えた気がする。街並みに特に変化は
無いように見えるのだけど、何かしらの因果関係でもあるのだろうか。
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不至

2012年10月23日 01時12分25秒 | Weblog
先日東京に出かけた際、新幹線ではずっと寝ていたのですが、やはり
椅子に座って寝ても寝たうちには入らないと痛感しました。
椅子自体の質は良いのだけど、横にならないと無理だと思った次第です。

入社してまだ間もない頃、東京へ里帰りし、結局始発で帰ってそのまま
出社した事がありましたが、若さゆえの過ちの一言に尽きる有様でした。
ある程度若かった頃でさえこれなのだから、新幹線といえど、電車で
寝た時間はカウントしないでおくのが賢明と言えましょう。
11月の初頭にもまた東京に行く機会があるので、その時も気を付けようと
思います。

その他に、やはり今回の件で、手頃なサイズのバッグがない事にも気付き
急遽通販で半ば衝動買い的に買い物をしました。小さ過ぎず大き過ぎずを
主眼にして探すが、本などを入れるためのA4サイズの分を確保したせいか
気持ち大きめのような気がしてなりません。
と言うか、持ち主の体が日本人の平均から大きく下回っているのが
そもそもの問題。服にせよ、持ち物にせよ、乗り物にせよ、ある程度以上
上背がないと格好がつかない。
…つける格好など元々ないと言えばないのですが。
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強行軍

2012年10月22日 01時24分35秒 | Weblog
年来の友人の結婚式に行っていました。中学生の時から見知った人が、
花嫁と並んで、普段通りの緊張の面持ちで立っている姿に、一瞬視界が
潤みそうになる。
入社して以来、働く事しか頭になく、自然それしか身に付かなかった
ぼくの手にあるものは、昔からの友人と思い出とお金だけである。

親からもよく言われるが、出会いと呼べるものがない。あったとしても、
割と無下にフラグを折ってしまっているような気もする。
自覚する限りでも、一回は間違いなくフラグを折った。
他人に興味がない、というよりは他人に興味を向ける余裕すらない、
そして、余裕を生む術を知らないと言うのが大元にあるのだと思うが、
本当のところは自分自身でも判然としない。
相変わらず、迷ってばかりだ。
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ささやかな郷愁

2012年10月20日 23時27分19秒 | Weblog
近所の神社で祭が行われていたので、日が暮れた頃に散歩がてら見に行く。
ついでではないが、神頼みもしておいた。

そして、ふとした事から、ストリートビューで昔住んでいたあたりを
散策し、懐かしい気分に耽る。覚えていないようで覚えていたり、覚えて
いるようで覚えていない、そんな不思議な気分も含めつつ。
さらにはインターフェイスのなせる業か、親の自転車の後ろに乗って
見ていた景色をここで思い出し、ついでに何故わざわざ地図的に遠回りに
なるこの道を選んでいたのかについての回答が、およそ30年ぶりくらいに
出たりもした。詳細な場所の記憶はないが、物心付いたすぐくらいに
引っ越した前の家が近くにあったのだ。

東京に住んでいた時の家を引き払ってから、まだ10年も経っていないのに
この郷愁の大きさであるのだから、さらに20年とか経った日にはどうなるか
想像もつかない。
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