ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

よく出来た物語

2015年02月25日 23時11分19秒 | Weblog
先日打ち切りであると嘆いていた作品は『エクゾスカル零』である。
しかしあれからちゃんと読んでみると、打ち切りと断ずるには些か言葉が
足りなかったと感じたので、諸々の所感と共に記すこととする。

件の作品を開始するに当たって、作者はおそらく6割がた出来上がった
計画やテーマをもっていたと思われる。巻末には作者のコメントが度々
載せられていたが、それは作品や作品世界の解説と言うよりは自問自答
めいた、自分への励ましのようですらあった。
つまり、作者は作品の制作を通して残りの4割を埋めて、答えへと導こうと
考えていたと思われる。ただし、上記のコメントの内容から、その道は
かなりの苦痛と困難を伴うものであったことも伺える。

果たして、物語を通して答えは出た。
しかし、それはその作品を描かせるに至った動機や、その根幹にあるものを
覆してしまうものであり、実質続ける事が出来なくなった。
これが打ち切りに近い終わり方をした真相なのではないか、と個人的ながら
感じた次第である。

作品の内容的には、全てのテーマ的問いかけに対して答えは出している。
いくらか設定や物語的に回収していないところはあるが、十二分に作品と
して完結していると言って差し支えなかろう。

外的要因により作品が続けられなくなったり、広げた風呂敷を畳み切れなく
なって、不細工にまとめざるを得なくなったり、奇跡のアクロバティック
着地を決めたりというような打ち切り的展開のパターンはこれまでいくつも
見てきたが、物語が出した答えが作者や作品の根源的テーマをひっくり
返すという矛盾に直面して、“続けられなくなった”ケースは初めて
見たかも知れない。

こういう終わり方は何と呼べば良いのか。『パラドックス的エンド』?
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谷間

2015年02月23日 23時14分00秒 | Weblog
二月も終わりに近づき、にわかに暖かい日がやってくる。
すぐにまた元の寒さに戻るのだろうが、急に暖かくなると体調が乱れ、
ついでに春特有のあの慢性的な眠気もやってくる。

寒い所から暖かい所へと急に移ると、人間は想像以上に消耗する。
昔書いたが、寒い日のコンビニ行脚は、上記のような寒暖の往復ビンタ
状態であり、驚くほど体にこたえる。
気候レベルでそれをされるのであるから、色々と歯車がずれるのも
仕方のないことであろう。

とりあえず、さっさと寝よう。
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新しい火

2015年02月22日 23時19分29秒 | Weblog
かねがね思っていたことであるが、通勤中など、電車内での女性の
スマホいじり率の高さは正直異常である。スマホが便利なのは良く分かるが、
なぜ四六時中触っている必要があるのか。そんなに楽しいのか。
個人的には何か薄気味悪く感じられてならない。

周りから『薄情者』と評されるほど他者との関わりが薄い身空であるから、
適度に距離と時間を置いてこその人間関係と考えており、なればこそ
滅法やたらに他人とやり取りすることに違和感を覚えるのである。

大体、人間関係における信頼など、ただ時間をかければ上がるというような
ものではなく、何か大きなものをさらけ出すような動きや事件がない限り
深まるものではない。時間は結局その可能性を上げるための手段であるが、
言葉主体のぬるいやり取りの中では、かような動きなどそうそう起こり
得まい。

何かありそうだが、特に何もない。ただ時間を共有しただけであるが、
さりとて油断は出来ないので牽制や防衛線の確保を怠る事が出来ず、
気苦労は絶えない。当然抜ければそのコミュニティから弾かれてしまうと
いう、言わば無理ゲーのような状況で、だとしたら結構な不幸ではないのか
と思う。
こういったものを見るにつけ、ある程度不便な時代に生まれた事への
感謝のような気持ちと、これからどうなるのかと言う恐怖のような気持ちが
同時に湧き上がってくる。
今の問題も含めて、これから何とかするのは我々の役目なのであるが。
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見えない力

2015年02月21日 23時40分52秒 | Weblog
数年間追い続けていた漫画が、打ち切りエンドを迎えることの悲しさよ。
下手に長くダラダラ続くよりは、冷静に考えればずっと良いのであるが、
いかんせん瞬発的なダメージのために、少し落ち込む。

美女に死ぬまでやさしくチョークスリーパーかけられるのと、
プロレスラーに本気のしっぺを食らうのと、どちらがより嫌かと言う話で
あろう。打ち切りエンドはまさに後者である。命に係わらないが、痛い。

話は変わり、先週から引き続きジブリのアニメを観る機会に恵まれた
訳であるが、今回の『風立ちぬ』を観て、この監督さんは目に見えない
ものをアニメーションで表現する事を目指し続けただけなのかも知れない
とふと思った。

録画したので明日もまた観るつもりであるが、印象的だったのは風と、
人の心の機微、そしてモノの壊れる表現であった。
風や心が目に見えないのは当然として、モノが壊れるのも“破壊されていく
モノ”ではなく“モノを破壊へ導く何か”をつぶさに描いているように
見受けられた。

つまり、膨大な量のコマを費やして描いているものは、表象ではなく
表象をそうさせる、内から外から関わってくる見えない何かなのでは
ないかと思った次第である。

だから飛行機でも、何となく空に浮いて飛んでいるのではなくて、
大きな風を受けて、それによって揚力を得て、そこに推進力を足して
それでようやく飛べているのだ、と今更のように気付かされる。

思い返せば昔からのジブリアニメでも、そういった傾向はあったが、
今回は特に顕著だったように思える。引退作品だったから、そういう
作家としてのエゴを全て投入したのか…というのは考え過ぎか。
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流れが自然とは限らない

2015年02月18日 23時26分20秒 | Weblog
長い事サラリーマンをやっていると、なぜか他の誰かの教育であるとか
評価であったりとかを任されることがある。職場での長らくの経験や
知識を買われたり、積み上げてきた信頼の結果であったり、より己の
評価を高めるためのチャンスであったり、或いは破滅の罠であったり、
諸々の都合がそこにはあるだろう。

別にそつなく出来るのならば世話はないが、仕事が出来るから教育も
出来るだろうとか、仕事が出来るから評価も問題なく行えるだろうと、
半ば自然の流れのように導くのはいささか無理がある。
人にものを教えるのも、評価するのも、その人の本分である仕事と同じく
それぞれがそれぞれに独立した分野で、当然得手不得手があるはずである。

本分である仕事は人一倍出来るのに、うっかり不得手な教育に手を広げた
ばっかりに、部下をクラッシュさせて現場に損害を与えたり、職場での
印象を悪くした結果、給料にダイレクトアタックを食らうなどという
ことがあっては、目も当てられない。
かと言って『チャレンジした結果だから、その意気を買って何も言わずに
評価しちゃうネ☆』などというのは、評価という機構が死んでいる状態で
あり、より悪い。

色々と省略して言うと、教育や評価のような重大な仕事をなし崩し的に
兼業、習得させる(つもりになる)のは大変よろしくない、という話である。

学校の先生でも大体担任が評価(通知表作成)を行っているが、あれも
しっかり評価についての教育や技能研修を受けた、素養ある人が本来
行うべきだと言えよう。(評価の素養のない人間はそもそも担任に据える
べきではない)

『仕事が出来る人が、他人に上手く教えられる人とは限らない』という
ことは比較的馴染みがあるが『上手く教えられる人が、正しく評価
できる人とは限らない』ということは、あまり認識されていない印象が
ある。人手が少ないからといって、バックアップもなしに色々兼業や
技能習得させるのは、正直無茶と言え、誰も幸せにはならぬ。

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物理的裁き

2015年02月16日 23時22分28秒 | Weblog
我が家のPS3のコントローラが時々言う事を聞かなくなる。
ただ単に沈黙するだけならばまだ良いのだが、LかR、もしくは十字キーの
いずれかがホールドされたような状態に突然なるのが実に忌々しい。

少し前にも同様の兆候を見せていた時があり、その際怒りに任せて思い切り
叩きつけたことがある。それから不思議と具合は良くなったのだが、
また最近になってぶり返してきたという話である。
先の叩きつけの際、外見上のダメージは皆無であったが、振るとチャリ
チャリと音がする事に気付く。どうやら中で何かが破損しているらしく、
そいつの居場所次第でコントローラがおかしくなるようだ。

コントローラに狼藉を働いた時点で買い替えは覚悟の上であったので、
いよいよどうにもならなくなったら潔く買い替えようと思う。
己の行為を正当化するつもりはないが、最近のゲームのコントローラは
どんどん繊細になってきてしまっており、少々寂しい気持ちになる。

床や地面に叩きつける、膝や肘の一撃を食らわせる、持った状態で頭突きを
見舞う、噛み付く、左右の手で捻り折る、等々※、ゲームプレイで降り
かかった怒りや悲しみを晴らす(受け止める)対象として、コントローラの
果たす役目は思った以上に大きかったのではないか。
※あくまでも一例であり、実例ではないことに注意されたい
今のゲームは比較的怒りを呼びにくい親切設計になっているとは言え、
こういった物理的要因も含めてのゲームであり、ゲーム機ではなかろうか。

HORIあたりが、いかなる打撃系物理ダメージも吸収してしまうような、
それでいて叩き甲斐のある柔らかコントローラなどをいずれ開発してくれる
ことを願うばかりである。
本当はそうならないに越した事はないのだろうが、NINGENだもの。
是非も無し。
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御前試合

2015年02月15日 22時52分28秒 | Weblog
今更のように白状すると、『崖の上のポニョ』をこの前初めて観た。
上映時から方々で(主に奇妙すぎるという方面で)物議を醸してきた記憶が
あり、それなりの覚悟の上で観たのだが、最後に観たジブリ映画『ハウルの
動く城』よりずっと面白く、すっきり入ってくる作品と感じられた。

ああいった少年少女が、子供の世界の理の中で、夢の中を冒険するかの
ような話というのは、どうも個人的好みのツボにはまるようで、先の
評価にも贔屓がかなり入っていることは断りを入れておきたい。
同系統の作品として『わたしは真悟』などが挙げられよう。

それにしてもジブリのアニメーションの実に小気味よく動くことよ。
売りである海やその波の表現はもとより、群れた魚の動きとか、人間の
細かい様々な所作や表情など、観ていて感嘆を禁じ得ない。
週間ペースでやっているアニメが、いかに極限までそぎ落として作られて
いるのかがよく分かる。
どちらもどちらで、いずれが劣るというような事はなく、それぞれが
それぞれに最適かつ高度に進化していったという印象で、それが昨今の
消費社会において娯楽を提供していく一つの完成したスタイルなのでは
ないかと思わせる。

つまりは、早さと軽さが売りのものと、質と満足感が売りのものの
両刀で臨むというスタイルである。主に前者で資金的なものを確保し、
後者で制作サイドの技術向上や意欲的なものを投入したりする方針で。

アニメの世界ではほぼ確立した感のあるスタイルであるが、他の世界でも
似たような事は出来そうな気がする。特に進歩が目覚しい分野では、
早さを求めて質を捨てた結果、最先端技術に疎くなるという悪循環が
発生しがちであるから、特に重要な問題と言えよう。
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かもかも

2015年02月13日 23時27分18秒 | Weblog
あらゆる事に共通して言えることかも知れないが、『あるかも知れない』と
思える状態というのは、人にとって毒である。
あるとも言えないし、ないとも言い切れない。目下捜索中という感じで
あるが、その探索行は往々にして暗夜を行くが如く、遅々として進まず、
進んでも危険が多く、それでいて見返りの保証はなく、むしろハズレを
引くことの方が多いという、実にろくでもない状態である。

つまり、間違いなく多大な時間と労力を浪費し、しかしそれがほぼ実らない
という、今の世にそぐわない超貴族的贅沢と言えよう。
せめて『何が』『どこに』『いつ』の要素のうち、二つくらいははっきり
させた上で取り掛かりたいものである。
探す事に意味がある、とか、あるかも知れないを突き詰めた結果に大きな
ものを得たというような事例ももちろんあるが、あれは宝くじを当てる
ようなもので、それをアテにするには壮絶な覚悟が必要である。

基本的には今手の届く、目に見える、五感で感じ、確信し得る、はっきり
した何かを足がかりに、パズルのピースを一つづつ組み上げる要領で、
出来得る範囲と共に“ある”と知り得る範囲を拡張していくのが定石
なのだろう。
あるかも知れない、と己の不確かな感覚と見識だけで飛び込んでいくのは、
闇夜の海に明かりも持たずに出て行くようなものだ。
ただ、それが人の世を開拓してきた歴史もあるので、頭ごなしに
やるなとは言わないが、せめて人知れず海の藻屑になる(する)覚悟だけは
しておいて欲しいと思うばかりである。
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それは身売りの如く

2015年02月11日 23時23分03秒 | Weblog
ゲーム雑誌などをざっと眺めていると、キャラクターのデザインの方向性に
ある程度の属性というか、分類のようなものが見出されると感じる。
具体的に分類できるほど数を見て、調査分析を行ったわけではないが、
その属性の中には個人的にはどうしても好きになれないものもあり、
俄かに興味を抱く。

例として、ここ最近増加傾向にあると感じるキャバクラ的な雰囲気を
醸し出すデザイン方向性であるが、個人的にダメなのが正にそれである。
とは言え、それを好む層がいるのも事実であるから、こういった好みは
人の食に対しての好みと同じく、多種多様に存在するのが当然であり、
自身の嗜好を変えないまでも“そうである”ということはしっかり認める
必要があるだろう。

ならば、それを踏まえて、もっと多様性に富んだデザインの方向性、
あるいはユニクロのような、無個性をして万能性とするスタイルの方向性が
群雄割拠するのかと思いきや、個人的にはどうもそうなってはいないと
感じる。有り体に言うと、やや下品な方向に偏っているのではないか。

何と言うか、もう少し隠したり、仄めかす程度であるような、多くを
語らない、しかし第一印象のインパクトは十分にある、というような
デザインがひどく減った。古い言い回しになるが、もう少し自分を大事に
してくれと言いたくなるようなものが増えた。
そして果たして、そういったデザインはあっという間に消費され、消えて
しまうのである。それは色々ともったいないことだと、そう思う次第である。
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指先と嵐

2015年02月09日 23時07分15秒 | Weblog
先日のカレー漏れの件で、使えそうな紙皿をウェブ通販で探したら
あっさりどっさり見つかった。ここのところ、近所のコンビニやスーパーで
適当にものを買う→いまいちだったのでウェブ通販を当たる→劇的に
良いものが手に入ってホクホク というような事態が多く、嬉しい反面
少々複雑な気持ちになる。 
何と言うか、これでいいのだが、これでいいのか?という気分。

とはいえ便利なものは便利で、近所の商店街の閉店の嵐が止まないのも
むべなりという話である。近所の商店街で日用品以外で最近買ったものと
言えば、サンダルと半纏くらい(ただし愛用している)である。

ただ、それらを買った店がまだあるかどうか、それは分からない。
そもそも近所に“お気に入りの店”というような存在がない。かような
調子であるから、商店街もシャッター化が止まらないのだろう。

『もしも仮に、このウェブ通販の決定ボタンを押す度に、どこかで店が
一軒潰れるとしたら、きみはどうするかね?』

『気にせず押すねッ』
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