ぼくは河豚を食べられるようにした人と、毒キノコを分類した人達を
尊敬しています。いずれにおいても想像を絶する犠牲の上の成果と言えましょう。
のっけから唐突ですが、『不気味の谷現象』という言葉に最近興味を
覚えました。
不気味の谷とは地名ではありません。元々はロボット工学の言葉です。
“人間を模したもの”に対する人間の好感度は、それがより人間らしさを
増すにつれ上昇するといいます。
しかし、ある一定のラインを超えてしまうと、好感どころか人間でないもの以上
の嫌悪感に変化してしまうそうで、さらにそれを超えた『ほぼ人間』に
達すれば嫌悪感は解消されるそうです。(そこまで現実に達したものは無く、
あくまで理論の話)
それにより描かれるグラフのラインを指して『不気味の谷』と呼ぶ訳です。
最近はCGやロボットなどの表現技術や機械的技術が向上し、人間の
有史以来の野望たる、神の領域に足を踏み入れる―人間を無から創造する事
が見えてきた感があります。多くの人が様々な方法で『人造人間』の
人間らしさを競いあっています。
ただ、個人的にはまだまだ人間に『不気味の谷』を超える事は出来ない
と思っています。ピクサーの映画のように、CGで人間を表現するに
あたっても、多分のデフォルメを織り交ぜて現実的ではないが、現実味のある
絵作りをするのが賢いやり方ではないかと。
しかし、多くの業界では半ば無謀とも言える『不気味の谷』を超える為の
決死のジャンプが日々行われています。
実際に多大な犠牲が既に築かれ、しかしそこから得たものもまた多く、
やがては人類は『不気味の谷』を超える事に成功するでしょう。
つまり、現在は河豚の食べ方や毒キノコの分類などが進行中の状態と
言えるわけです。人々の、後世に残る挑戦の歴史の今まさに只中に
我々はいる訳です。ただ、こういうものは企業が売り物でやるべきではなく、
研究室の中だけか、デモンストレーションの為だけに作るとかに
留めるべきだと、正直なところ思います。
今は『死なない程度の毒キノコを仕方なく供している』所が非常に多く
見受けられる感があるので。
尊敬しています。いずれにおいても想像を絶する犠牲の上の成果と言えましょう。
のっけから唐突ですが、『不気味の谷現象』という言葉に最近興味を
覚えました。
不気味の谷とは地名ではありません。元々はロボット工学の言葉です。
“人間を模したもの”に対する人間の好感度は、それがより人間らしさを
増すにつれ上昇するといいます。
しかし、ある一定のラインを超えてしまうと、好感どころか人間でないもの以上
の嫌悪感に変化してしまうそうで、さらにそれを超えた『ほぼ人間』に
達すれば嫌悪感は解消されるそうです。(そこまで現実に達したものは無く、
あくまで理論の話)
それにより描かれるグラフのラインを指して『不気味の谷』と呼ぶ訳です。
最近はCGやロボットなどの表現技術や機械的技術が向上し、人間の
有史以来の野望たる、神の領域に足を踏み入れる―人間を無から創造する事
が見えてきた感があります。多くの人が様々な方法で『人造人間』の
人間らしさを競いあっています。
ただ、個人的にはまだまだ人間に『不気味の谷』を超える事は出来ない
と思っています。ピクサーの映画のように、CGで人間を表現するに
あたっても、多分のデフォルメを織り交ぜて現実的ではないが、現実味のある
絵作りをするのが賢いやり方ではないかと。
しかし、多くの業界では半ば無謀とも言える『不気味の谷』を超える為の
決死のジャンプが日々行われています。
実際に多大な犠牲が既に築かれ、しかしそこから得たものもまた多く、
やがては人類は『不気味の谷』を超える事に成功するでしょう。
つまり、現在は河豚の食べ方や毒キノコの分類などが進行中の状態と
言えるわけです。人々の、後世に残る挑戦の歴史の今まさに只中に
我々はいる訳です。ただ、こういうものは企業が売り物でやるべきではなく、
研究室の中だけか、デモンストレーションの為だけに作るとかに
留めるべきだと、正直なところ思います。
今は『死なない程度の毒キノコを仕方なく供している』所が非常に多く
見受けられる感があるので。