ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

何かを描けるということ

2017年01月31日 23時29分34秒 | Weblog
個人差はあるだろうが、『股座(またぐら)』がちゃんと描けているかどうかが
エロ漫画作家の絵の上手さをはかる上で一つのポイントになるように思える。

言わずもがな、そこを描かずしてエロ漫画はエロたり得ないという、非常に
重要な個所ではあるが、幾分骨格や形状の把握が難しい場所である上に、変に
形式化された描き方が幅を利かせているのか、個人的に違和感を覚える描写が
多いと感じる。

人間の顔や胸などからして現実から大きくかけ離れているので、その個所も
それに倣って現実離れした形状であるというのは、特に異論はないし、むしろ
エロの方向に向かって大いに現実離れすれば良いとすら思う。
しかし、上で述べたような変な形状の股座はエロさを煮詰めたようなものでは
なく、どこか出涸らしのようなぞんざいさを漂わせる描写であり、もう少し
(最近は資料が至極簡単に大量に手に入るのだから)研究しろよと言いたくなる。

折角描けるスキルがあって、しかも好きで描いているのならば、もっと表現とか
描写のスキルとか、デフォルメの抜き差し加減とか、本当は思うままのはずなのに、
どうして判で押したような、使い古されて、しかし完璧でもないものをなぞる
だけを良しとするのか。
個々人の趣向を煮詰め過ぎた余りに異形と化したり、猟奇に踏み込んだりしている
のもあるが、そっちの方が余程気骨がある。(個人的にはちょっと胸焼けするが)

思うに、エロの成分は記号化から離れることでその趣がより濃厚になる。
とは言え全てを記号化から離してしまうと、ファンタジー的な性質を損なうように
なるので、配分が重要になる訳であるが、そこは作家性に依る所であろう。
若い人向けに敢えて"薄味"で提供するための、一つの方策という見方も出来なくは
ないが、別に記号化に頼る必要はある訳でもなく、あっさりとした描写法を
模索すればよいだけの話であるから、やはりどうしても下手にデフォルメされた
股座は『腕の見せ所で手を抜いた怠慢』のように思えてならない。

エロ絵を描く動機はむしろそういった不満を自ら解消するという所が大きい。
描いててこんなにも楽しいのに、勿体ない。  世には出せないけど。
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休日のダラダラ

2017年01月29日 23時09分46秒 | Weblog
最近は仕事が忙しくなり、休日もほとんどが家の中でダラダラしている
だけになってしまっているが、それもそれで気が倦んでくるので、近くを
散歩する。もう程なく二月ということなのか、たまたまなのか、随分と
暖かくなり、春の訪れを感じさせた。帰りに結構雨に打たれたが、その雨も
冬のそれではなく春のそれであった。

天気予報を見ると、暖かかったのはやはりたまたまで、少ししたらまた寒い
日々に戻るらしい。実際今までの経験上、寒さのピークは二月の半ばである
から、油断は出来まい。それどころか大きな寒暖差は体調の崩れを容易に
誘発するので、ここから五月の初めくらいまでが、風邪に対して最も気を
使うべきシーズンと言えよう。

そして、金曜の夜くらいに考えていた、休日にやるべきことをいつも忘れて
おり、それを日曜の夜に思い出すというのをもう数か月くらい繰り返して
いるような状態である。そういえば靴が腐臭を発し始めたので、適当な
スニーカーでも買おうと思っていたのだった。

来週のいつになるか分からないが、無理にでも少し早く上がって、
帰りがけにでも買うか…。(そしてまた次の週へというパターンになりそう)
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念高じて鬼生ず

2017年01月26日 23時34分24秒 | Weblog
『細部に神は宿る』というような言葉があるが、考えてみると別に
オカルトめいた話でも神秘的な話でもなく至極当然のことと感じる。

例えばある作品があるとして、その完成度を0から10までとした場合、
9から10までにかかる時間(手間や苦労)は、0から9までのそれと
同じくらいかそれよりも勝るのが常であるからで、上で言う所の"細部"は
往々にして9から10のところに含まれるからである。

具体例をいくつか挙げてみる。
プラモデルがあるとして、その"細部"を補完するパーツは、それだけで
本体よりも高くつくものが殆どである。
フィギュアも、細部を端折ったものがゲーセンなどのプライズものとして
出ているが、それの大体の価格(中古屋などでの額ではあるが)は、通常の
完成品フィギュアのおよそ1/8から1/10程度である。

中には例外もあるだろうが、ざっと見た限りでも、細部を詰めるであるとか、
気の利いた一アイテムを足すということがどれだけ高コストか分かるだろう。

ただ問題は、想像以上の手間がかかるという事実を知らずに、完全に
信仰として細部を有り難く感じている手合いが結構な数存在していることで、
それが時に作家を無駄に消耗させる事態を招いている。

そういった手合いは"手抜き"を親の仇のように忌み嫌うが、手抜きも有意の
ものであれば一手のうちであることを理解していないことが多い。
どこに手を入れるかも作家性の内であるならば、どこで手を抜くかも作家性の
内で、10人作家がいれば10の異なる手法が見られるものであるから、
それもまた味の一つとして捉えるべきであろう。

そして手抜きの無い、全てに手を入れた作品などは存在しないと考えた方が良い。
もちろんそれを要求してもいけない。それはすなわち作家性の否定に他ならない。
商業作品であるならば、納期や利益面も考える必要があるから尚更である。

なお、個人的には神と言っても、宿るのは西洋的な全知全能とかそういう
存在ではなく、東洋的なシャーマニズム色の強い、よく祟る方のそれの
イメージである。信仰があるから辛うじて神と呼ばれているが、性質的
には"鬼"と呼んだ方が相応しかろう。
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また物欲

2017年01月24日 23時39分59秒 | Weblog
もはや発作か癖かというような頻度で沸き起こる物欲間欠泉。
今回のブツは、ここ最近の冷え込みに関連して『ハクキンカイロ』である。

件の代物は、今や一般的な使い捨てカイロが普及する前から
使われ、今でも根強い愛好者がいるという信頼の一品で、実用一点張り
の道具に弱い身空としてはとても気になり、こうして欲の皮が突っ張り
始めたという訳である。持ちや安全性の良さ、ゴミが出ない、熱量が大きい
など、使い捨てカイロに勝る利点が多いのであるが、個人的に一つだけ
問題があり、熱を発生させるための反応のきっかけとして火を使う必要が
あるという点がそれである。

そのカイロ自体は発火の危険性はごく低く、そこは良いのだが、一瞬で
あってもあまり裸火を扱いたくないという個人的なわがままと、そのために
わざわざ(他に使い道のない)ライターを買う必要をあまり感じないという
二点が、購入にあたって尻込みをしている原因である。

いつものように、ウダウダやって結局買わないという流れのように、買わ
ないための方便をどうにか取り付けているだけなのかも知れないが、
裸火を使わずに点火できるタイプのものが無いか、ひとまず探してみようと思う。

出先などで使わないのであれば、家のガスコンロで点火するのもアリか…。
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咀嚼するばかりにあらず

2017年01月22日 23時35分56秒 | Weblog
数週間分撮り溜めしていたアニメを観ていたら休日が終わった。

気分転換兼休日の"儀式"として、今まで洗濯がそこに当たっていたが、
掃除(部屋に掃除機をかけるだけ)も追加することにする。
まだ習慣となるには重ねた回数が少ないが、うまく定着してくれれば
形だけでももう少しばかりはまともになるだろうと思われる。

話は変わり、最近のエロ漫画では男性が極端に女性に甘える上に、
女性側も過剰に母性を発揮し甘やかすスタイルが確立してきているようで、
色々と末期的だと思いつつも、そこに至る背景など、興味深く感じる。
世の中に浮き上がってくるものは、誰かが過剰にゴリ推したものか、
多くの人の願望や欲求が元気玉のように集積されたもののいずれかで
あるという認識で、いずれにせよ理由なく世に出てくるものはない。

その他にも、キャラの目の描写において、三白眼や四白眼がなぜ
女性(作家)にやたら好まれるのか、その辺も常々不思議に思っている。
不思議と言えば、個人的にエロ漫画において行為に至る端緒として
よくある"ヒロインが可愛気のある仕草や言行を発する"を受けて、
男性側の発する『あーもう可愛いな』『クッソ可愛すぎだっつーの』的な
発言がどうにも嫌いなようで、さりとて何でそれがそこまで嫌いなのか
良く分かっていない、という所も不思議だ。

色々な不思議や謎が後から後から浮いてきて、考察したり調べたりして
いるうちに世の中は流れていってしまい、確信や答えのようなものを
見つける余裕もない。或いはビールを飲むように、あまり味わわず、
のど越しを楽しむくらいがちょうど良いのだろうか。

その時の不思議は不思議のままで、今の謎も謎のままで。
五年後においてもまだ引っかかるような不思議や謎でない限りは、
解いても解かなくてもあまり変わらないのかも知れない。
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ある種の試練

2017年01月19日 23時44分36秒 | Weblog
引越し前に予約した品が、旧住所に配送されており、残念な気持ちになる。
おそらく法律やセキュリティの関係で一旦配送されたら、もはや変更は不可能
ということで、返送(キャンセル)されるのを待つ状態。
そして買い直す必要があるので、残っているかどうかも運次第。

しかし、それを買ったところでは、配送先は基本的に注文時のものになるという
旨は特に明記されておらず、送り先の表示もアカウント名だけが出るので、
一見して分かり辛く、配送完了のメールが来て手遅れということに気が付くという
何とも言えない仕様である。
これまた何かしらの縛りがあって、こういうシステムにせざるを得ないのかも
知れないが、住所の変更があった際は『これって配送先違ってるけど大丈夫?』
というような注意を促す仕組みがあれば良いと思った。

契約であるとか、そういった側面からみれば、今回の件はこちらのうっかりが招いた
過失と言えようが、個人的感覚から言えば腑に落ちない。
こういった縛りを生んでいる、契約とか法律とかが無ければもっと大変な
ことになるのは分かってはいるのだが…。 やっぱりマヌケは生きていけぬ。
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欲求との生活

2017年01月17日 23時33分33秒 | Weblog
引越しからもう結構経ったというのに、物欲は衰えず、さりとて購入には
至らずカタログを舐めて終わりということが続いている。

物欲というものは食欲などの他の欲求に似たところがあるのか、ある程度の
"峠"を超えると波が凪ぐかのような小康状態に入る。本当に必要であるのならば
そのようなことにはならず欲求がむしろ増すため、そこで判断するように
している。そのために、何かしらの欲求が生じた際に、一旦待つのが癖に
なってしまった。

ひとまず、生じた欲求の波をいったんやり過ごすという方策は、それなりの効果を
伴っており、少なくとも財布には優しい。とはいえ、欲求は欲求なので、みだりに
押さえつけると無理が生じ、長い目で見た際には良くないという可能性は十分に
あり、我慢のしどころかどうかについては悩むところでもある。
フィギュアと本についてはなるべく欲求に忠実に動くようにしているので、
最低限のバランスは取っているつもりであるが、これからどうなることやら。

鬱屈した物欲が爆発したら、家とか買ったりしかねないので、要注意である。
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他人の数だけ私あり

2017年01月15日 23時17分35秒 | Weblog
学生の時分所属していたサークルでは、皆あだ名で呼ばれていたが、
今にして思うと結構理に適っているように感じる。
普通に名前で呼ぶとやや堅苦しい感じになったり、照れ臭かったりするのを
回避できるので、人とのコミュニケーションが不得手でも入りやすいし、
往々にして他人からの評価は名前の呼び方に現れるものであるが、それが
顕著になりやすい。

あだ名は基本的に自他との合意の下に名付けられるものであるが、
いつの間にか本人の希望から若干逸れたものになっていたり、複数存在して
しまうこともままある。その他に、頼りになる人にはあだ名から更に"さん"
付けで呼ばれたり、親しみやすい人には"ちゃん"付けで呼ばれたり、
そういうのもある種の変化と言えよう。
それはつまり、他者の評価が反映されやすいという特性から生じた事態では
なかろうかと考える。

あだ名とは、親から与えられる(公的な)ものではなく、あるコミュニティに
おいて他者との協議によって生じるものという点が特殊で、人によっては所属
コミュニティに応じて呼ばれ方が違うこともあろう。
そういう意味で、あだ名はいわゆるペルソナとほぼ同等の存在のように思えてくる。

この社会において、公的な名前は一種の責任として、背負ったり使ったり
しなければならない。太古より名前というものには、この世で肉体と魂を
結び付ける契約の証のような、神性が具わると言われてきているが、とにかく
特別なものであることは現在でも何ら変わりがない。
前置きが長くなったが、そういう公人であることが求められないような場
(つまり、より個人としてありたいと望む場)にあっては、より積極的な
あだ名の使用を推奨していった方が、色々と良いのではなかろうかと思った
次第である。あだ名で呼んだり、あだ名を付ける行為は子供っぽいと思われがちで
あるから、中々推進は難しいかも知れないが、社会で生きて行く(社会的責任を
負う)以上、むしろ大の大人にこそ仮面が必要と言えるのではなかろうか。
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進むばかりにあらず

2017年01月12日 23時35分09秒 | Weblog
巷ではもう節分やらバレンタインやらの雰囲気を漂わせてきており、
未だにおとそ気分の抜けない身空をして冷水を浴びせられたような心地になる。
個人的には、季節などただでさえ放っておいても激烈な速さで過ぎていくもの
なのだから、もう少し惜しんだりゆっくり迎える動きがあっても良いのでは
なかろうかと思ってやまない。

時季外れとなり安くなった季節のものを買いあさり、個人レベルで過ぎた
季節をお得に惜しむというのもオツなものではあるが、もう少し全体的に、
せめて余韻を楽しむくらいの余裕があっても良いのではなかろうかと思う
次第である。今の世の中は、停滞するものは須らく死すべしと言わんばかりに、
とにかく滅法やたらに留まらずに進み続けることを美徳としている節がある。

仕事とか、生活が懸かっているような場面では止む無しということもあろうが、
なればこそハレの日とも言うべき祝日や祭りの時くらいは、浮世の憂きことを
忘れるために、停滞や後退をしても良いのではないかと思う。

成人式で殊更にはっちゃける新成人もそういう目で見れば、ある程度は温かな
眼で見ることが出来るのではなかろうか。基本的に真面目になったのは良いが、
羽目を外すべき所もそれなりに用意しておかないと、窮屈に過ぎると感じたり、
何かの拍子に羽目を外してしまったときに大惨事になったりするので、
もっと無駄やら非効率を愛する気持ち、もしくはそれが可能な環境を大事に
した方がよいと考える。
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上手く使えれば便利

2017年01月10日 23時37分36秒 | Weblog
引越しの時にブラウン管テレビを処分したので、家にあるファミコン
(悪魔城伝説専用機)が遊べなくなった。
そして、PS3に録画したアニメをいつか見るだろうと、現状PS4の隣に
置くだけ置いているような状態だが、これらの状況を一掃すべく、
『HDMIセレクタ』と『アナログからHDMIへのコンバーター』を購入することを
思い立つ。

ただでさえPS4のゲームに久しく手を触れていない状態で、ゲームなどやるのか
という疑問が浮かぶが、それでもいちいちケーブルを差し替える手間がなくなる
ので、上の機器の値段次第ではプレイ再開のきっかけになるかも知れないという
淡くそして甘い期待の言葉で、己を奮い立たせる。

とりあえず浮かぶ問題点は、レビューなどに書かれている遅延の問題と、画面比率
(ファミコンは正方形の画像を4:3の画面に引き伸ばしているので、普通に出すと
上下に細長く感じる)の問題か。他にも多分まだたくさんあるだろうが、やって
みなければ何とも言えぬ。

この手の機器はどういう訳か、導入後総じて残念な結果に終わることが多く、
そのせいもあって若干尻込みしている。あともうちょっと調べて、検討してからの
購入としたい。
本とか家具の類ならば、多少当てが外れても問題なく使えたり、足しになったり
するのだが、デジタル系の機器は当てが外れると全く使い道のないガラクタが
出来上がるので、精神的ダメージがでかい。
細々としたものだと売るのも難儀するので、人にあげるしかなくなる。
なので、ここは慎重すぎるくらいがちょうど良かろう。
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