ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

文体とか

2012年09月29日 23時33分02秒 | Weblog
土曜日が完全に休息専用の日となってしまったゑのです。『寄生獣』の
ミギーのように、習性として定着してしまう日も遠くないかもしれません。
さておき、先日予告していた『文体について』と参りましょう。

“文体の一致”というのは文を書く上で結構重要なことだと思うのですが、
国語の教育上ではそれほど重要視されていないように思われます。
実際、高校までの国語の授業でそれについて言及された事はごくわずか
で、テストにも出ず、こういった手記形式の文を添削される機会もあまり
なかったと記憶しています。
なお、文体の一致が既になされていない当ブログにおいて、このような
内容を書く事についての是非は、この際問わないでください。

他人に何かを伝える事と、記録に残す事の両立として、文章がある訳ですが、
メールやブログなど情報化が発達して以降、爆発的にそれを必要とする層が
増えたと考えています。
文とは何かを伝える手段であり、少なからず表現の技術を要求されます。
往々にして、誰かが新しい表現を見出し、フォロワーがそれを広めたり、
洗練させたり、符丁としたりする流れで、これは絵画や音楽等、色々な
ものに当てはまるものだと思います。

国語の教科書に載っているような文学に影響を受けた国語の教師が、やはり
それの影響を受けた現代の作家に感銘を受けた中学生などを誉めそやし、
そうやって連綿と何かが続いていくのだと思っています。ただ、やはり
上に書いたようにきちんと添削する人がいなければ、それはあらぬ方向に
歪んでいくだけで、社会や本当に正式に必要とされる場において、ようやく
それに気がついて矯正を受けるハメに陥ります。
言葉遣いや、対人マナーなど一般的なものから、職業絵描きや職業作曲家
など、非常に多くのものがそれに当てはまるのではないでしょうか。

ただ、世間の風潮として“学生までは自由にやらせて良いよネ”“後から
ちゃんと教えればいいし、それは自分たちがやるから”というものが
昔からあるようで、何ともおおらかであると感じてやみません。
それが良いか悪いかは別としても、きちんと運用されていなければ破綻
して、駄目な事になってしまうのは明らかで、そしてついでに言うと、
このサイクルがここ最近弱まっているような印象を受けます。

上に書いた“学生まで”が無期限に延長されているような状態とでも
言いましょうか。そうなると、一体誰が教える事になるのでしょう。
そして、いずれは誰が教えられるのでしょうという話にもなりかねません。

文体という出発点から、いささか脱線を繰り返しましたが、基礎と
それをきっちり教える事のできる人は非常に大切です、という無理やりな
結論をもって着地点としたいと思います。
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