RPGにおいて重要人物が死亡することでストーリーが大きく転がり…という
展開は良く見られるが、普段の戦闘で死んだり復活したりと、とかく死という
ものが軽い世界にあってはドラマ性に乏しいと感じてやまない。
一部のゲームでは死亡がない代わりに戦闘不能や気絶になっているものもあるが、
そんなゲームに限って小学生でも分かる程の殺意を放つ名前の魔法や、塵も残さず
焼却するような剣呑極まる魔法が目白押しという謎。
『ダンジョン飯』ではそこが上手く扱われていて、とかく死が軽い世界観においては
誰かが死ぬ程度では物語は全然転がらない。ただ、復活魔法が行使できない状況では
緊張感が一気に高まるので、退屈さは無い。そもそもとして、いかにもな感じの
ねっとり重い物語は意図して軽く語られるのが本作の味で、これをゲームでやって
しまうとおそらく甘く、軽過ぎると感じられてしまうと思われる。
映画とも違う、漫画ならではの特性を把握して、その上で胃もたれせず、しかし飽きの
来ない味付けにしているのは、実に達人芸と言えよう。
ゲームの場合は、能動的に物事を進めていける代わりに物語的には明らかに余白とも
言うべき、稼ぎや探索の時間が存在していて、その積み重ねがもたらす退屈さを一気に
吹き飛ばすようなカタルシスがストーリーの展開的に求められるから、いきおい重要人物が
死ぬとか、裏切るとかというような、こってりでパンチの利いた、マヨかけ牛丼のような
味が頻繁にお出しされる。
それが本当にライブ感的な、場の温度を上げるためだけの勢いによるものならば、むしろ
納得なのであるが、昨今は味わいつつも考えることの出来る土壌が整っているために、
食べたものに何が入っていたのか、どんな調理がなされたのかそれを知らずにはいられない
のである。そうなった時に適当に放り込まれたマヨネーズに疑問を抱く寸法である。
そう、欲していたのはあくまでも満足感のあるものであったはずで、こってりもマヨも
そのための選択肢の一つに過ぎないということ。ところ変われば品変わる。
死が軽い世界ならば、その世界ならではの重い出来事は必ずあって、そこを突くことで
読み手側の心を良い感じに抉って、忘れられない夢物語を与えうるのではなかろうか。
展開は良く見られるが、普段の戦闘で死んだり復活したりと、とかく死という
ものが軽い世界にあってはドラマ性に乏しいと感じてやまない。
一部のゲームでは死亡がない代わりに戦闘不能や気絶になっているものもあるが、
そんなゲームに限って小学生でも分かる程の殺意を放つ名前の魔法や、塵も残さず
焼却するような剣呑極まる魔法が目白押しという謎。
『ダンジョン飯』ではそこが上手く扱われていて、とかく死が軽い世界観においては
誰かが死ぬ程度では物語は全然転がらない。ただ、復活魔法が行使できない状況では
緊張感が一気に高まるので、退屈さは無い。そもそもとして、いかにもな感じの
ねっとり重い物語は意図して軽く語られるのが本作の味で、これをゲームでやって
しまうとおそらく甘く、軽過ぎると感じられてしまうと思われる。
映画とも違う、漫画ならではの特性を把握して、その上で胃もたれせず、しかし飽きの
来ない味付けにしているのは、実に達人芸と言えよう。
ゲームの場合は、能動的に物事を進めていける代わりに物語的には明らかに余白とも
言うべき、稼ぎや探索の時間が存在していて、その積み重ねがもたらす退屈さを一気に
吹き飛ばすようなカタルシスがストーリーの展開的に求められるから、いきおい重要人物が
死ぬとか、裏切るとかというような、こってりでパンチの利いた、マヨかけ牛丼のような
味が頻繁にお出しされる。
それが本当にライブ感的な、場の温度を上げるためだけの勢いによるものならば、むしろ
納得なのであるが、昨今は味わいつつも考えることの出来る土壌が整っているために、
食べたものに何が入っていたのか、どんな調理がなされたのかそれを知らずにはいられない
のである。そうなった時に適当に放り込まれたマヨネーズに疑問を抱く寸法である。
そう、欲していたのはあくまでも満足感のあるものであったはずで、こってりもマヨも
そのための選択肢の一つに過ぎないということ。ところ変われば品変わる。
死が軽い世界ならば、その世界ならではの重い出来事は必ずあって、そこを突くことで
読み手側の心を良い感じに抉って、忘れられない夢物語を与えうるのではなかろうか。
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