何かにつけて平等であることが求められる昨今、しかしどうにも互いの
意見が平行線で交わらないといった事態も多く、どうしてなのかと考えて
みた所、そもそも何を平等にするのかという観点が複数あるのではないか
という仮説が立つに至る。ある二者が同じテーマで論じているつもりが、
実は解釈や認識が双方で異なっているのではないかという話。
他にもあるかも知れないが、まず何となく浮かんだのが感情的平等と理論的平等
の二つ。感覚的に帳尻を合わせるのか、質量的に釣り合いを取るのかという事であるが、
まず平等論の出発点が感情的な所から来ていて、それを広く理解させるために
理論で説明をつけているので、元々最初の時点から混ざっていると言える。
とは言え、その二つは不可分ではないから、時にそのバランスを欠いて偏った意見が
発生し得る。元々の成り立ちを理解せずに、原典を暗記したような感覚でいると、
その偏りは大きな誤解にも派生しかねない。
ともあれそうして生じた偏りや誤解に気が付かずに、互いに正義は我にありと譲らず、
平行線の戦いを繰り広げるのである。
本来何のために始まったことなのか、誰の為にやっているのか、その辺りを見失い、
果ては自論を正当化することが目的になっていたり、さらには意見に反する者を根絶やしに
することが目的になったりすると、もはや目も当てられない。
こういった行動は自己実現の手段では断じて無いし、自分にしかできないなどと思うのも
ひどい驕りと言っていい。
こうはなるまいと肝に銘じつつ、全部混ぜてドブ色にしたりとか、偏り切って他を排斥するとか、
『これをやっておけばOK』的な特効薬や銀の弾丸めいた万能の一手などを信じず、
時と事情と相手によって都度考えて、頭をちぎれるほど捻って、時に諦め時には逃げる。
そうやって在りたいと願う今日この頃。
意見が平行線で交わらないといった事態も多く、どうしてなのかと考えて
みた所、そもそも何を平等にするのかという観点が複数あるのではないか
という仮説が立つに至る。ある二者が同じテーマで論じているつもりが、
実は解釈や認識が双方で異なっているのではないかという話。
他にもあるかも知れないが、まず何となく浮かんだのが感情的平等と理論的平等
の二つ。感覚的に帳尻を合わせるのか、質量的に釣り合いを取るのかという事であるが、
まず平等論の出発点が感情的な所から来ていて、それを広く理解させるために
理論で説明をつけているので、元々最初の時点から混ざっていると言える。
とは言え、その二つは不可分ではないから、時にそのバランスを欠いて偏った意見が
発生し得る。元々の成り立ちを理解せずに、原典を暗記したような感覚でいると、
その偏りは大きな誤解にも派生しかねない。
ともあれそうして生じた偏りや誤解に気が付かずに、互いに正義は我にありと譲らず、
平行線の戦いを繰り広げるのである。
本来何のために始まったことなのか、誰の為にやっているのか、その辺りを見失い、
果ては自論を正当化することが目的になっていたり、さらには意見に反する者を根絶やしに
することが目的になったりすると、もはや目も当てられない。
こういった行動は自己実現の手段では断じて無いし、自分にしかできないなどと思うのも
ひどい驕りと言っていい。
こうはなるまいと肝に銘じつつ、全部混ぜてドブ色にしたりとか、偏り切って他を排斥するとか、
『これをやっておけばOK』的な特効薬や銀の弾丸めいた万能の一手などを信じず、
時と事情と相手によって都度考えて、頭をちぎれるほど捻って、時に諦め時には逃げる。
そうやって在りたいと願う今日この頃。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます