ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

理想を追うということ

2024年09月08日 23時55分49秒 | Weblog
何かにつけて平等であることが求められる昨今、しかしどうにも互いの
意見が平行線で交わらないといった事態も多く、どうしてなのかと考えて
みた所、そもそも何を平等にするのかという観点が複数あるのではないか
という仮説が立つに至る。ある二者が同じテーマで論じているつもりが、
実は解釈や認識が双方で異なっているのではないかという話。

他にもあるかも知れないが、まず何となく浮かんだのが感情的平等と理論的平等
の二つ。感覚的に帳尻を合わせるのか、質量的に釣り合いを取るのかという事であるが、
まず平等論の出発点が感情的な所から来ていて、それを広く理解させるために
理論で説明をつけているので、元々最初の時点から混ざっていると言える。
とは言え、その二つは不可分ではないから、時にそのバランスを欠いて偏った意見が
発生し得る。元々の成り立ちを理解せずに、原典を暗記したような感覚でいると、
その偏りは大きな誤解にも派生しかねない。

ともあれそうして生じた偏りや誤解に気が付かずに、互いに正義は我にありと譲らず、
平行線の戦いを繰り広げるのである。
本来何のために始まったことなのか、誰の為にやっているのか、その辺りを見失い、
果ては自論を正当化することが目的になっていたり、さらには意見に反する者を根絶やしに
することが目的になったりすると、もはや目も当てられない。
こういった行動は自己実現の手段では断じて無いし、自分にしかできないなどと思うのも
ひどい驕りと言っていい。

こうはなるまいと肝に銘じつつ、全部混ぜてドブ色にしたりとか、偏り切って他を排斥するとか、
『これをやっておけばOK』的な特効薬や銀の弾丸めいた万能の一手などを信じず、
時と事情と相手によって都度考えて、頭をちぎれるほど捻って、時に諦め時には逃げる。
そうやって在りたいと願う今日この頃。
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