ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

包丁は人に向けるな

2015年07月24日 22時40分39秒 | Weblog
『まずは非暴力にてつかまつる』というような言葉があるが、以前から
ここで書いているように“暴力”という言葉は非常に曖昧ながら力のある
言葉なので、もう少し取り扱いには注意した方が良いのではないかと
思ってやまない。

暴力とは、適切ではない強さでふるわれる力であって、相対的、感覚的
概念であるために、具体的にこれ以上やったら暴力ですよという線引きが
かなり曖昧な存在である。
多くの人にとって、もっとも分かりやすい暴力である殺人も、状況如何で
正当“防衛”とみなされる場合もあるし、男性が女性に手を上げるという
ことも、やはり状況次第と言えよう。
そしてやっかいなことに、暴力という言葉自体がかなり強力な言葉であり、
人の心や行動に大きな強制力を発生させる。その強さは、下手に暴力だと
発することが暴力として判定されてしまうほどであるから、使用に
おいては細心の注意を払わねばなるまい。

その言葉は往々にして、当事者側が発して然るべきものかも知れないが、
上記のような性質を持ってしまっているがために、第三者が審判して、
結果として下されるのがあるべき姿のように思える。
ケンカしている二名がいるとして、彼らの個々の状態や能力は彼らにしか
分からず、相手の攻撃に対しての損害もやはり受けた側にしか分からない
ので『奴の攻撃は暴力だ』と、言うのは当たり前の流れのようにも思えるが、
その主張は自己の正当性を主張し、周囲を見方に引き込む売り込み行為で、
立派な“攻撃”であるということを忘れてはならない。

誰か中立の立場にある人が、客観的に状況を調べ、できるだけ公正に審判
した上で、初めて暴力だったという言葉がでる可能性がある、というレベル
である。
そういう観点からすると、冒頭にて書いた、まずは非暴力にてつかまつる、
というのは、そこらヘんの遊んでばかりいる高校生が根拠なしに『東大
入るから人生全般問題ござらぬ』と言っているのと大して変わらない。

基本的に、決めるのは我々ではない。それ以前にやるべきことがあろう。
コメント
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