こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第29主日(マルコ10:35-45)「そのまま」で価値を持っているもの

2021-10-16 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/17(No.1144)
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年間第29主日(マルコ10:35-45)
「そのまま」で価値を持っているもの
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年間第29主日の朗読箇所に登場するヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受けた時、自分たちをその右と左に座らせてくださいと願いました。先週ペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10・28)と念を押した場面と重なります。

実に人間くさい願望ですが、将来の安心に繋がる言葉を、弟子たちは欲しがっているのです。世に言う「論功行賞」みたいなものですが、見方によっては弟子たちがイエスに取引を持ちかけているようにも見えます。

「これだけのことをしたのだから、これくらいはもらえるだろう。」すでに今週の出来事までに、イエスは三度もご自分の死と復活を予告しておられますから、弟子たちの置かれている状況はより切迫しているわけです。「私たちも死ななければならないのではないか。」それでなおさら、ヤコブとヨハネは約束を取り付けたかったのでしょう。

イエスに危険が迫る中、弟子たちが考えていたことをもう一度確かめましょう。何を欲しがったのでしょうか。私はこう思います。「そのままで価値を持っているもの」これが欲しかったのではないか。そしてヤコブとヨハネが考えついたのは、「イエスの右と左に座らせてもらうこと」だったのです。

ところで、「イエスの右と左に座らせてもらうこと」は、そのままで価値を持っていると言えるでしょうか?例えば中田神父が、大司教様のミサで、右に座れるとしましょう。「私の右にどうぞ」と言われてミサの間右に付いた。大司教様の右と左は、確かにずっと注目してもらえますが、そのことだけで価値があると、言えるでしょうか?

もし大司教様の右に付いていても、他の司祭たちから、「ちょっとどいてもらえますか」と言われるならば、何の価値もありません。右に付いているということは、例えば祭壇ではカリスやパテナを大司教様にお渡しするはずですが、それもしないでただ突っ立っているなら、明らかに迷惑なだけです。

もっとそのままで価値を持っているものを人は求めるべきです。イエスはそのことを戒めようとして、弟子たちに全く違うものを示したのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10・43-45)

これこそが、イエスの眼に、「そのままで価値ある行い」「価値ある存在」です。理解してくれる人や身内にだけ仕えるのではなく「皆に仕える者」です。感謝してくれる人にだけ僕となるのではなく「すべての人の僕」となることです。これはこの世の物差しで測ることのできる「仕える者」「僕」を超えなければ、到底たどり着けないかも知れません。

参考のために、この世の物差しで測れない生き方をした人を紹介します。10月はロザリオの月ですが、1日の聖人は「幼きイエスの聖テレジア」でした。この聖女はカルメル会の厳しい生活の中に身を置きましたが健康に恵まれなかったために通常求められる「祈り、かつ働く」という生活ができませんでした。そこで修道院長から命じられたのは「雑用係」と「日記を付けること」でした。

彼女が果たした務めはささやかなものでしたが、「小さなことを、大きな愛を込めて」果たしていました。彼女が亡くなった時、一緒に暮らしていたどの姉妹も、彼女の偉大さに気付かなかったそうです。見た目には小さな務めしか果たせなかったからです。しかし後に日記が印刷され、一般の人の目に留まり、読んだ人から修道院に一日何百通もの手紙が届くようになったのです。

9年間という短い修道生活でした。身体の健康も含め、生きている間に何ももらえませんでしたが、神は彼女が果たした「皆に仕える者」「すべての人の僕になる生き方」を見過ごしはしなかったのです。これは、「皆に仕える者」「すべての人の僕になること」この生き方がそれだけでそのまま価値があることの証明ではないでしょうか。

世の中に、「皆に仕える者」「すべての人の僕」はたくさんいるでしょう。しかしカトリック信者は、その中でさらに「イエスが示した物差しをわきまえている人」であるはずです。わたしたちはカトリック信者として、この世の物差しに適合した「皆に仕える者」「すべての人の僕」を超える生き方を示すことが可能です。可能なら、実行しましょう。そして本当に偉大なことは何かを、世に示すことにしましょう。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10・42-45)

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(マルコ10:46-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼昔書いたことがあるかも知れない。100歳を迎えようとしている母親の葬式を出すことになった喪主が、司祭館に電話してきた。「聖堂に飾る花は、教会は何組まで受け付けるか?」「だいたい一対でしょうね」続けてこう尋ねてきた。「一対でいくらぐらいね?」「値段もいろいろでしょう。交渉してみたら?」何だかおかしいと思い始めた。
▼「曖昧なこと言わずに、はっきりいくらか教えてくれ」「私は分からないから、花屋に聞いてくれ」すると慌てた声で「え!おたくは花屋じゃないとね?」「司祭館の神父だよ」「失礼しました」そこで電話は切れた。この時中田神父は「皆に仕える者」「すべての人の僕」になれていただろうか。
▼久しぶりに雨が降っている。ずっと雨が降らなかったので、きっと喜ぶ人もいるだろう。

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今週の1枚
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第751回目。まぐれと言うべきか、間違ってかかったと言うべきか。青物が釣れた。

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† 神に感謝 †
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