こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)私たちは最後の拠り所としてイエスを信じた

2021-10-23 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/211024.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/24(No.1145)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日(マルコ10:46-52)
私たちは最後の拠り所としてイエスを信じた
‥‥‥†‥‥‥‥

年間第30主日まで年間主日が進んできました。小学5・6年生には、年間は第33主日まであって、そのあと「王であるキリスト」の祭日がやって来て年間の主日は終わることをお勉強しました。年間の主日もあと一ヶ月です。

今週の「盲人バルティマイをいやす」物語の鍵となるのは、「バルティマイの声は、イエスを立ち止まらせた」ということだと思います。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。」(10・49)では叫び声が、イエスを立ち止まらせたのでしょうか。

叫び声そのものが、イエスを立ち止まらせたのではないと思います。群衆はバルティマイが「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶのを聞いていますが、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」(10・48)とあり、立ち止まって彼の望みに耳を傾けようとしていません。バルティマイの声は、人々によって黙殺されようとしていました。

しかしバルティマイは叫び続けます。叫び声だからイエスの足を止めることができると考えていたのかは分かりません。ただ、バルティマイにはほかに方法がありませんでした。そしてこの機会を逃せば、二度とチャンスは回ってこないと考えていたはずです。

イエスは立ち止まってくださり、バルティマイを呼びます。彼の声はイエスの心に響いたのです。彼の声はイエスの足を止める力があったのです。大声ではない何かがイエスの心に響いて、イエスに呼ばれました。その何かとは、何でしょうか。

中田神父は今年の初め頃から、ミサの様子を収録して、動画を公開し始めました。一定程度の人が、このミサの動画を視聴してくださっています。人数はそれほど気にはしておりませんが、飛び抜けて視聴数の多かったミサ動画があります。それは今年の5月22日、聖霊降臨のミサ動画で、148回視聴してもらっています。

どのミサ動画も、ほとんど45分くらいで、特別なことをしているつもりはありません。むしろ最近のミサ動画のほうが、手の込んだ動画のつもりです。しかし今に至るまで、三桁の視聴にたどり着いたことはなく、後にも先にも、これが一度だけでした。

YouTubeの動画も、この世に溢れるほど流れています。たぶんミサの動画だけでも、目移りするくらい見かけるようになってきました。そんな中で中田神父が用意したミサ動画が人々の目に留まっているだけでもありがたいことですが、なぜか聖霊降臨のミサだけが、148回も視聴されたのです。何かが心に訴えかけたのでしょうか。何が、人々の足を止めたのでしょうか。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(10・52)イエスは、バルティマイの信仰が、ご自分の心に響いて足を止めたことを公言しました。イエスの足を止めるのは、大声ではなく、彼の信仰だったのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)この言葉しか、彼の信仰を伺わせる言葉はありませんので、ここから読み解くしかありません。バルティマイの信仰はどのようなものだったのでしょうか。

そこであらためて朗読箇所を読み返すと、彼はイエスに呼ばれると「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(10・50)とあります。バルティマイは道端に座って、物乞いをして今日まで生きてきました。上着は彼の最後の拠り所だったでしょう。雨風をしのぎ、暑さ寒さから身を守り、もらったお金を保管しておくために必要な、たった一つの持ち物でした。

バルティマイはそのたった一つの持ち物を捨てて、イエスに近づいたのです。最後の拠り所を捨てた。それを言い表したのがあの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」だったのです。

ついでになりますが、イエスにいやしてもらったあと、上着がどうなったのか何も書かれていません。私個人の推測ですが、もはや上着は、彼の最後の拠り所ではなくなった。そういうことでしょう。

「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10・52)これは、直接的には視力の回復を指しているでしょうが、視力に問題のない人でも「見えるようになった」という体験をすることがありますから、心の目が開かれたことも指しているでしょう。

ここにバルティマイの決定的な変化が見て取れます。「上着」というこの世のものを最後の拠り所としていた生活から、「イエスへの信仰」という、目に見えないものを最後の拠り所とする人に変わったということです。バルティマイは、決して失うことのないものを、これからの最後の拠り所として生きることにしたのです。

この世界では、まさかと思えるものまで失うことがあります。事件に巻き込まれて、家族を失うことさえあります。まさかと思えるような喪失感を味わった人々は、見えているのに何も見えなくなった感覚を味わっているかも知れません。イエスはそんな人々の心の叫びに、今も足を止めておられるのです。

「何をしてほしいのか」(10・51)。他の誰も、その人に希望を示してあげることができない中で、イエスは決して失われることのない希望を示してくださるのです。そして私たちは、その場面を今週の福音朗読の中で学んだ者たちです。

どうか、力を落としている人のために足を止めてあげてください。その人に寄り添って、あなたが信じているイエス・キリストを最後の拠り所として示してあげてください。私たちはそのために、今日集まってミサを祝っているのですから。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第31主日(マルコ12:28b-34)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ここにも、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいる人がいる。セ・リーグ3位のチームは残り2試合、4位のカープは残り5試合。「何をしほしいのか」「先生、クライマックスシリーズが見えるようにしてください!」今日から数日、この叫びを上げながら過ごすことになる。
▼それにしてもエンジンの掛かりが遅かった。オールスター明けに、やっと調子が上がってきた。オールスター前は「今年は終わったな」と暗い顔をしていたが、後半戦は別人のように選手が活躍し始めた。ただぬか喜びは禁物で、メジャー挑戦の話題が上がっている選手がいて、目の前の5試合に集中してくれるのかの心配もある。
▼結果はどうなるか分からない。3位のチームが最後を2連敗して球団ワースト記録を残してくれれば、カープにはわずかだが光が見えてくる。光が見えたら、今まで以上に「なお道を進まれるイエスに従った。」


‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第752回目。24日午後の行事なので後日掲載となるが、BBQの中での演し物。
http://ss104313.stars.ne.jp/211024.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする