こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第14主日(マルコ6:1-6)イエスが示された覚悟が、マトラ神父の覚悟になった

2021-07-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/7/4(No.1129)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)
イエスが示された覚悟が、マトラ神父の覚悟になった
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年間第14主日の福音朗読、「ナザレで受け入れられない」という箇所が選ばれました。実は預言者が受け入れてもらえなかったというのは、聖書の中ではよくあるテーマです。この出来事を、すぐそばにいたはずなのに一言も発していない「弟子たち」に目を向けるきっかけとしましょう。そこから、私たちにとっての教訓を得ることにしましょう。

土曜日から、梅雨末期の本格的な雨となりました。今日7月4日に、マトラ神父様の帰天百年を記念する一連の行事が紐差教会で行われます。私たちも「マトラ年の祈り」を一年間唱えることでこの日を準備してきました。当日は午前中田崎墓地に集まってロザリオを唱え、午後からは教会聖堂で記念ミサが大司教様をお迎えして行われます。そこでマトラ神父様についても、朗読箇所に結びつけてみたいと思います。

マトラ神父様はフランス・リヨン教区のファルネイという小さな町に生まれました。司祭になってすぐに日本宣教に送られ、その後40年間、平戸の宣教司牧に身を捧げ、一度も帰国することなく、田崎の墓地に眠りにつきました。100年前の話ですから、一度帰国してしまえば、二度と日本に戻ることは無かったかも知れません。そのため自ら退路を断って、日本で生涯を全うします。

私は今週の福音朗読、ほとんど表に現れない「弟子たち」に目を向けてみようと考えました。それまでのガリラヤでの活動を考えれば、イエスが郷里のナザレでも、ものすごい歓迎を受けるだろうと考えたかも知れません。もっと言うと、自分たちがいつか故郷に錦を飾る日が来る、そんなことまで想像したかも知れません。

ところが現実は完全に期待を裏切るものでした。故郷に錦を飾るどころか、ナザレの人々は「生まれも育ちも取り立てるほどのものも無いのに、あなたは何様のつもりか」という反応でした。ナザレの人が判断の拠り所にしたのは、わずかな血縁関係の知識と、生い立ちだけでした。

弟子たちは、この時点で自分たちが描いた淡い期待を捨てなければなりませんでした。「ひょっとしたら故郷で偉い人扱いされる」そんな夢は、完全に打ち砕かれました。それだけでなく、「このままイエスに付いて行くべきだろうか」という不安も生じたかも知れません。

イエスは表に現れていない弟子たちのこうした不安を、十分承知していたことでしょう。そこであえて退路を断ち、ご自身がこれから歩む道を示そうとされます。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(6・4)。中田神父は「ここまで言う必要があるのかな」と思ったりしますが、これは弟子たちにも向けたイエスの決意表明だったのでしょう。この後イエスは各地を回って宣教します。

イエスは、ナザレの人々をあえて突き放す形で、退路を断ちました。マトラ神父は、二度と戻らないことで、退路を断ちました。「不退転の決意」という言葉がありますが、イエスに従う弟子たちも、マトラ神父の宣教司牧で導かれた平戸の神の民も、この不退転の決意に背中を押され、「いただいた信仰の恵みに恥じない生き方をしよう」と心に決めたのではないでしょうか。

実際、イエスの弟子たちは今週の朗読箇所の直前、つまり先週の福音朗読で、治る見込みのない出血症の女性のいやしと、死の宣告を受けた会堂長ヤイロの娘のよみがえりを目撃し、「ただひたすら、イエスを信じる」という心の準備をさせてもらったのでした。

そして今週、イエスが故郷のナザレで受け入れられない現実を突きつけられ、「ただひたすらに信じる」その決意をいっそう固めます。その上で来週の朗読箇所では、二人ずつ組みにして宣教に派遣されていくのです。「ただひたすら、イエスを信じる」この態度に少しでも狂いがあれば、弟子たちの派遣は不可能だったでしょう。

非常によく練られた段階を経て、弟子たちは宣教する者へと準備されていったのです。あえて弟子たちの様子が場面の背後に回されていたのは、「ただひたすら信じる」という準備の様子を暗示していたのかも知れません。

マトラ神父に育てられた平戸の神の民はどうだったのでしょうか。いくつかの例を紹介します。今回マトラ神父帰天百年に合わせて用意された記念誌に、紐差修道院のシスターの手記が載っています。その最後に、マトラ神父様が晩年、「自分は40年間身を捧げてきた紐差に骨を埋めるから、愛苦会の会員達が世の終わりまで祈り続けてほしい」と願ったそうです。

それに応えてシスターは、「毎日、貧しい祈りを捧げている」と書かれていました。一日も忘れることなく祈るのは、そのご恩を一日も忘れたことがないからです。退路を断って、生涯を捧げたマトラ神父様の熱意は、シスターに確実に伝わったのでした。

もう一つ、法人司教区設立80周年で記念講演をされた当時のパリ外国宣教会日本管区長の文章の中に、「マトラ神父が来た時の平戸地区の信者は3500人だったが、彼が亡くなられた1921年には8300人ほどになり、共同体は倍に増えたのです」と紹介しています。

マトラ神父様は「収穫は多いのに、働き手が少ないのです。父よ、収穫のために働き手を送ってください」(マタイ9章37節38節参照)をご自分のモットーとしていました。財産が二倍に増えるということは人生の中でそうあることではありません。マトラ神父様は、平戸の神の民を二倍に増やして、神様の財産を二倍にしたのです。皆さんはいわば、退路を断ってご自身を捧げたマトラ神父様の「宝物」なのです。

祈りを唱えていると、この祈りは私のことを念頭に用意されているのではないか、と思うことがあります。マトラ神父様がモットーにしていた祈りをここであらためて唱え、「この祈りは、他人のための祈りではなく、私のために用意された祈りなのだ」と気付かせていただきましょう。では皆さん一緒に唱えましょう。「収穫は多いのに、働き手が少ないのです。父よ、収穫のために働き手を送ってください。」

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼「からし種」ではないが、植物が成長する様子は目を見張るものがある。ヘチマを司祭館の西日を避けるために植えてもらったが、毎日30cmずつ伸びて、先端は雨よけのひさしに着いてしまった。ひさしの先には蔓を伸ばす場所はないので、どのように伸びるのだろうか。
▼ツルムラサキという野菜をいただいた。こちらも葉をどんどん付けていくそうだ。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4・27)マトラ神父様が蒔いた種は、今も目を見張る成長を続けているだろうか。

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今週の1枚
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第736回目。ツルムラサキとその和え物。霊名聖トマスのお祝い。感謝のうちに

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† 神に感謝 †
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