こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第19主日(マタイ14:22-33)イエスに信頼して一歩踏み出す。二歩踏み出す。

2020-08-08 | Weblog
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http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200809.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/8/9(No.1075)
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年間第19主日(マタイ14:22-33)
イエスに信頼して一歩踏み出す。二歩踏み出す。
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(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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8月9日はもちろん長崎原爆の日です。被爆から75年、体験した人たち皆が切に願う核兵器廃絶と、戦争のない平和な世界を、集まっている皆さんで心から願いましょう。

先週巡礼に行ってきました。このご時世ですから、県外ではなく、雲仙と大村市内を巡礼してみました。しかし今となっては、「長崎県内だから県外よりも安全」そんなことはとても言えなくなっており、どんな行動も責任重大だと改めて思いました。

私が考える「雲仙」と「大村」は、やはり殉教を思い出させる地です。205福者殉教者に数えられている福者アントニオ石田と雲仙の殉教者にささげられた雲仙教会をまず訪ねました。かつての私の記憶とは少し違って、緑が生い茂った景色になっていました。

次に雲仙地獄のそばに建てられたキリシタン殉教碑を訪ねました。ここは特にパウロ内堀とその家族の物語が伝えられています。訪ねた時、人数は少なかったですがある程度の人が雲仙地獄の周回道路を回っていました。しかし殉教者を尋ねる旅の人はいませんでした。

雲仙を離れて、大村の殉教地を訪ねました。いくつか回りましたが、その中で放虎原殉教地と関連する史跡を紹介したいです。郡崩れのキリシタンのうち131人が放虎原殉教地で処刑され、キリシタンは復活を信じていると知っていたので首と胴体を別々に離して埋められました。しかも首は塩漬けにしてさらし首にされたそうです。それぞれゆかりの土地の首塚、胴塚、獄門所跡に記念碑やマリア様が置かれていました。

雲仙の殉教地は、有料とは言え駐車場の心配はありませんでした。大村では駐車場に大変苦労させられました。放虎原殉教地は結果的に駐車場があったのですが、ロープが張ってあって、駐車は遠慮しました。それからようやく駐車場所を見つけ、あとはひたすら歩いて回ります。この日、道に迷った関係もあって、雲仙と大村で15キロも歩きました。

さて福音朗読に戻りましょう。夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来ます。弟子たちはイエスを「幽霊」と見間違え、恐怖のあまり叫び声を上げました。イエスが弟子たちに話しかけてようやく弟子たちは落ち着きを取り戻します。

そこへペトロが勇気を出して動き出します。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14・28)私はこれまで、単にペトロが「水の上を歩いてイエスへの信頼を表す」そういう物語としか考えたことがありませんでした。

しかし今回は違う見方が可能だと思っています。ペトロの行動は、「イエスへの信頼が揺らぐことがなければ、人はあっと驚くことができる」そのしるしとして物語を読むことができると思っています。

先週私は二つの殉教地を巡ってきましたが、「偉いなぁ」「すごいなぁ」とは思うけれども、いざその場面に置かれたら自分に同じことができるかと問われたら、無理だと思いました。殉教地に立ち、殉教についての説明を読んでも、自分にそれができるとはとても思えませんでした。

ペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言います。水の上を歩くなんて、ふつうでは思い付きもしないことです。けれどもペトロは、「イエスへの信頼があれば」この前提であれば可能だと考えたのです。本来なら一歩踏み出すことも不可能ですが、イエスへの信頼があれば、一歩目を踏み出すことができるということです。

殉教者たちの勇敢な行為もまた、一歩目を踏み出すのが困難なのではないでしょうか。一歩踏み出すことで、すべてをささげなければなりません。その勇気は、イエスへの信頼からしか出てこないのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、『炎』の上を歩いてそちらに行かせてください。」

ペトロの話に戻ると、「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」(14・30)とあります。脇目も振らず、微塵も疑わず、一歩目を踏み出す。それはペトロにとっても初めは難しかったのです。

殉教者が示した勇気がどれほどであったか、これで分かります。怖くなり、絶望に沈みかけるなら、殉教の栄冠は与えられません。常に死と向き合って生きてきた迫害時代のキリシタンは、イエスを目で見ていた時代の人々にも決して負けない信仰の持ち主でした。

私たちがイエスに向かって踏み出した一歩はどのようなものでしょうか。洗礼を受けて神様の子供となり、一歩を踏み出しました。堅信を受けて、大人の信者として一歩を踏み出しました。結婚の秘跡を受けて、愛と忠実を尽くすことを誓いました。司祭に叙階されて、修道者として誓願を立てて、一歩を踏み出しました。それから二歩目、三歩目はどうなっているでしょうか。

ペトロは強い風に気がついて怖くなり、それでも「主よ、助けてください」(14・30)と叫びました。来なさいと呼んでくださるのもイエスです。「助けてください」という叫びにすぐに手を伸ばして捕まえてくださるのもイエスです。一歩目はすでに踏み出しているはず。これからもイエスの差し出す手に信頼を寄せて、次の一歩を踏み出すことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼ちょっとした機材を買い込んだ。「リモート」を実現するための機材だ。これからもミサの参加に制限をかける必要があると想定して、「収容できなかった小教区信徒を別室でリモート参加してもらう」そういうイメージを実現するための機材だ。
▼おもな物は「HDMIエクステンダーセット」。今回は別室を大ホール一部屋と想定しているので、「ライブ映像を送信する機材」と「ライブ映像を受信する機材」の一対一の接続になる。考え方として、受信する場所を分けて、「泣き部屋」をさらに作ることも可能かも知れない。
▼ひとまず木曜日に機材が届いたので、「送信→受信」の流れに沿って機材を接続。初めは、「一眼レフ」をカメラとし、HDMIケーブルでライブ映像を「送信機」に送る。送信機まで届いた信号を、LANケーブル(今回はカテゴリー6のケーブル)で受信機側まで伝送。「受信機」に届いた信号を最後にHDMIケーブルで信徒会館のテレビ(モニター)に届ける。
▼二つの点で苦労した。まずは一眼レフカメラでライブ中継を届けようとしたところ映像は届いているのに音声が届かない。変だなぁと思っていろいろ試すがどれもうまくいかない。あきらめて「アクションカメラ」を接続。するとあっさりと映像と音声が伝送され、「ミサのライブ中継」のイメージが実現した。
▼二つ目の苦労はLANケーブル。10mとか20mの距離ではないので、必要な距離のケーブルを自分で作成する必要がある。コネクターとそれをケーブルに締め付ける道具、それに肝心の「自作用LANケーブル」を追加購入した。
▼LANケーブルはデリケート、繊細だ。「完成したぞ~」と思って接続してもうまく伝送しないことがあった。10回以上ケーブルをカットしながら練習。ようやく納得のいく仕上がりとなった。

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今週の1枚
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第682回目。信徒会館の裏庭。分かる人には分かると思うが、ここまで来た。

ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「バケツのような雨が降った」「『バケツのような雨』が本当なら、怪我しそう」
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† 神に感謝 †
コメント
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