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こうじ神父
「今週の説教」
2020/01/19(No.1043)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第2主日(ヨハネ1:29-34)
イエスが交わりに招き、証言者としてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥
「わたしはこの方を知らなかった。しかし(中略)わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1・33,34)洗礼者ヨハネがイエスを「知る」に至った出来事に中田神父は注目してみました。洗礼者ヨハネはイエスが目の前に現れてもイエスを知ることができなかったのです。何が起こって、彼はイエスを知ることができたのでしょうか。
誰も興味ないかも知れませんが、司祭団のマラソンが1月28日(火)に予定されていまして、2週間前になったので怪我だけしないようにと教会の周辺をジョギングし始めました。タイムは二の次です。中田神父には司祭団マラソン大会とは別の構想があって、マラソン大会で怪我をするわけにはいかないのです。
別の構想というのは、田平教会を出発点にして、2泊3日で今村教会までできるだけ歩いて巡礼しようというものです。今年実現できるか分かりませんが、ある部分は電車のお世話になって、田平教会と今村教会、建物の関連だけではなく、人と人とのつながりができればいいなと思っています。100年前は、車も走ってなかったことを考えると、鉄川与助は、ひょっとしたら歩いて今村と田平を行き来したかも知れない。そう思うと夢があると思いませんか?
福音に入りたいと思いますが、洗礼者ヨハネはイエスの姿を見てもイエスを知らなかったのですが、何かがあってイエスが神の子であると知り、証ししたのでした。私は洗礼者ヨハネが、イエスの御父と聖霊との交わりに、招き入れられたとき、イエスが神の子であると知ったのだと考えました。
洗礼者ヨハネは、自分を遣わした方から「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(1・33)と言われていました。イエスが洗礼を受けた後に、前もって聞いていた出来事を体験しました。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」(1・32)父と子と聖霊の交わりに、洗礼者ヨハネも招かれて、神との交わりを体験したとき、イエスが神の子であると知ったのです。イエスの姿を見た時よりもむしろ、イエスとの交わりを体験したときに、イエスを知ることができたのです。
イエスの姿を見たときよりも、イエスとの交わりを体験したときを大切に考えるなら、同じ体験は私たちも可能になります。幸いに私はすぐ身近なところでちょうど当てはまる体験をしました。その時私も、イエスは神の子であると知ることができました。今日ここで、借り物の話ではなく、確信を持ってイエスがそばにいてくれたことを証ししたいと思います。
十日ほど前、手術を控えた方を見舞って、お祈りして欲しいという依頼を受けました。家族の話を聞いて、病者の塗油と聖体拝領の準備をしていくことにしました。病者の塗油を授けるとき、聖書の言葉を朗読して、病者の油を塗って、聖体拝領を授けます。通常は、すべて儀式書に定められた式文に沿って行います。
ところで私は、今回の病者の塗油に際して朗読する聖書の箇所を、違う朗読箇所を考えていました。それは、シモン・ペトロの姑が熱を出していたときに、イエスが熱を去らせてくださり、姑は一同をもてなしたというマルコ福音書の物語でした。病人訪問まで一週間あったので、当日までには該当箇所を探しておこうと考えていたのです。
ところが、病院に向かう水曜日の朝のミサのことです。その日指定されていた箇所は、何とシモンの姑の熱をイエスが去らせてくださった箇所だったのです。「あなたが必要としていることを私は知っている。」イエスにそう言われているような気がしました。
私はイエス・キリストをこの目で見たことはありませんが、イエスは私をご自身の三位一体の交わりに招いてくださり、「イエスは神の子である」と知ることができたのです。司祭として27年務め、この務めを通してイエス・キリストを語ることはできます。揺るぎない確信がなくとも、長年同じことを果たしてきたので語ることはできます。そんな私にイエスは圧倒的な方法でご自身を示してくださり、自信を確信に変えてくださったのです。
洗礼者ヨハネは、自分を遣わした方が先に示した光景を見せてくださることは信じていたでしょう。けれどもイエスが目の前に現れても、まだイエスを知るに至らなかったのでした。けれどもイエスのほうから洗礼者ヨハネを招いて、三位一体の交わりに触れさせてくださったのです。「あなたが必要としていた光景を見せてあげよう。」ここに至ってようやく洗礼者ヨハネはイエスが神の子であると知り、証をしたのです。
日本の諺では「百聞は一見にしかず」と言いますが、イエスを「知る」ということは、人間が百回聞くよりも、人間が一回見るよりも、イエスとの交わりに招かれることが大切なのです。イエスを知るということは人間の能力を超える出来事を知ることですから、イエスのほうから三位一体の交わりに招かれる必要があるのです。
イエスは、ご自身を知り、愛し、人々に証しするために、私たちを招いてくださいます。洗礼者ヨハネさえ、イエスが目の前に立ってもイエスを知ることはできませんでした。イエスが三位一体の交わりに招いてくださって、イエスを知ることができたのです。
私たちも同じです。イエスが三位一体の交わりに私たちを招いてくださいます。私たちはイエスの交わりに招かれて、イエスを知り、イエスを愛し、人々にイエスを証しすることができるようになります。イエスが招く三位一体の交わりは、ミサを通して、洗礼者ヨハネの時よりも身近に与えられています。このミサの中で、私たちもイエスを知り、証しする者となれますように。
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‥次の説教は‥‥
年間第3主日(マタイ4:12-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼「その日に必要な聖書の箇所が与えられた。」これには続きがある。「何という偶然!」最初はそんな気がしていた。当然この箇所をメモを取るなり、ミサで使用している冊子を病人訪問に持って行くなりして、準備が必要である。
▼ところが、病院に出発するときに「該当聖書箇所」を朗読するための冊子、あるいは福音書を持参しなかった。「何という偶然!」と一瞬でも思ったのが悪かったのかも知れない。「これは偶然ではないよ。私があなたにチャンスを与えたのに、あなたはそれを無駄にしようとしている。」そう言われている気さえした。
▼誰にも何も言っていないのであれば、儀式書から右にも左にも逸れずに執り行えば、話題にはできないけれども責任は果たせる。「責任を果たすだけで良いのか?」非常に悩んだ。車を走らせてすぐに気づいたので引き返せばまだ間に合う。
▼あるいは、聖書の箇所さえ思い出せるなら、今はネットの世の中。どこからか該当箇所を探し出せる。ちなみにTwitter(ツイッター)の「calendarium_bot」が定期的に朗読箇所をツイートしている。だが聖書の箇所が思い出せない!運転中していてネットの便利なサイトにも考えが及ばなかったなかった!
▼結果的に、聖書の箇所を無事に手に入れることができたのは神に感謝した。関係者の皆さんにも感謝。人間一人の力でできることなど、たかが知れている。人の助けを素直に受け入れ、神との交わりを証しできる司祭であり続けたい。
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今週の1枚
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第650回目。簡易ライターをターボライターに。香炉に入れる炭をよく燃やせる。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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「わたしはこの方を知らなかった。しかし(中略)わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1・33,34)洗礼者ヨハネがイエスを「知る」に至った出来事に中田神父は注目してみました。洗礼者ヨハネはイエスが目の前に現れてもイエスを知ることができなかったのです。何が起こって、彼はイエスを知ることができたのでしょうか。
誰も興味ないかも知れませんが、司祭団のマラソンが1月28日(火)に予定されていまして、2週間前になったので怪我だけしないようにと教会の周辺をジョギングし始めました。タイムは二の次です。中田神父には司祭団マラソン大会とは別の構想があって、マラソン大会で怪我をするわけにはいかないのです。
別の構想というのは、田平教会を出発点にして、2泊3日で今村教会までできるだけ歩いて巡礼しようというものです。今年実現できるか分かりませんが、ある部分は電車のお世話になって、田平教会と今村教会、建物の関連だけではなく、人と人とのつながりができればいいなと思っています。100年前は、車も走ってなかったことを考えると、鉄川与助は、ひょっとしたら歩いて今村と田平を行き来したかも知れない。そう思うと夢があると思いませんか?
福音に入りたいと思いますが、洗礼者ヨハネはイエスの姿を見てもイエスを知らなかったのですが、何かがあってイエスが神の子であると知り、証ししたのでした。私は洗礼者ヨハネが、イエスの御父と聖霊との交わりに、招き入れられたとき、イエスが神の子であると知ったのだと考えました。
洗礼者ヨハネは、自分を遣わした方から「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(1・33)と言われていました。イエスが洗礼を受けた後に、前もって聞いていた出来事を体験しました。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」(1・32)父と子と聖霊の交わりに、洗礼者ヨハネも招かれて、神との交わりを体験したとき、イエスが神の子であると知ったのです。イエスの姿を見た時よりもむしろ、イエスとの交わりを体験したときに、イエスを知ることができたのです。
イエスの姿を見たときよりも、イエスとの交わりを体験したときを大切に考えるなら、同じ体験は私たちも可能になります。幸いに私はすぐ身近なところでちょうど当てはまる体験をしました。その時私も、イエスは神の子であると知ることができました。今日ここで、借り物の話ではなく、確信を持ってイエスがそばにいてくれたことを証ししたいと思います。
十日ほど前、手術を控えた方を見舞って、お祈りして欲しいという依頼を受けました。家族の話を聞いて、病者の塗油と聖体拝領の準備をしていくことにしました。病者の塗油を授けるとき、聖書の言葉を朗読して、病者の油を塗って、聖体拝領を授けます。通常は、すべて儀式書に定められた式文に沿って行います。
ところで私は、今回の病者の塗油に際して朗読する聖書の箇所を、違う朗読箇所を考えていました。それは、シモン・ペトロの姑が熱を出していたときに、イエスが熱を去らせてくださり、姑は一同をもてなしたというマルコ福音書の物語でした。病人訪問まで一週間あったので、当日までには該当箇所を探しておこうと考えていたのです。
ところが、病院に向かう水曜日の朝のミサのことです。その日指定されていた箇所は、何とシモンの姑の熱をイエスが去らせてくださった箇所だったのです。「あなたが必要としていることを私は知っている。」イエスにそう言われているような気がしました。
私はイエス・キリストをこの目で見たことはありませんが、イエスは私をご自身の三位一体の交わりに招いてくださり、「イエスは神の子である」と知ることができたのです。司祭として27年務め、この務めを通してイエス・キリストを語ることはできます。揺るぎない確信がなくとも、長年同じことを果たしてきたので語ることはできます。そんな私にイエスは圧倒的な方法でご自身を示してくださり、自信を確信に変えてくださったのです。
洗礼者ヨハネは、自分を遣わした方が先に示した光景を見せてくださることは信じていたでしょう。けれどもイエスが目の前に現れても、まだイエスを知るに至らなかったのでした。けれどもイエスのほうから洗礼者ヨハネを招いて、三位一体の交わりに触れさせてくださったのです。「あなたが必要としていた光景を見せてあげよう。」ここに至ってようやく洗礼者ヨハネはイエスが神の子であると知り、証をしたのです。
日本の諺では「百聞は一見にしかず」と言いますが、イエスを「知る」ということは、人間が百回聞くよりも、人間が一回見るよりも、イエスとの交わりに招かれることが大切なのです。イエスを知るということは人間の能力を超える出来事を知ることですから、イエスのほうから三位一体の交わりに招かれる必要があるのです。
イエスは、ご自身を知り、愛し、人々に証しするために、私たちを招いてくださいます。洗礼者ヨハネさえ、イエスが目の前に立ってもイエスを知ることはできませんでした。イエスが三位一体の交わりに招いてくださって、イエスを知ることができたのです。
私たちも同じです。イエスが三位一体の交わりに私たちを招いてくださいます。私たちはイエスの交わりに招かれて、イエスを知り、イエスを愛し、人々にイエスを証しすることができるようになります。イエスが招く三位一体の交わりは、ミサを通して、洗礼者ヨハネの時よりも身近に与えられています。このミサの中で、私たちもイエスを知り、証しする者となれますように。
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ちょっとひとやすみ
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▼「その日に必要な聖書の箇所が与えられた。」これには続きがある。「何という偶然!」最初はそんな気がしていた。当然この箇所をメモを取るなり、ミサで使用している冊子を病人訪問に持って行くなりして、準備が必要である。
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今週の1枚
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第650回目。簡易ライターをターボライターに。香炉に入れる炭をよく燃やせる。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †