こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の公現(マタイ2:1-12)私たちは別の道を通って生きる者

2020-01-03 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/200105.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/01/05(No.1041)
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主の公現(マタイ2:1-12)
私たちは別の道を通って生きる者
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主の公現の祭日を迎えました。占星術の学者たちは最終的に、「夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(2・12)のでした。別の道、ヘロデにあいさつして帰るこの世の道ではなく、礼拝したイエスに導かれて帰る新しい道を彼らは選んだのです。

田平教会の今年の年間テーマを、「今年、信仰の分かち合いができるキリスト者に育ちましょう」としました。昨年教皇様を間近に見た私たちは、積極的に自分も教皇様と同じ道を歩くカトリック信者であり、教皇様が大切に考えていること、特に命を守ることや弱い立場にある人への理解は、同じ考えを持っていますと声を上げる年にしたいと思っています。聖書の分かち合いは大変かも知れませんが、教皇フランシスコと同じ信仰を持っていると声を上げることは今年の内に可能なはずです。

去年2019年は、一昨年に献堂百周年を祝った後、「聖堂を百年守ってきた」その姿勢から一歩前に出て、教会に生かされている自分を証しする、教会に生かされる生活に関心を持ってもらうよう働きかけてみましょうというテーマでした。田平教会のために、一歩前に出て何かお手伝いしてくださったと思います。今年、信仰を証しする取り組みをさらに積み上げましょう。

1月2日、帰省された方々の半日黙想会を行いました。教皇フランシスコのことを少しでも知って、今年の年間テーマを実現する手助けになればと思って話してみました。実はまだよくこなれていない状態で話したのですが、3月22日の黙想会ではもっとすんなり話に耳を傾けられるようになっていると思います。ついでになりますが、田平の黙想会の直前の週に、何と上神崎教会から黙想会の説教師を頼まれまして、ここだけの話、上神崎で十分練習を積んで、それから田平で話すことができるなぁと喜んでおります。内緒ですよ。

さて、1月2日の黙想会が終わってから、嬉野の温泉に浸かりに行こうと思いまして、午後から車を走らせました。江迎の高岩駅の線路の下をくぐったときに、何やら異変を感じまして、くぐったすぐ先にあるアパートの敷地でとっさにUターンして、また県道に上がってきました。くぐる直前、右の案内板には「右折禁止」左の案内板には直線と左折のみの案内があり、これまであったはずの「7時から9時までと16時から19時まで右折禁止」という案内が見当たらなかったのです。

さてはまんまと罠に引っかかったと思い、とっさに線路の下のアパートの敷地内でUターンしたわけです。県道に上がってみると、後ろにパトカーが見えるではありませんか。これは捕まった、と思いつつ斜め前のセブン・イレブンに避難したところ、私の直後にいたパトカーはまっすぐ江迎署に向かい、事なきを得ました。この日私は昨年までの高架下を右折して佐々に向かう道ではなく、「別の道を通って」無事嬉野までたどり着いた。そんな新年の幕開けでした。少なくとも私が通ったときは全面右折禁止になっていました。ご用心ください。

お巡りさんを避けるための「別の道」はついでの話です。私たちが真面目に考えるのは占星術の学者たちが選んだ「別の道」です。彼らは「別の道があるだろう」ということは考えてはいたと思います。夜空に輝く星を頼りにこの世界の歩みを占っていたのですから、この世の王が支配する人間の暮らしだけがすべてではないだろう。きっと正しい王が人類を治め、導く道があるはずだ。それは考えていたと思います。

しかし実際にはこの世の王の支配は逃れられない現実でした。ユダヤの国に入れば、ユダヤを支配しているヘロデにあいさつをしてからでなければ彼らは安全が保証されません。どこに行っても、どこにいても正しい王が民を治める時代がいつか来るに違いない。学者たちは幼子を見つけたときに、新しい時代の到来を確信したのです。

この世の権力者に振り回されるのではなく、幼子イエスを通して正義と愛と平和の国を期待できる。占星術の学者たちは確信して帰りました。新しい道が開けた彼らは、古い道を通って帰りませんでした。つまりこの世の支配者にあいさつして帰る古い生き方を捨てて、正しい王に導かれて生きる新しい道に従って帰ったのです。

私たちはどうでしょうか。今やイエス・キリストに導かれて生きる新しい道が示されました。幼子イエスは口を開いてあれこれ指示しませんが、幼子イエスに従って生きる道は、イエスの前に跪くとき、必ず示されます。なぜならここにおられる幼子は、私たちのいちばんそば近くにいてくださるために、幼子の姿を取ったからです。イエスが、私たちのいちばんそば近くにおられる。そのことを信じるなら、私たちは新しい道を通って生きていくことができるのです。

もしかしたら、私たちはこれまでの生き方をなかなか手放せないかも知れません。これまでの生き方で成功したとか、この世のルールでそれなりに生きることができていると考えるなら、これまでの生き方に執着するかも知れません。イエスがいちばんそば近くにいて、私たちがどちらか選ばないといけないときに、「イエス様はどちらを望みますか?」と問いながら決断することに慣れないかも知れません。

ここで占星術の学者たちを見倣いましょう。彼らは自分たちの贈り物をイエスに差し出しました。もしかしたら、命の次に大切なものだったかも知れません。それをイエスの前に置いたとき、イエスに導かれて生きる新しい道、別の道が開かれたのです。ですから私たちも、私たちが命の次に大切と思っているものをイエスに差し出すなら、イエスの導きを受けて生きる新しい道が見えてくるのではないでしょうか。

教皇フランシスコは、イエスに導かれて生きる姿を、国民の0.1%しかカトリック信者のいない国で証ししてくださいました。別の道を通って生きること、経済最優先の道とか、何とかミクスとか、私たちはもしかしたら踊らされているのかも知れません。99.9%の人が選んでいない道ですが、私たちはこれからも、別の道を通って生きる者なのです。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼(マタイ3:13-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)1月2日の黙想会を終えて、あらためてこの聖書の言葉を考えている。
▼今年は黙想会の中で、「フランシスコ教皇のことを知る」というテーマで取り組もうと思っている。私が教皇様のことを知っているとか、そんな大それたことを言うつもりはもちろんない。「毛頭無い」と言いたいところだが、すでに毛はないので言わない。
▼一冊の本を手がかりに教皇フランシスコの人柄をたどっていく。だから私が参考にする本を繰り返していねいに読めば、黙想会に参加したようなものなのだが、コンパクトにまとめて話してもらうのを聞いたほうがつかみやすい。だから黙想会参加費を払って参考にする本からのエッセンスをもらって欲しい。
▼1月2日までにも真面目に読み返し、掘り下げてきたつもりだが、やはりそれでも足りない。何が足りないのか。それは「狭い門から入る」この部分である。教皇フランシスコの生き方や考え方は本の中に十分説明されている。だが本を10回読んでも、極端な話50回読んでも、足りないのである。
▼それは、教皇フランシスコが生きているように生きてみなければ、教皇フランシスコの人柄に「確かに触れた」とは言えないわけだ。身分の高い人が当然利用する権利を横に置いて貧しさに生きるとか、教会の教えから遠く離れて生きている人の声に耳を傾けるとか、罪に溺れそうになっている人に浮き輪だけ投げるのではなく、そばに行って手を差し出すとか、そうしないと教皇フランシスコの人柄に触れることは難しいのだ。
▼少なくともまだ3ヶ月ある。教皇フランシスコが体験したことを自分も体験して、黙想会に備えることにしよう。

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今週の1枚
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第648回目。占星術の学者たちは遠くからイエスを拝みに来た。

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