こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マタイ24:37-44)今を大事に生きることが来臨の日の備えになる

2019-11-30 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/191201.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/1(No.1033)
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待降節第1主日(マタイ24:37-44)
今を大事に生きることが来臨の日の備えになる
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待降節第一主日、三年周期のA年に典礼が変わりました。直前に待っているのは主の降誕ですが、「救い主を待つ」という大きなくくりで考えると「キリストの再臨を待つ」という意味合いもあります。「主を待つ人」の姿を福音朗読から探し求め、私たちの準備に当てはめることにしましょう。

待つことの素晴らしさを、今回ほど味わった年はないでしょう。私たちは教皇フランシスコの来日が正式に発表されてから二ヶ月間、どれだけ楽しみにして待ったでしょうか。教皇様のために祈り、折り鶴を用意し、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の訪日の様子を思い出し、一日千秋の思いで待ちました。

そして待ち望んだ当日は、最も心配していた雨でした。台風のなごりである温帯低気圧がいたずらして、朝方はほとんどの人が天気を恨んだはずです。仕方ないという気持ちで県営野球場に入ったはずですが、最後の待ち時間に奇跡が起こりました。待ち望んでいた、もしかすると諦めていた絶好の日和になったのです。

私たちは聖ヨハネ・パウロ二世教皇を「大雪をもたらした教皇様」と記憶していると思います。今回の教皇フランシスコはどのように記憶されるでしょうか。私は県営野球場でのミサが始まるまでは、「お目にかかるまでに本当に苦労させられた教皇様」として記憶に残ると考えていました。

ところが、実際は私の予想をはるかに超えて記憶に残る教皇様となったのでした。誰もが諦めかけていた悪天候を吹き飛ばし、天を恨んだ私たちの思いをくつがえし、感動を与えてくださったのです。

もし雨降りの中で教皇様が県営野球場に現れていたら、「やっと来たか」で終わったかも知れません。ですが実際はどうでしょうか。それまで雨に打たれて寒い思いをしたこともすっかり忘れ、疲れて座り込んでいたのも忘れて、立ち上がって遠くからでいいからお姿を見たい、私が手を振っている姿を届けたい。そんな気持ちになったのです。一瞬で、すべてが塗り替えられたわけです。

司祭団にもどよめきが上がりました。教皇様がミサをささげる祭壇の左右に司祭団席が設けられていましたが、祭壇右側はすでに強い日差しに照りつけられ、汗が出ていました。「暑いなぁ」「まだかなぁ」と思って待っておりました。それでもおいでになった瞬間、立ち上がってお姿を見つけようと人々の視線の先を追いかけたのです。「持ってる人は違う!」そんな印象を持ちました。これほど、「待った甲斐があった」と感じた瞬間を、私は思い出すことができません。

県営野球場にいる参加者はすべて、「今日ここに、教皇フランシスコがおいでになる」とはっきり理解しているわけです。それでも、雨が降り、やきもきして、すっかり天気になり、教皇様のお姿を見た瞬間、今日集まっている喜びを噛みしめたのです。当然お目にかかれる方ですらこの通りです。私たちが待降節を通して待つ救い主は、どれだけ待っても待ちすぎるということはないのです。今年のクリスマスのために、教皇フランシスコは「待つ喜び」「待つことの価値」を、はっきり教えてくださったのではないでしょうか。

「だから、あなたがたも用意していなさい。」(24・44)福音朗読は用意していなさい、準備を怠ってはならないと呼びかけています。二つの用意を考えました。一つは、おいでになる方の力と権威を全面的に認めることです。幼子としておいでになるお方は、命を狙われても命を落とすことなく、死を前にして絶望する人に希望をお与えになる方です。私たちのもとにおいでになる時、待ち望んだことを必ず与えてくださる。その力と権威を率直に認めましょう。これが一つ目の用意です。

もう一つは、救い主を待つ日々は、一日も無駄にしてはいけないということです。あと一日無意味に過ごして、それから救い主の準備に取りかかろう。ノアの洪水の時にどうなりましたか?人々は準備を怠り、一人残らずさらわれたと書かれています。あなたは「今日不注意なことをしても、明日仕事を取り上げられることはないだろう」と言うのですか。どこにもそんな保証はありません。「人の子は思いがけない時に来る」(24・44)のです。

救い主を待つ待降節を迎えました。今日一日無駄に過ごして明日から待降節に入るとか、神を試すようなことは一切考えないことです。すべての始まりと終わりをつかさどる方がおいでになります。「あなたは今日で終わり」と言われても、何も反論できない方を迎えます。その方のために一日も無駄にすることなく、「目覚め、わきまえ、用意して」救い主を待ち続けましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会には大量の郵便物が届く。選別して、掲示板に貼るもの、教会で配布物として利用するもの、主任司祭が目を通して終わるもの、見もしないものなどがある。「見もしない」と言うと失礼だが、一度か二度目を通して、必要を感じないものはその後は見ていない。
▼カトリック・プロテスタント合同の取り組みとして、「キリスト教一致祈祷週間」は有名である。ただ有名だからと言って誰の目にも重く受け止められているとは限らない。「あ、これね」で終わっている教会とか、主任司祭も多くいるだろう。
▼かく言う私も、「あ、これね」で終わって、主任司祭が目を通すだけとか、せいぜい教会の入口四か所において終わり、という扱いだったのだが、今回の冊子は特に目を引いた。パウロが宣教旅行に行く途中船が難破してしまう場面が取り扱われている。その後マルタ島に上陸して、パウロは手厚くもてなしてもらうという話である。
▼きっと毎年すばらしいテキストと黙想のヒントを与えられていたのだと思うが、主任司祭の怠慢でそれが教会で活用されていなかった。今回は活用しようと思う。冊子は少ししかないので、まずは1月2日に予定されている「帰省した人の黙想会」の材料にしたい。
▼それにしても教皇フランシスコはタフなお方だ。どんなに疲れていてもそれでも私たちを勇気づけ、私たちにご自身を与え尽くしてくださる。並の精神力ではない。日本の教会はきっとそのことを受け取ったはずだから、これからの日本宣教に活かしていかなければならない。

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今週の1枚
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第640回目。教皇様の写真は個人撮影NG。代わりにクラシックカー来訪の様子。

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