こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第31主日(ルカ19:1-10)「捜す人」を「捜す方」が見つけてくださる

2019-11-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/11/3(No.1029)
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年間第31主日(ルカ19:1-10)「捜す人」を「捜す方」が見つけてくださる
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年間第31主日C年は「徴税人ザアカイ」の物語です。ザアカイは興味があってイエスを捜しましたが、イエスはザアカイに「どうしても会わなければならない」と考えていました。「捜す人」は実は「捜されている人」であったというのが、この物語に隠された鍵だと思います。

物語の中で、ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとした」(19・3)とあります。この時点では「品定め」のような気持ちだったかも知れません。どんなタイプの人だとか、どんな話題を取り上げる人だとか、それを品定めするために行ったのかも知れません。こちらがイエスを捜す側であり、気に入ったら付き合ってあげよう。そういう構えをしていたのでしょう。

ところで、イエスを捜しに行ったザアカイの行く手には、いくつかの障壁がありました。一つは「背が低い」ということです。私は野球観戦に行って、前の座席にいる人が立ち上がって応援するものだから「見えないなぁ」と感じた経験があります。見ようとして妨げがあると、何か工夫をしなければ見たいものも見ることができません。

もう一つの障壁は、意外に思われるかも知れませんが、彼が「徴税人の頭で、金持ちであった」ということです。人から良くは思われていなかったでしょうが、地位を築き、名誉も手に入れていたのです。そうなるとイエスを見たくても、周りの視線を気にして木に登ったりできなくなります。これら二つの障壁がザアカイの前にありましたが、ザアカイはそれを「乗り越えるべき壁」ととらえました。「なんのこれしき」と考えたのです。

イエスを捜すザアカイは、「品定めしてやろう」その程度で行動を起こしたかも知れませんが、障壁を乗り越えるうちに、「何としても見てみたい」そういう気持ちに変化していったことがうかがえます。けれども、「見てみたい」というだけでは、せっかくの出会いもイエスを見ただけで終わったかも知れません。記憶に残らず、人生に影響も与えないでしょう。ザアカイにとってイエスが記憶に残る人、人生に影響を与える人になるためには、イエスから先にザアカイが捜されていたと気づく必要があったのです。

「捜す人」はどれだけ時間がかかるにせよ、「捜している人」を見つけます。自分と同じ趣味の人、同じ目的のために協力できる人、価値観を共有できる人、ほかにも同じ欠点を持っている人を捜し当てるかも知れません。自分では認めようとしなくても、「捜す人」が出会った人は同じく「捜す人」だったということが多いはずです。

もちろん、「捜す人」が出会った相手が完全に同じものを捜しているとは限りません。一人一人に求めている度合いがあるし、求めているものが同じでもお互いの性格や気質まで同じとは限りません。ですから「捜す人」が「確かに出会った。これは偶然ではない」と思っても、3ヶ月、6ヶ月と経つとすれ違いを感じるかも知れません。「捜す人」が捜しているものを正直に打ち明けた時、「お互い探しているものが少し違うね」となることもあるでしょう。そうなると本当に捜しているものを共有できるように、お互い何かを決断しなければならないかも知れません。

さてザカリアは、自分を捜し求めてくれる人を捜していました。表面上は、イエスの見物に来たのですが、イエスにかけられた声で気づいたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)イエスが先に、ザアカイを捜し求めていたのです。今日、救いが訪れる人を捜していたのです。

ザアカイはすぐに気づきました。自分が、イエスに捜し求められていたこと。心の中で、「徴税人の頭、金持ち」としてではなく、ありのままの自分を受け入れてくれる誰かを、捜し求めていたことにです。徴税人の私にも、救いが訪れることを宣言してくれたイエスに、自分が握りしめていたものを手放し、自分を委ねて生きることにしました。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・10)イエスが物語の最後に語ったこの言葉は、ザアカイのためだけではありません。「捜す人」を、イエスは捜し続けているのです。人を捜す中で、「この人が私の捜している人だ」と思ったけれどもすれ違ってしまい、傷つき、人を信じられなくなる。それでも本当に自分が捜している人に会いたくて捜す。こうした辛い体験を何回か味わうでしょう。そんな「捜す人」を、イエスは先に捜しておられます。最終的に、「捜す人」が「捜している人」に出会うのは、「先に捜しておられたイエス」に出合った時なのです。

「捜す人」が「捜している人」に出会った。それが本物の出会いかどうかは、「先に捜しておられたイエス」に、お互い感謝できるかどうかで分かります。もし本物の「捜す人」と「捜していた人」との出会いであれば、お互い神に感謝をささげ、感謝のしるしをささげるでしょう。そして誰もがそのような出会いを必要としています。

ザアカイが、イエスの前で「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19・8)と宣言できたのは、本物の出会いをしたからです。

誰もが「捜す人」です。長い人生の中で何度か近づいたり離れたり、何としてもこの人が捜している人と思い込みたいこともあるでしょう。本物に導いてくれるのはあくまでも先に捜しておられるイエスです。「捜している人」が本物であるなら次のことができるはずです。その人のために、神に感謝をささげているでしょうか。神に何か感謝のしるしをささげているでしょうか。

「捜す人」であり続けるなら「捜している人」にいつか出会います。それは、先にイエスが「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」忠実にこのことばの通りに働き続けておられるからです。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(ルカ20:27-38△20:27,34-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼自分に背を向けて生きてきた。53歳なのに、53歳を認めない行動をとり続けていた。たとえば24時間のうち6時間睡眠に充て、18時間活動時間があるとして、18時間目一杯計画を入れる。頭も体も相当がまんしているのに、それを認めようとしなかった。
▼時間の使い方だけに終わらない。人生は一度きりだから一人の人生を生きるのでも手一杯のはずなのに、一人何役も演じて生きてきた。一人芝居をして、何人分もの人生を演じて、何人分もの人生の時間割を組んできた。これでは時間も足りないし、一つの人生すら完結できない。
▼一つの人生を完成させる生き方を選び、完結させるべきだ。そう気づいた。しかし現実は酷なもので、日本人の平均寿命で考えると、平成29年度のとある統計で男性81.09歳、女性87.26歳だという。すでに私の年齢で当てはめれば残り28年、ひょっとすると27年しか残っていないかも知れない。
▼すでに背を向けて生きてきた時間がかなりあり、それを挽回するころには余命宣告を受けているかも知れない。そう考えると今53歳とは言えない。「もう53歳で、一刻の猶予もない」と考えるべきだ。
▼人にできなくても自分にできることがある。人がしてこなかったことで自分が続けてきたことがある。身近な世代がすでに失っている部分で自分に残されている部分がある。それらを総動員して、一人の人生を、完成させ完結すべきだ。

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今週の1枚
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第636回目。カートリッジ式。ホワイトボードにハングルを書くのに重宝する。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
† 神に感謝 †
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