こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第2主日(ルカ3:1-6)すべてに始まりを与えてくださる神

2018-12-08 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/181209.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
18/12/09(No.975)
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待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
すべてに始まりを与えてくださる神
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待降節第2主日は洗礼者ヨハネが活動を始める様子を描きます。田平教会でも同じ始まり方で3回話しているので、そろそろ皆さんも覚えてくれていると思います。ただ今年は、洗礼者ヨハネに焦点を当てるのではなく、洗礼者ヨハネを活動へと駆り立てた「神の言葉」に注目したいと思います。

洗礼者ヨハネのおかげで、イエスの宣教活動の地ならしができたことは確かです。彼が授けていた悔い改めの洗礼は、当時ユダヤ人たちが行っていた身を洗い清める儀式と違う新しさがありました。当時のユダヤ人たちが行っていた儀式は、毎日身を洗い、清められていくと考えていました。

一方ヨハネが授けていた悔い改めの洗礼は、一度だけ受ける儀式だったようです。今の洗礼がそうであるように、一度悔い改めの洗礼を受け、繰り返す儀式とは考えていませんでした。そういう意味で彼は先駆者です。

ではヨハネは「先駆者になるぞ」と思って悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのでしょうか。決してそうではなかったと思います。一度限りの、決定的な洗礼を授けてくださるお方に、道を整える。そのことだけを考えていました。

ヨハネは自ら意識して「私が始まりだ」とは思っていませんでした。けれども彼は先駆者です。すると彼に先駆者の役割を与え方がいるはずです。それは、父なる神でした。ですから今日の場面は、神がヨハネに先駆者の役割を与えて活動させたという、新しい時代の始まりに関する父なる神の物語なのです。

今日の洗礼者ヨハネの活動のように、新しい形の始まり、新しい時代の始まりを神様が与えてくださるさまを、私たちは捉えたことがあるでしょうか。ここにおられる皆さんはたしかに経験済みです。私たちの教会の百年を祝うために、長く一つの祈りを唱えてきました。「田平教会献堂百周年の祈り」です。祈りの第一声は何だったでしょうか。「すべてに始まりを与えてくださる全能の神よ」でした。

この教会の建設に、中田藤吉神父様が先頭に立ってくださいました。中田神父様の呼びかけに、田平の神の民はすべて惜しまずに協力しました。ただし始まりを与えてくださったのは、父なる神、全能の神だったわけです。

私たちはあの祈りを二百回、三百回と唱えて何を学んだのでしょうか。それは、神様が私たちの教会の始まりを与えてくださったということです。始まりを与えていただいて、百年の歴史を紡いできました。この歴史の糸をさらに紡いでいくためには何が必要でしょうか。私は百周年の記念誌に、「縄をなう働き」をたとえに話しました。縄を伸ばしていくためには、少しずつ藁を継ぎ足していく必要があるのです。

洗礼者ヨハネは、決定的な救い主、それはイエス・キリストですが、この方をふさわしく準備するように、人々を悔い改めへと導きました。彼は与えられた時間で、イエス・キリストにつながる人を少し継ぎ足したのです。決して、全世界に行ったのではありません。少し、藁を継ぎ足したのです。

これが私たちの今週の学びだと思います。父なる神は、洗礼者ヨハネを通して、当時新しい時代の始まりを与えてくださいました。父なる神の招きに答えて、ヨハネは歴史の縄をなうのに必要な人々を継ぎ足してくれました。

私たちの時代にも、歴史の縄をなう人々が必要です。一度に百人も二百人も必要なのではありません。一人とか二人、田平教会の歴史の縄を伸ばしていく人が必要なのです。そのためには働きかけが必要で、働きかけの始まりを与えてくださるのは常に父なる神です。神が私たちに始まりを与えてくださるのですから、私たちは自分のできることで、呼びかけにこたえる必要があります。

洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となって呼びかけに答えてくれました。では私は、どのように答えたらよいでしょうか。私たち田平教会の歴史の縄を紡いでいく藁は、どこから手に入れたらよいでしょうか。家族の信仰の歴史の縄を紡いでいく藁を、どのように確保したらよいでしょうか。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(3・4)私たちの教会に始まりを与えてくださる全能の神が、呼びかけの応答を待っておられます。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼私が何を好むのか、この年になってようやく分かった。この前の病人訪問で、全く同じ状況で別の結果になった出来事があった。Aさんの見舞いの時、フォトスタンドに聖フランシスコザビエルの腕「聖腕」の写真が飾られていた。
▼私はその人に「興味深い写真ですね」と話しかけ、それを受けてAさんは静かにこの写真が手に入った由来、当時の様子などを聞かせてくれた。興味深く聞かせていただいた。
▼Bさんの家では、田平教会創建当時のステンドグラスの写真を見せられた。その人は私が聞きたいかどうかも聞かず、この写真を持っていうる由来と、この写真を撮影した時の様子を延々と話した。私は我慢してその話が終わるのを待った。
▼私は、その対象物が語りかける声を聞きたいのだと知った。百万の言葉で水も漏らさぬ説明を聞きたいのではなく、写真や絵や、その人が刻んできた歴史を、そのものが語っているのを聞きたいのである。
▼「聞きたいでしょ。聞きたいはずだから話して差し上げます。」全く私の心は動かなかった。私が欲しいものは、語らずとも語りかけている実物なのだと悟った。きっとこれからも、AさんとBさんの私に対する接し方には埋まらない開きがあるのだと思う。
▼もはや好きでもないものを好きだとも言えない歳になってきた。好きでないものは我慢はするが、好きなものにはならないと思う。先に語って聞かせようとしている人よ。私は申し訳ないが、あなたの話を聞いちゃいない。

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今週の1枚
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第582回目。写真を撮影できれば良いが。教会の育成会で食事に出かけた。

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† 神に感謝 †
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