こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(日中)(ヨハ20:1-9)聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった

2018-03-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/1(No.938)
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復活の主日(日中)
(ヨハ20:1-9)
聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった
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あらためて主の復活おめでとうございます。復活徹夜祭と復活の主日日中のミサは、同じ復活の主日と思われがちですが、朗読される福音が違うということ一つを取り上げても、私は違うミサだと思っています。つまり、別々にあずかってほしいミサだということです。

ある人は、「復活徹夜祭にあずかったから、明けて復活の主日日中のミサは行かなくてもよい」と考えているかもしれません。先週のミサでしたら、繰り上げミサと当日のミサは朗読が全く同じなのですから、それは当日あずかれない人が繰り上げミサで務めを果たすというのはもっともなことです。

ですがこの復活を祝う両方のミサは、選ばれた聖書朗読が違いますから、同じミサとは言えないと思うのです。もし「両方とも同じだからどちらかあずかればよい」と考えていた人がいらっしゃれば、来年からは改めましょう。同じことは「主の降誕」にも当てはまります。

さてこの日の日中のミサは、少し切り口を変えて考えてみましょう。マグダラのマリアがからの墓に驚き、弟子たちに自分たちが見たことを告げました。ペトロともう一人の弟子が墓に向かいます。この二人について最後にこう書かれています。

「シモン・ペトロも着いた。(中略)それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(20・6-9)

もしかしたら、シモン・ペトロ一人では、イエスの復活に思い至らなかったかもしれません。また、もう一人の弟子、おそらくヨハネのことだと思いますが、かれもまた、一人ではイエスの復活を信じることはできなかったかもしれません。つまり、彼らは二人で出来事を思い巡らしているうちに、聖書の言葉「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」ということを理解したのではないでしょうか。

今年、聖週間の一連の説教を「イエスをどのように呼ぶか」ということで考えてみたのですが、受難の主日を迎えた直後には、まだ今日の復活の主日までのつながりについて道筋は見えていませんでした。ところが月曜日と火曜日、どのように聖週間全体の説教をまとめるかを人に話してみたら、はっきりと道筋が見えたのです。一人で考えているときには見えそうで見えなかった道筋でしたが、だれかと分かち合った時に、道筋がはっきり見えたのでした。

これは、シモン・ペトロともう一人の弟子が空の墓で体験したことに重なると思います。イエスが復活し、暗く沈んでいた弟子たちの心に光を届けてくれました。そのとき一人で救われたのではなく、複数の人が助けを求めて一緒に思い巡らしているときに、救いの光が差してきたのです。

私たちにとってもそれは同じことではないでしょうか。人は一人で救われるのではないのです。かつてイエスが言われたように、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)複数の人がイエスについて学びあったり語り合ったりするところに、求めるものが与えられるのだと思います。

そこで一つの呼びかけをして説教を結びたいと思います。復活の喜びは、一人で心に持ち続けるのではなく、二人三人で、分かち合うべきだということです。複数の人が集まると言っても、皆がイエス・キリストへの信仰を持っている必要はありません。だれかと一緒にイエス・キリストの復活を語り合うとき、そこに復活の主がおいでになり、喜びと希望を与えてくださる、復活した主を理解する恵みが与えられるということです。

わたしたちは四六時中同じ信仰を持つ仲間と時を過ごしているわけではありません。むしろ、違う信仰の人と、あるいは信仰すら持たない人と席を共にしていることのほうが多いと思います。家庭の中にあっても、自分一人カトリック以外の宗教の家に嫁いでいることも考えられます。だれともイエス・キリストのことを語り合ってこなかったかもしれません。

そうではなく、だれかと復活したイエスのことを分かち合うとき、あなたに復活した主への理解が授けられるのです。私一人がイエスを信じている場所でも構いません。自分の持っている信仰を分け合うとき、それまで以上の理解を、分かち合ったことで授けられると思います。いつかそのことが、そばにいる人にイエス・キリストを知る機会を与えてくれて、身近な福音宣教に結びついていきます。

まっすぐにイエスについて行ったシモン・ペトロと、イエスの愛する弟子だったヨハネ、この二人であっても一人だけではイエスの復活を十分理解できなかったのです。考えてみれば、イエスの復活は複数の人がいる場所で示されています。墓に最初に言った婦人たち、家に閉じこもっていた弟子たち、エマオに向かう弟子たちなどです。私たちは孤独のうちに復活を読み解くのではないのです。

そこでもう一肌脱いでもらう必要があります。残念ながらこの社会には、孤独に生きる人、一人きりで復活の主日に家庭で祈っている人、そういう人がいるはずです。ぜひ訪ねて行って、二人または三人で主の復活を迎えられるようにしてほしいと思います。共に主の復活を祝ううとき、私たちの喜びは何倍も深まるのです。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖週間に賽銭泥棒がやってきた。鍵をこじ開けるのが難しくて未遂に終わったようだが、警察がやってきて現場検証と監視カメラの記録を持ち帰った。泥棒よ、監視カメラが作動しているから田平教会は狙わないほうがいいぞ。
▼それにしても監視カメラの画像は驚くほど鮮明だ。ある日のミサの様子を見させてもらったが、よほど私の眼鏡をかけた視力よりもよく見ることができる。あれでは賽銭箱をいじったりすれば、だれなのか一目瞭然である。
▼監視カメラが聖堂内に設置されているのは、本来は喜ばしいことではない。祈る場所だから、祈る姿を神さま以外に見られているのは気持ちの良いものではない。しかし現実に賽銭箱をこじ開けたりする人がいれば、防犯上必要にもなる。田平教会の賽銭箱がそんなに興味があるのなら、主任司祭に聞きに来てほしい。大した額ではないのだから。
▼田平教会献堂百周年を節目に、何かこれまでとは違う一歩を踏み出したいと思っている。自分たちが迎えた献堂百周年から、何か一つでも新しい芽が出て、実を結ぶようにしたいと思っている。そのために私はここにいる間に何か手を打ちたいと思う。田平教会の信徒にも、何ができるか考えてほしい。
▼実にたくさんの人が、今回の献堂百周年を支えてくれている。田平教会信徒、この教会を故郷に持っている人、この教会に特別な思い入れがある人。その人々の思いにこたえるためにも、何かができればいいと思う。
▼多分その中で分かりやすい働きかけは、「人を育てる」ということだろう。司祭・修道者がその先頭だ。あるいはカテキスタとか、活動団体の会員に新メンバーを加えるとか、「人を育てる」ということは、仮に最後までたどり着けなくても、その過程だけでも価値がある。そうだ。ご復活を機に、召命について一緒に考えてくれる親子を探すことにしよう。

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今週の1枚
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第545回目。復活徹夜祭前の祭壇。すべての覆いが取り払われている。虚飾なし。

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復活徹夜祭(マコ16:1-7)あの方は復活なさって、ここにはおられない

2018-03-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/31(No.937)
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復活徹夜祭
(マコ16:1-7)
あの方は復活なさって、ここにはおられない
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主の復活おめでとうございます。今年の聖週間を、イエスの名前をどのように呼ぶかという切り口で考えてきました。今日、その答えが与えられました。私たちは復活の主を、「あの方」とお呼びします。

与えられた朗読の中で、白い長い衣を着た若者は、イエスについて二通りの呼び方を示しました。「十字架につけられたナザレのイエス」と、「あの方」という呼び名です。「十字架につけられたナザレのイエス」とは、イエスに油を塗りに来た婦人たちが理解していたお姿です。

イエスが裁判を受け、お亡くなりになるまで、イエスの呼び方はひどいものでした。「お前」とか「あの男」「あの人」こんな呼び方をたしなめる人も、堂々と反論する人もいなかったのです。最後の晩餐で「主よ」と呼びかけたペトロさえも、イエスの死に際して「そんな人は知らない」かかわりを否定しました。人間は命のかかった場面では弱くみじめで、ただじっと、遠くから様子を見守るだけなのです。

勇気ある婦人たちも、墓に出向いたとき「十字架につけられたナザレのイエス」としか呼び名を持ち合わせていませんでした。そこへ、新しい呼び方が示されたのです。それは「あの方」という呼び方でした。

「あの方」「あのお方」こうした呼び方は、明らかに敬意をこめた呼び方です。それは、一緒におられた間も、お亡くなりになっても、イエスが変わらず尊い姿であることを思い出させました。さらに加えて、神の使いであるこの若者は「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と付け加えたのです。墓に眠る人を呼ぶ呼び名はイエスにふさわしくないと知らせたのです。

神の使いは決定的な変化を付け加えます。イエスの呼び方を「十字架につけられたナザレのイエス」から「あの方」に変えてくださっただけでなく、復活して、さらに栄光が増し加えられたと教えてくれたのです。「あの方」と呼んで過去を振り返るだけでなく、「あの方は今生きておられる」と教えてくださったのです。

復活の出来事は、まず墓に出向いた婦人たちに、イエスは「十字架につけられたナザレのイエス」のままでは終わったのではない。人前で話すのもはばかられる呼び方で終わったのではなく、今生きて、「あの方」「あのお方」と呼びかけることができると気づかせたのです。

神の使いは婦人たちに使命を与えました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16・7)。まだ弟子たちにとって、イエスの呼び名は人前でうっかり語れない呼び方しか持っていません。その弟子たちに、婦人たちが伝えるのです。「イエスは、名前を呼ぶのもはばかられる姿ではなく、復活して、『あの方』と呼ぶことができるのです」と。

弟子たちには、イエスのことを語り合う勇気はまだ育っていませんでした。言葉と行いによって神の国の到来を告げたのに、最後は宗教指導者たちと彼らに動かされた人々によって死に追いやられた人。弟子たちの中ではイエスについて語ることができるのはそこまででした。

けれども婦人たちの報告ですっかり変わります。うかつに名前など呼べない。ましてやイエスのご生涯について語れない。そんな恐怖にとらわれていた弟子たちは一つの呼び方を示されて変わるのです。イエスを「あの方」と呼んで、イエスについて人々に語ることができる。イエスは生きておられ、ガリラヤで会うことができるのです。

私たちの間でも、呼び方が一つ変わるだけで、人と人とのかかわりは大きく変わるものです。結婚している夫婦が、「おいお前」と相手を呼んでいる間は、配偶者は言うことは聞くかもしれませんが、心の底から相手を尊敬することにはならないでしょう。その配偶者は外に出れば、「あの人は」とか「あいつは」とか言っているかもしれません。

呼び方が変わることで、お互いの尊敬や信頼も深まります。私は配偶者がいないのでどう呼ぶのが適当か分かりませんが、花子さんとか何とか、配偶者の名前をいくつになっても呼ぶなら、もっと互いが寄り添う関係であり続けるのではないでしょうか。

復活した主は、ご自身を呼ぶために「あの方」という呼び方を婦人たちと弟子たちにお示しになりました。つまり、尊敬の念をもって、自信に満ちて呼ぶことができる呼び名を授けてくださったのです。私たちはどうでしょうか。生活の中で、イエス・キリストという名前が、呼ぶのもはばかられるのであれば、復活した主は私の中で生きているとは言えません。

むしろ、堂々と「あの方は生きておられる。あのお方はわたしの生活を喜びと希望で満たしておられる」このように言える信者となりましょう。私たちが、イエスを「あの方」と呼んで人々に示すとき、復活した主は確かに今私たちを導いておられるのです。

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼主のご復活おめでとうございます。司祭館は一足先に聖金曜日に復活。これは教義のことを言っているのではなく、聖金曜日に復活徹夜祭の説教を書いたので、こう言ってみたのだが、復活の視点から様々な出来事を見直すと、違ったものが見えるかもしれない。
▼「不思議な大漁」という出来事が福音書には収められているが、共観福音書はこれを「漁師を弟子にする」出来事として採用しているが、ヨハネ福音書は復活した主が弟子に現れる一場面として描いている。復活した主の働きとして読み直すと、出来事は違ったことを教えてくれるということの表れだろう。
▼かなり前から気になっていた司祭間の寒さの問題。玄関を開けると夏でも冬でも司祭館内から玄関に向かって風が出ていく。これでは部屋が温まらないと会計さんを通して大工さんを呼んでもらった。大工さんは蚊取り線香の煙が流れるのを見ながら、主な原因を突き止めてくれた。
▼主な原因は、外から司祭間の床に入った空気が、床下から吹き上げて、それが玄関に流れているということだった。百周年の建物ゆえ、廊下など床板は隙間があって、そこからどうやら噴き上げているらしい。合板の床などは問題ないのだが、廊下はたしかに隙間がある。確かめることができたのはまず第一歩だ。
▼復活祭を迎えたのだから、お祝いをしよう。主の名を呼び、大いに喜びあおう。お魚で祝うか、肉で祝うか。賄さんが腕を振るってくれるに違いない。復活祭のごちそうって、なんだ?

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今週の1枚
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第544回目。献堂百周年ミサのパンフレット見本が届いた。中を確かめる。

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