こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖金曜日(ヨハ18:1-19:42)私たちもイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ

2018-03-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/30(No.936)
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聖金曜日
(ヨハ18:1-19:42)
私たちもイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ
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聖金曜日、主の受難を記念しています。マルコ福音書を解説した書物の中に、「思い起こし、物語れ」という本がありまして、上下二巻の書物で、合計一千頁ほどあります。「主の受難を記念する」という言い方に前から私は抵抗がありましたが、この本のタイトルのように、「思い起こし、物語る」ことが記念することの本質なのだと思いました。

さて、聖週間の連続した説教の中で、私が取り上げているテーマは「イエスをどのように呼ぶか」ということです。受難の主日、ピラトはイエスを「お前」と呼びました。聖木曜日、イエスを裏切ろうと決意したユダの引き金となった言葉として、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」という言葉を引用して、ユダがイエスを「あの男」と呼んだことに触れました。

今日、十字架の上でいのちをささげるイエスをペトロは「知らない」と言います。問い詰める人々が「あの人」と呼んだり「あの男」と呼んだりしてイエスの仲間だと追い詰める中で、直接は書かれていませんが、「あの人のことなど知らない」「あの男のことは知らない」と否定するのです。

イエスは孤立しています。イエスから遠い人が「お前」と呼ぶのは仕方がなくても、最も近い場所にいる弟子たちがイエスを「あの人」「あの男」と言い放っているのです。イエスを「先生」とか「主」とか呼ばなければならない人々がその呼び方でイエスから心が遠く離れてしまっていることがわかります。

こんな人のために十字架にかかる必要があるでしょうか。すべての人をご自分のもとに引き寄せるためでした。私たちが犯した大なり小なりの罪を、認めるためです。イエスから遠く離れている人のためにも、イエスのそば近くにいて心苦しくもイエスを知らないと言ってしまった人のためにも、すべての人をご自分のもとに引き寄せるために、イエスは十字架の上でいのちをささげるのです。

私たちは残念ながらイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ者たちの仲間です。イエスの弟子が「あの男」と呼んだのでした。私たちも洗礼堅信を受けて、イエスの弟子となっています。「あの男」と呼び捨てた覚えはなくとも、ふだんの生活で誰かにイエスのことを「主」とか「イエス様」とかなかなか呼べない弱い存在です。

私たちはいつになったらふさわしい言葉でイエスを呼ぶことができるのでしょうか。それはイエスの復活を待つしかありません。復活したイエスが私たちを勇気づけ、ふさわしい呼び方をわたしの唇に授けてくださいます。復活のその時を待って、今日は静かに十字架を礼拝しましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マコ16:1-7)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日に聖金曜日の原稿を書いた。聖木曜日に聖金曜日の気分に切り替えて書く必要がある。そして数時間後には聖木曜日に復活徹夜祭の気分に切り替えて原稿を書く。この切り替えにエネルギーを消費すると言ったら信じてもらえるだろうか。
▼残念ながら信じてもらえないかもしれない。けれども自分の中では、聖木曜日の主の晩餐の席に立ち会い、聖金曜日の主の受難に立ち会い、その後に復活の場面を弟子たちとともに目撃しているつもりである。しかもほぼ一日で。だから私にとってはエネルギーを相当消費している。
▼復活祭を無事に迎えられたら、いったんネジを緩めたい。何か気分転換ができることを見つけて、頭の中を空っぽにして、それから次の大きな通過点である献堂百周年に向かうことにしよう。まずは釣りか。あるいは実家に帰らせてもらうか。実家に帰るのは間違いないが、実家では寝るだけで、ほとんどの時間前任地で釣りをするか。
▼まぁいずれにしても限られた器であるから、一度空っぽにしてそれから前に進みたいものだ。黙想会の時に痛いほど経験したが、説教師の接待やゆるしの秘跡のお手伝いの神父様の接待をしただけで疲れてしまった。たまたま土曜日に終わったが、土曜日は間髪入れずに受難の主日の典礼だった。
▼切り替える暇もなく、聖週間に突入した。だから今年は相当疲れた中で聖週間を迎えている。疲れているとろくなことがない。典礼の流れを間違えたり、大事なことを見落としたり、説教の録音をし忘れたり。
▼思い出したが、故郷鯛之浦教会での銀祝ミサの時、ICレコーダーを忘れてきてしまった。生涯悔やまれる出来事だった。年齢のせいにはしたくないが、きっと疲れていたのだと思う。

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今週の1枚
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第543回目。再掲。十字架を担う人が、軽やかに担うことができれば。宣教学。

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聖木曜日(ヨハ13:1-15)今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる

2018-03-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/3/29(No.935)
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聖木曜日
(ヨハ13:1-15)
今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる
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聖木曜日、主の晩餐を祝います。聖体の秘跡と、聖体を取り扱う司祭職の制定が聖木曜日の中心です。聖体は「与えられたキリスト」の姿を示します。「与えられたキリスト」の姿とはどういうことでしょう。

「与えられたキリスト」と言いましたが、それは権威を示す姿やゆるしをお与えになる姿ではなく、受け身の姿、司祭の手を通して信者に授けられ、ご自分からは動かない姿です。通常ご聖体は司祭によって授けられますが、聖体拝領の列にだれが連なっているか、司祭は完全には把握できません。

ご聖体のイエスは完全に把握しておられても、司祭が間違って授ければその人のもとに授けられていきます。そんな姿にまでへりくだってくださいました。見える形では弟子の足を洗う姿によく表れています。

イエスはこう言われました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13・7)。ここにはもはや言葉では説明できない、へりくだりの姿が示されているのです。

「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(13・2)謙虚さとか、仕える者となるとか、そういう言葉では裏切ろうと考えているイスカリオテのユダの足をイエスが洗う姿は説明できません。

「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(マタイ26・14)。ユダはこう言ってイエスを裏切ったのです。イエスは、最もそば近くにいながら、イエスのことに触れながら金をくれと言う人、金を要求する人の足を洗ったのです。謙虚さとか、仕える者とか、そういったありきたりの言葉を超越したへりくだりがここにはあるのです。

ご聖体は弟子たちの足を洗うこのイエスの姿なのです。だれが裏切り者であるかを完全に把握しているのに、司祭が授けるままになり、仮に司祭が間違った人に授けても、拝領した人の中に留まるのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13・15)司祭職は、互いに足を洗いあうことのようです。司祭の判断ミスで、ふさわしくない人にご聖体を授けてしまうかもしれません。イエスのそば近くに仕えていながら「幾らくれますか」と言う人にも、足を洗うために膝をかがめました。司祭も、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」この模範に従うように招かれたのだとあらためて考えました。

裏切る人に膝をかがめるのはどんなに悔しいことでしょう。どんなにみじめなことでしょう。それら人間的な感情を超越して、イエスはへりくだったのです。ご聖体を取り扱う司祭職に招かれた司祭は、生涯、主の晩餐で示された模範を刻みつつ、悩みつつ生きていきます。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼イエス・キリストをどう呼ぶか。これが今年の聖週間から聖なる三日間までの説教の切り口となっている。ひょっとしたらそれを見抜いておられる読者もいるかもしれない。日曜日にはぼんやりとしたイメージだったが、月曜日にははっきりとそうなった。
▼いろんな具体化の方法があると思うが、頭の中にあることを言葉で言い表そうとしたときに今回の切り口がはっきりした。短い言葉で頭の中にあることを説明しようとしたことで、頭の中にあったことが明確になったのである。
▼多くのカトリック信者は聖週間もそれほど通常の日々と変わりなく暮らしているかもしれない。だが典礼を執り行う司祭は、本当に忙しい一週間である。そうでない司祭もいるかもしれないが、私は説教の切り替えのためにふだんの一週間の何倍も苦労する。
▼いわばそれは、司祭にとっての「死と復活」なのかもしれない。教会の中で一人くらいは「死と復活」をくぐる人がいてもよい。イエスが体験したことを体験して、教会家族に分かち合うのはそれなりに意味がある。だから司祭が、率先して「死と復活」を体験し、分かち合っているわけだ。
▼一週間に五つの説教を準備する。死ぬような思いだ。しかし四回目、五回目の説教は復活の説教である。復活の説教まで準備すれば、司祭も復活できる。毎年、少しずつでも自分なりの「死と復活」を経験して、それを教会全体で分かち合う。こうして教会は豊かになるのかもしれない。

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今週の1枚
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第542回目。今は完全にノートパソコンで仕事。背景のデスクトップは動きが遅い

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