こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第16主日(ルカ10:38-42)イエスの話に聞き入る時を空けておく

2013-07-21 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/07/21(No.660)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
イエスの話に聞き入る時を空けておく
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ここ15年ほどのわたしの経験から、荷物は片手で持てる分量になるように心がけています。この考えにたどり着いたのは、巡回教会に泊まりがけで出掛けることがきっかけになっています。

これまで主任司祭として3つの小教区に赴任しましたが、太田尾小教区では間瀬教会に出掛ける時、伊王島の馬込小教区では高島教会に出掛ける時、ここ浜串小教区では福見教会に出掛ける時に、荷物を両手に抱え、自分で自分にイライラしながら移動していたのです。

特に泊まりがけの巡回教会訪問で痛いほど分かったことは、荷物をいっぱい抱えていっても、全部使うことはないし、本教会の司祭館の鍵を閉めて出るとか、雨の日に傘を差すとか、車に乗り降りするとか、巡回教会の司祭館の玄関の鍵を開けるとか、いろんな場面で瞬間的に片手で持てなかったら、イライラが募り、何の得にもならないと感じたのです。

そこで、自分の行動を整理して考えてみました。本当に、両手一杯の荷物が必要だろうか。どうしても必要なことが、そんなに山のようにあるだろうか。あれもこれも、欲張って持ち出そうとしているのではないか。考え抜いた末にたどり着いたのは、「荷物は、片手で持てる程度に収めよう」ということでした。

まったく同じ事が、仕事についても言えると思っています。両手に抱えきれないほどの仕事というのは、最初から背負いすぎであって、片手に持てるくらいの仕事に減らした方が、きっと仕事もはかどります。

さて今週の福音朗読ですが、マルタとマリアの姉妹の物語が選ばれました。せわしく立ち働いているマルタのことを、わたしは他人事のように見ていましたが、今はマルタはまさに自分のことだと思います。

「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」(10・40)マルタは、まさに両手いっぱいの仕事と格闘し、注意力散漫になり、イライラを抱え、とうとうイエスに不平を述べるのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(同40)

興味深いのは、マルタはこの言葉を、「イエスに近寄って言った」(同40)ということです。おそらくマルタは、物理的にも精神的にも、イエスから遠くにいた、イエスの思いから遠ざかっていたのかもしれません。

そこで、わたし自身の経験を重ねて考えるのです。もしマルタが、例えて言えば片手が空くくらいのもてなしで抑えていたら、妹マリアのことでイエスに不平不満を募らせずに済んだことでしょう。両手一杯のもてなしを冷静に見つめ、本当に、これだけのもてなしが必要だろうか、どうしても必要なことが、そんなにたくさんあるだろうかと考えたなら、イエスから遠く離れない場所、よくイエスの話が聞ける状態で、もてなしをできたことでしょう。

マルタとは正反対の態度を取ったのがマリアです。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10・39)とあります。ここには書かれていませんが、わたしは、マリアがそれほど気が利かない妹だとは思えないのです。お茶と煎餅くらいは、マリアも手元に持っていたかもしれないからです。

つまり、片手間でお世話できるくらいのもてなしは、用意できていたかもしれない。マリアは、もてなしは片手が空くくらいにして、本当に必要なことは何だろうかと、考える余裕を手に持っていたのです。

イエスは、マリアの態度を褒めました。わたしたちはマルタとマリアの姉妹の、どちらが優れているかと考えがちですが、マルタもマリアも、わたしは1人の人間の持つ二面性と考えることも可能だと思います。

わたしたちは、両手に余るほどの物や仕事や思いを抱えて、そのためにイエスから心が引き離されていることがあります。片手が空いていないので、冷静に自分を見つめることができないことがあるのです。そうなってしまうと、つい今の自分の置かれている状況に不満を抱き、だれかのせいにしたり、だれかを攻撃したりするわけです。

そうではなく、どんなに忙しくても、片手が空くくらいにしておくと、周りがよく見えて、自分が抱えている物や仕事や思いは、すべて必要な物だろうか、本当に必要なものって、そんなにたくさんあるだろうか。いつも生活の中心にイエスを置いて、イエスから離れない状態で、物事を見つめることができると思うのです。

イエスは、マリアの態度を褒めました。マリアという人を褒めたというよりも、マリアのように、イエスの近くにいられる状態、どんなに忙しくても片手は空いている状態に留まることを褒めたのだと思うのです。片手が空いているとは、どんなに忙しくても生活の中で祈りをする空きがあることだったり、どんなに忙しくても教会とのつながりを保ったりすることです。

両手に抱えきれないほどの仕事、両手に抱えきれないほどのもてなしは、みずからをイエスから遠く離れたものにしてしまいます。すると、ストレスやイライラがたまり、不平不満がこぼれることになるのです。

どんなに忙しくても、片手は空いている状態をお勧めします。イエスの話に聞き入るだけの時間と都合を空けて、毎日を過ごしましょう。そうすることで、「ただ一つの必要なこと」をイエスが語りかけ、教えてくださいます。

そしていつかは、イエスを知らない人に「あなたも、良い方を選ぶことができます」と、自分の生活を紹介できるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ルカ11:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼よく膝も痛めずに、日課の1日1万歩が続いているものだ。準備体操も、歩いたあとのケアも、きっと不十分なはずなのに、頑丈なからだを与えてもらい、感謝している。もちろん疲労はじわじわと重なってきていて、歩き始めはあちこち痛かったりするが、今のところ後に引くようなことはない。
▼長崎の浦上教会の下に、「天主公園」という公園がある。用事で長崎に出張した時、最近はよくこの公園で日課をこなしている。松山町には、「旧陸上競技場」があり、立派なトラックと周回道路が今も利用できる。ただその場所まで行くために、およそバス停3つぶんの距離を歩かなければならず、「歩き始めるために歩いて行くのはちょっと」ということで、天主公園を利用している。
▼7月16日も天主公園を歩いた。この日もフライパンの上にいるような暑さだった。わたしが歩いた時間、クマゼミが猛烈な勢いで鳴いていて、何も聞こえないくらいだった。不思議なもので、クマゼミがあれだけ鳴くと、むしろ、静かな場所にいるような錯覚を覚える。そんな中でみっちり歩き終わった。
▼この暑い最中、なぜクマゼミは、あんなに元気なのだろう。観察することにした。セミの抜け殻を探すことから始めたが、なかなか見つからない。歩いている間に、地面に落ちていた抜け殻は見つけたが、どこかにつかまり、背中が割れた、期待していた抜け殻がなかなかない。
▼ようやく見つけた。登って、最初にたどり着く葉っぱにつかまって脱皮している。木に登ったのだから地面から出てきた場所もあるはず。木の根元を見ると、穴が何ヶ所も開いていて、どれだか分からない。適当にこれだろうと決める。
▼こんな、ふつうの公園。ここで、出張時も1万歩歩いている。先月の28日から開始して、ようやく3週間になる。お腹のへこみ具合はまったく感じられないが、ママさんミニバレーに参加して、アタックが面白いように決まるので、体のキレは間違いなく戻っている。まずは1ヶ月続け、3ヶ月くらいで効果が現れてほしい。

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今週の1枚
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第267回目。出張時に歩いている天主公園。セミも鳴いて、競い合っています。

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