こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖木曜日(ヨハネ13:1-15)すべてを与え尽くす覚悟を学ぼう

2010-04-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/04/01(No.467)
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聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
すべてを与え尽くす覚悟を学ぼう
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聖木曜日は、最後の晩さんの席で、イエスがパンとぶどう酒を用いて、ご自分の御体と御血を人類にお与えになる聖体の秘跡が定められた日です。聖体の秘跡を定めたと同時に、この聖体の秘跡を取り扱う司祭を制定する、叙階の秘跡も同時に制定された日とされています。今年の聖木曜日、特にイエスが弟子たちの足を洗い、奉仕をする姿を示して、司祭に必要な姿を示しておられることをいっしょに考えてみたいと思います。

3月30日、浦上教会で聖香油のミサと叙階50周年金祝、叙階25周年銀祝の祝いが行われました。50周年の金祝の司祭が6人いたのですが、代表で川添神父さまが講話をしてくださいました。25周年の銀祝の司祭からは、オプス・デイの尾崎神父さまが講話をしてくださいました。金祝を迎えた川添神父さまは、わたしが司祭になって初めて赴任した浦上教会で、主任司祭としてわたしを育ててくださった神父さまです。

50年を振り返っての講話は、おもに熊本県の天草と帯山の2つの教会に現在まで13年間派遣されているのですが、その中からのお話でした。特に天草は、もともとパリミッション会の司祭たちが司牧を担当していた教会で、後にはコロンバン会の神父さまたちがそのあとを引き継いで、ずっと海外からの宣教師たちが担当した教会です。日本人の司祭が天草をお世話したのは、ごく最近のことで、ほとんどの時代を、海外からの宣教師がお世話してくださっていたそうです。

そういう歴史を抱えている教会に派遣されていって、昔から変わらない司祭館の様子、教会の様子をその目で見て、海外からはるばるやってきて、異国の地で働いた司祭たちのご苦労がよく分かったそうです。特に宣教師たちの暮らしは、美味しいチーズを食べたりして立派な暮らしをしていたのかと想像していたけれども、実際には本当に質素な暮らしをして、すべてを日本人の信徒のために献げ尽くしていたことがよく分かったそうです。

今日、福音朗読ではイエスが食事の席に着いてから、途中で弟子たちの足を洗う様子が紹介されました。当時の人々が、外出から帰った時、異邦人の土地を歩いたりして宗教の異なる人々と交わった状態を洗い清めるために足を洗っていたわけですが、それは外出から戻ってすぐのことであって、決して食事が始まってから途中ですることではありませんでした。ですから、イエスのこの動作は、特別な意味を込めてなされたのだと考えるべきです。

わたしは、イエスがご自分のすべてを弟子たちに与え尽くす、その思いを伝えようとして、食事の席を立って弟子たちの足を洗ったのではないかと考えています。

では、どんなことを弟子たちに与え尽くそうとされたのでしょうか。3つ考えてみました。1つ目は、聖体の秘跡を制定する最後の晩さんの席ですから、ご自分の命を、与え尽くすためにこの場を設けたということです。この聖体の秘跡のおかげで、わたしたちもイエスの命をすべて、分け与えてもらうことができます。

2つ目は、弟子たちの足を洗うことで、イエスはわたしたちのためにどんなことでもするということを示してくださいました。必要があれば、弟子の足を洗うこともする。師匠であるイエスが、弟子たちの前にひざまずいて奉仕することもいとわない。その態度を、今日のこの最後の晩さんの席で教えておられると思います。

最後の3つ目は、わたしが、必要とあらば弟子たちのためにどんなことでもしたのだから、あなたがたも互いに、必要があればどんなことでもする覚悟でいなさいと教えてくださったと思います。わたしたちは、ほとんどの場面で、ここまではしてもいいけど、これ以上はしたくない、そんなことを考えています。

けれども、イエスが示そうとしたのは、すべてを与え尽くす姿です。「すべて」というのは、「ほとんど」ではありません。あくまでも「すべて」です。このイエスの態度に、わたしたちの日常を当てはめて欲しいのです。

特に、わたしには今、1つ心配事があります。わたしは新しい任命を受けてこの教会を離れ、後任の神父さまが引き継いでくださることになっているわけですが、その後任の神父さまの生活の支えをちゃんとしてもらえるだろうかと、そのことをとても心配しています。わたしもたくさん助けてもらってありがたかったのですが、同じように、後任の神父さまにもたくさんの助けの手を差し伸べてほしいと思うのです。

まだ、安心して引き継ぐことができない状況にあることを、今も胸を痛めています。どうか、司祭館での安定した生活のために、主任司祭が安心して働くことができるように、後任の神父さまを助けてあげてほしいのです。わたしはそれが、今のこの教会にとって、すべてを与え尽くしてくれたイエスに見倣う具体的な方法だと思っています。

どうやったら、後任の神父さまを安心してお迎えできるだろうか。真剣に考えてくださるなら、きっと解決の道は見つかると思います。たとえば一ヶ月のカレンダーをみんなでのぞき込んで、主任神父さまが一ヶ月安心して暮らしてもらうために、わたしは掃除をするからあなたは洗濯を手伝ってよ。食事のお世話はこんなふうにしようよと、具体的に考えてほしいと思います。

今年の聖週間、喜びもありました。今日、午後3時から、大人2人の洗礼式と堅信式を行いました。今日の典礼に、参加しているのではないかと思います。このかたがたが馬込小教区教会家族の中で日々成長し、信仰を確実なものにしていくためにも、合わせてみなさんの理解と協力を願いたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼今週から、婦人会の手伝いを依頼して、引っ越しの片付けを急ピッチで進めている。とは言っても、こうじ神父が「あ、それはちょっと待って」「あ、それはわたしがチェックしてから」といろいろ注文つけるものだから、さっぱりはかどらない。
▼そうは言っても、何も見ないで箱に入れるのを許すと、びっくりするようなことをするのでなかなかすべてお任せというわけにはいかない。それでも、わたしの目の届かない所で箱の中にどさっと入れて、はみ出ているのを無理矢理ガムテープで締め上げて箱に蓋をして、「一丁上がり」とやっている人もいた。性格がよく表れる。
▼10年ぶりに、テニスを再開することになりそう。かつて、20代後半から30代前半にかけては、先輩たちとテニスをするという口実で、先輩たちをコートの隅から隅まで走らせて、ある種の「しごき」をおこなっていた。
▼ふだんは先輩に口答えなど決してできない後輩たちが、テニスコートでは鬼コーチのように先輩を走らせる。コートの右端から左端、ネット際からベースラインへ。「先輩、届くはず!」「先輩、まだ若い!」そう言って無茶なボールを拾わせていたのだが、今度は立場が逆転する。要するに、わたしが「しごかれる」ことになるわけだ。
▼それは覚悟している。それが、長崎教区の先輩後輩の伝統なのだから。そして、このしごきに耐えなければ、後輩に遊んでもらえないし、その地区に仲間入りさせてもらえない。それくらい、この「儀式」は大事なのだ。少なくともわたしは、そう思っている。

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新企画今週の1枚
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第74回目。聖木曜日ですが、洗礼式を行いました。中央寄りの2人です。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100401.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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