こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第33主日(マタイ25:14-30)あなたはそれをどう読んでいるのか

2020-11-14 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/201115.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2020/11/15(No.1090)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第33主日(マタイ25:14-30)
あなたはそれをどう読んでいるのか
‥‥‥†‥‥‥‥
【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
‥‥‥†‥‥‥‥

「早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。」(25・16)主人が預けたのは現金です。いろいろ複雑に考える必要も無く、それを元手に商売をするなり、貸金業をするなり、すぐ事業に取りかかれるはずでした。しかし最後の一人は何も取りかからず、責任を問われることになります。なぜ最後の一人は主人の期待に恐れを感じたのでしょうか。

「タラントン」というお金の単位は、非常に大きな単位です。その下のお金の単位は「デナリオン」とか「ドラクメ」です。これは労働者が一日に稼ぐ賃金だったと言われています。ちなみに「ムナ」という単位もあります。これは「100デナリオン」「100ドラクメ」ですので、基準となるのは一日の労働者の賃金である「デナリオン」ということになります。

一タラントンは6000デナリオンです。一年に200デナリオンの稼ぎとして、単純計算で30年分の稼ぎです。するとこの一タラントンは、私が考えるに当時の人々が一生かかって稼ぎ出すお金だったと言えるでしょう。当時の人々の平均寿命を考え合わせると、30年働くことができれば御の字だったと思います。

一つのことに気づきます。一タラントン預かった人は、僕が一生涯働いて稼げるだけのお金を預かっている、と言うことです。すでに十分な資金を託されていたことを、最後の僕は見落としていました。

「かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」(25・19)十分な資金と時間を与えられているので、何らかの結果を出していなければなりません。預けたお金のほかに何も差し出すものがないというのは、言い訳にならないということです。

振り返って私はゾッとします。「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預け(た)」(25・15)私の同期は、それぞれ三つの教会の助任司祭となり、私は浦上教会の助任司祭でした。私は何タラントン預かって、この司祭職をスタートさせたのだろうか?そう思った時、ゾッとしたのです。

私がイエス・キリストと精算をする日に、何をお返しできるのだろうか。そもそも何タラントン預かっていて、どれくらい儲けて主人に差し出さなければならないのでしょう。どうひいき目に見ても、浦上教会は他の教会の二倍、三倍の経験を毎年積んでいきます。出会う人の数、出会う人の種類も、他のどの教会よりも中身が濃いものになります。浦上教会助任から出発したのですから、私がお返ししなければならない分は、他の同期の何倍も求められて当然です。今の自分の姿を鏡に映しながら、ため息をついたのでした。

今日の福音を、朗読箇所からではないのですが、イエスの次のことばで見渡すとよいかも知れません。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10・26)。これはルカ福音書の「善いサマリア人」のたとえを使って律法の専門家と対話する時に言われたことばです。私たちはこれを、「あなたは今日のたとえ話をどう読んでいるか?」と受けとめる。そうすると、見えてくるもの、響いてくることがあるのではないでしょうか。

「ここには何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」私は、司祭として歩み始めた時に五タラントンをいただいたに違いない。その五タラントンを元手に、神の国の喜びにあずかる人をどれだけ儲けただろうか。「これがあなたのお金です」と責任逃れをし、託された多くの恵みを神の喜びのために使わなかった点を問われるかも知れません。

私たちはどうでしょうか。少なくとも私たちは、人が一生涯で手に入れることのできるタラントンを、神から託されて生きています。それが6000デナリオンでなくても一向に構いません。ある人は生まれた時から寝たきりですが、その人の生涯で手に入れることのできるすべてを、前もって託されているのです。託されたものを使って、私たちは神にお返しできる人生を生きてきたでしょうか。

ある人はこう言うかも知れません。「私は自分のことで手一杯でした。さらに貯蓄して、さらに増やして、神さまにお返しする余裕なんてどこにもありませんでしたよ。」本当にそうでしょうか。

中田神父は、出会った時から長崎市の原爆病院に入院し、一歩も動けなかった人を知っています。その人はお見舞いに行くとしばしば新しいカトリック信者の紹介をしてくれました。「何階の何号室に、カトリックの人が入りました。よかったら訪ねてください。」

この人は「預かった命」というタラントンを活用して、神さまの喜ぶ儲けを生み出していたのです。そして、ある日訪ねたら居なくなっていて、詰め所の看護師に聞くと亡くなったということでした。

寝たきりの人ですから、預けられたタラントンはそう多くなかったかも知れません。けれどもその人は立派に儲けを出して、旅立っていったのでした。私たちが神さまから託されたものをどのように使うべきか、考えるお手本と言えるでしょう。

神は、誰に対しても預けたものの精算をします。預かったのにホコリを被ったままにしておくのか、預かったものを積極的に運用するのか、私たちの答えを楽しみにしておられます。それを「厳しい方」と受け取るのか、「楽しみに待っておられる方」と受け取るのかは自分次第です。私は、病院で出会った高齢の女性を通して、「神は私たちの応答を楽しみに待っておられる」と信じております。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
王であるキリスト(マタイ25:31-46)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼伊王島時代にお世話になった人の中に、メルマガを直接メールで送信していた人が数人いた。一人は介護施設に入ったが、一人は伊王島に今も住んでいる。この二人に転勤後も説教を聞かせたくて、メルマガのことを教え、転勤したのだった。
▼ところが、どうしてなのかうまくメルマガを発行スタンドから受け取れないで困っているという。まぁ、「お年頃」ということなのだろう。そこで直接メールで送るようになって、10年くらいになるかも知れない。ここで問題が発生した。
▼両方ともに、メールを送信できないのである。こちらから送信しようとすると、サーバーに拒否されたというような機械的な返事が送信されてくる。いろいろ試したが、どれもうまくいかず、数ヶ月困った状態が続いていた。
▼そこで、この時代にローテクではあるが、葉書で「メールが送れなくなっていて申し訳ない。受け取る皆さんのサーバーがパンクしている可能性があるので、ケータイに保存してあるメルマガを削除してみて欲しい」と連絡した。
▼一人は葉書の内容を理解できて、メールを削除してくれた。一人は内容が理解できなかった。それは仕方がないのだが、「これで送信できるようになる」と思ったのに、まだ送信できない。いよいよ困ってしまった。
▼そこで、やり方を一から考え直した。「タブレット」を準備してそれを渡し、それぞれで「ブログ」を読んでもらおう。少し費用はかかるが、これで全て解消できる。そう思った。ここからは時間差があるのだが、少し「話を脚色して」結末を紹介したい。
▼一人は、「タブレット」が功を奏し、これからは安心して毎週の説教を読み、録音を聞けるようになる「予定」だ。まだタブレットを送っていないので、あくまでも見込み。
▼もう一人はすでに届けに行ってきた。操作の仕方も一から教えてきた。その後、メールが届いた。「神父様、申し訳ありません。タブレットは操作が難しく、使うことができません。神父様と一緒に写った写真を、額縁のように立てかけています。ありがとうございました。」

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第697回目。録音で何と言おうと、私の体の中にはカープの血が流れている!

http://ss104313.stars.ne.jp/201115.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
‥‥‥†‥‥‥
今週の「笑える」
‥‥‥†‥‥‥
「あの攻撃してくるやつの名前何だっけ?『ショッカー』『サッカー』」
「あー、『ハッカー』ね」
‥‥‥†‥‥‥

† 神に感謝 †
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年間第32主日(マタイ25:1-13)... | トップ | 王であるキリスト(マタイ25:3... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事