こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)人は、神が語り掛けることのできる唯一の存在です

2009-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/12/25(No.451)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
人は、神が語り掛けることのできる唯一の存在です
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クリスマスの朝、主の降誕の日中のミサは、福音朗読がヨハネ福音書になっています。朗読を聞いて、皆さんも感じたかも知れませんが、とても抽象的で、救い主が幼子となってお生まれになったことを祝う御降誕には、ちょっと扱いが難しい箇所だと感じます。その思いが、これまでずっとぬぐえませんでした。

けれども、今年はちょっと違います。わたしの中に、何か、語るべき内容が降りてきまして、選ばれたヨハネ福音書の朗読箇所が、御降誕を黙想するためのすぐれた材料を与えてくれることが見えてきました。この点を、皆さんと分かち合いたいと思います。

与えられた朗読箇所は、ヨハネ福音書の始まりの部分です。聖書は読みやすくするためにまとまりごとにタイトルが付けられています。今日朗読されているヨハネ福音書の冒頭部分には、「言(ことば)が肉となった」というタイトルが付けられています。ここから、今日の物語全体の中で、「言(ことば)」が大切なのだということが伝わってきます。

さらに、「言(ことば)」に工夫が加えられています。人間が使う言葉と区別するために、「言う」という漢字に「ことば」というふりがなを付けて読ませています。この表現で、「神のことば」「御言葉」ということを表しているのです。「神のことば」が「肉」となったというのです。「肉となった」という表現も、「人間となった」とは言わず、「この世」に属するものという意味を強調して言っています。

「神のことば」が、「肉」となりました。このことで、何が言いたいのでしょうか。わたしは、長いこと勘違いして理解していたかも知れません。神が、わざわざ、人間となってくれたんだなぁ、有り難いなぁという理解を、長く持っていたのです。

けれども、今年は、違った考え方を示したいと思います。わたしはこれまで、「神のことばが、なぜ人間となったのか」ということを考えてなかったと気がついたのです。なぜ、神のことばは人間となったのだろうか。それは、神のことばを曲がりなりにも理解できるのは、この世にあって人間しかいないからなのです。ご自分が造られた生き物の中で、人間だけが、神のことばを理解できるので、人間となって、語り掛けに来たのです。

人間は、神のことばを理解できると言いました。ところが実際は、今日の朗読箇所にあるように、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)のです。理解できるはずなのに、理解しようとしなかったのです。

このことを、イエスの御生涯と具体的に重ねていきましょう。神のことばが、人間に語り掛けるために、肉となってくださいました。人となった神のことば、イエス・キリストは、人間が神のことばを受け入れてどのように人生を歩むべきかをご自身の生き方をとおしてお示しになります。

たとえば、少年時代に、イエスは神殿に留まっておられたことがありました。父なる神と、少年時代から親しく過ごす。その姿を学ぶことができると思います。さらに宣教活動に入られてからは、しばしば静かな時間を選んで、騒々しい場所を離れて、父なる神と親しく祈る時間を持ちました。

そして最後まで、父なる神のみ心に適う道を選び、危険を避けようとすれば避けることもできたのに、十字架上で命をささげたのです。これらは、「神のことばを理解できる人間」に、神がその独り子を通してしめされた生き方の模範、歩むべき道だったわけです。

その結果はどうだったでしょうか。「世は言を認めなかった」(1・10)「民は受け入れなかった」(1・11)というさんざんな結果だったのです。それでも、受け入れた人々もいました。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1・12)この受け入れない人と、受け入れる人に別れていく姿は、今の現実でもあると思います。神のことばを理解できるはずなのに、理解しようとしない人々が、実際にはたくさんいるのです。

では、この現実の中で、わたしたちには何が求められているのでしょうか。わたしは、本来の姿に立ち帰るように、働きかけることが求められているのだと思います。あなたも、あなたも、神のことばに真剣に耳を傾けるなら、神のことばが理解できるのです。

人間が、どのように人生を生きるべきかが分かるはずです。神の望みを探し求めながら生きていくべきだと、理解できるはずです。こうした本来の姿に、1人でも多くの人が立ち帰るように、働きかけてください。このメッセージを、「肉となった言」は、語り掛けているのではないでしょうか。

そこであらためて、静かに眠る幼子をこの目に焼き付けましょう。ここに眠る救い主は、「言が肉となった」お方です。今は語らなくとも、わたしたちに人間の本来あるべき姿を語り掛けるお方なのです。

人間だけが、神のことばを理解できる存在です。あなたが出かけて行って、神のことばを理解して生きる人間本来の生き方を生活の中で示してくださいと、幼子イエスは存在そのもので訴えかけているのです。

「言」は「肉」となりました。わたしたちは、神のことばを理解できる唯一の存在です。もっともっと、理解できてなかったことにも目を開いていただけるよう、幼子イエスに恵みを願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼命の始まりがあれば、命の終わりもある。今月、親戚の男性が急な心臓の病で亡くなった。異常を感じてから3時間で息を引き取ったそうである。わたしはその通夜に参加して、次のような話をさせてもらった。
▼「突然の悲しみに、谷底に突き落とされたような思いかも知れません。わたしは、12年前に赴任している教会の主任司祭が12月16日に重症の肺炎で亡くなった時、谷底に突き落とされたようなショックを受けました。クリスマスどころではないとさえも感じました。
▼ところが、主(あるじ)を亡くして悲しみに暮れる教会に、クリスマスのメッセージを語る人は自分しかいないと気付いたのです。この教会の神の民にも、イエスは希望を届けてくださる。暗闇の中にある民に、光を届けてくださる。それができる唯一のお方であると。
▼ですから、この深い淵から、イエスは必ずご家族を救ってくださいます。希望を失いかけているところに希望を届ける唯一のお方が、いつもそばにいてくださいます。どうか、信頼を寄せてください。
▼すべての人に、それは悲しみの淵にある人にも、救いを届けるためにおいでくださった方は、すべての人の終わりについても責任を持ってkづあさいます。お父さまは、あっという間に旅立たれましたが、すべてのことに責任を持ってくださるお方のもとに呼ばれたのです。信仰の内に、お委ね致しましょう。」
▼十分な慰めにならなかったかも知れない。けれども、あれこれ考えた挙げ句に、「わたしの言葉ではなく、あなたの言葉を語らせてください」という気持ちで話し掛けた。12年前の出来事も、最初から意識していたのではなくて、ギリギリになって語るべきこととして降ってきた。わたし個人としては、「やはり神はいるなぁ」という実感を持った出来事だった。
▼クリスマスケーキを囲み、にぎやかに昨日と今日を過ごしている人が多いに違いない。わたしも、クリスマスケーキと向き合って、すべての人の幸せを祈りたい。すべての人が、「神のことば」に耳を傾け、照らされて生きるように。メリークリスマス!

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新企画今週の1枚
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第58回目。忘れていなければ、わが家の教会の馬小屋。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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