こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)あなたの人生にもイエスと出会う「エリコ」はあります

2024-10-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/10/27(No.1321)
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年間第30主日(マルコ10:46-52)
あなたの人生にもイエスと出会う「エリコ」はあります
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年間の主日も30週になりました。34週目が「王であるキリスト(年間最後の週)」ですから、教会の暦「典礼暦」もいよいよ最終に近づいています。年間の週を終わると救い主の誕生を待ち望む「待降節」、新しい典礼暦です。

今週、盲人バルティマイのいやしの場面なのですが、説教をするほとんどの人が取り上げないであろう部分に目を留めてまとめてみました。それは出来事が起こった場所「エリコ」です。「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」(10・46)

新約聖書の中で、「エリコ」という場所が四回使われています。すべて興味深いです。(1)マタイ20章「二人の盲人をいやす」(2)マルコ10章「盲人バルティマイをいやす」(3)ルカ10章「善いサマリア人」(4)ルカ19章「徴税人ザアカイ」何か、気づいたでしょうか?

私はこう考えました。「エリコ」という場所は、「出会いの場所」なのではないか、ということです。マタイ福音書の二人の盲人はイエスに出会いました。今週のマルコ福音書のバルティマイもイエスに出会いました。ルカ福音書10章の「善いサマリア人」は、このたとえを通して律法の専門家がイエスに真の出会いを体験します。ルカ19章の徴税人ザアカイも、イエスに出会いました。

「エリコ」という場所が使われているのはこの四箇所で、ほかの使い方がされていません。四つを眺めていて中田神父は、「エリコは人がイエスと出会う場所なのかもしれない」と考えたのです。初めて出会った人、通りがかりに偶然出会った人、以前から会いたいと思っていてようやく機会を得た人、いろんな出会い方があるかも知れませんが、彼らはエリコで、イエスと真の出会いを果たし、人生が変わったのです。

しかしこの場所は、私たちにとって縁遠い場所です。日本から遠く離れたパレスチナの地、エルサレムの北東にある町ですが、位置関係を説明しても少しも身近には感じられないでしょう。私たちがすっかり「エリコ」という町に縛られてしまっているからです。

むしろ、新約聖書の中でイエスと真の出会いをする場所が四回も繰り返された。そのことに目を向けると、学びがあると思います。私たちの人生の中で、何度も繰り返してイエスと真の出会いをしている場所があるなら、そこがあなたにとっての「エリコ」なのではないでしょうか。

今週の物語に当てはめると、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」(10・51)と願って、イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(10・52)とお答えになると盲人は「すぐ見えるようになった」ことになっています。

身体の目が見えるようになるだけでしたら、「見えるようになれ」とイエスが命じれば済むことです。しかしイエスはバルティマイの信仰にまで踏み込んで出会ってくれました。私たちの信仰にまで深く踏み込んで出会ってくれた場所。そこは、バルティマイがイエスに出会った場所と同じく「エリコ」と呼んで良いのではないでしょうか。

ずっと教会のミサに通っていながら、退屈だ、早くミサを終わって出かけたい、そんなことばかり考えていた人がいるとします。しかしあるときから、「ミサに来るのが楽しくなった。説教を聞いて、見えなかったものが見えるようになった」そういう経験を何度も味わえたとしたら、この教会が「エリコ」であると、言えるのではないでしょうか。

私は、ゆるしの秘跡を受ける告白場が、皆さんとイエス様が深く出会っている場所だと考えています。告白場に留まる時間は本当に短い時間、3分とか5分です。しかしその短い時間の中で、告白をする人がいやしの恵みを受け、心を洗われ、再び力を得て帰って行くのを何度も見ます。皆さんにとっても告白場は、ゆるしを与えようとしておられるイエス様がより近く感じられる場所、緊張する場所ではないでしょうか。

実は私たちの生活の中に、イエスと真の出会いを果たす場所「エリコ」と呼べる場所があります。その場所をさまよって探し回る必要はありません。イエスは必ず、出会いたい場所であなたと出会おうと、待っておられるからです。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日(マルコ12:28b-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼ドラフト会議。広島カープだけが一位指名を公表していた。ドラフトの時間、教会学校も子供ミサもあっていた。恐る恐る番組を観た。公言していた選手は楽天に交渉権を持って行かれた。うーん、残念。
▼今年5球団の監督がユニフォームを脱ぎ、新しい監督に入れ替わる。来シーズンは熾烈な優勝争いになるだろう。今年の二の舞は味わいたくない。来シーズンは、9月まで、喜びを押し殺して応援することにしよう。

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今週の1枚
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第928回目。チャンスがあれば司祭叙階銀祝を迎えた井持浦出身熊川師晴れ舞台

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† 神に感謝 †
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年間第29主日(マルコ10:35-45)身代金を払ってもらって自由を味わっている

2024-10-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/10/20(No.1320)
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年間第29主日(マルコ10:35-45)
身代金を払ってもらって自由を味わっている
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土曜日朝、ミサの当番を間違えました。四日間の司祭助祭黙想会を終えての翌日でしたが、当番表を見ずに聖家族修道院に出向き、ミサを始めたあと携帯電話が鳴りました。「あー、間違えたんだな」と気づきました。まもなく、助任司祭の車も聖家族修道院にやって来ました。

けれども私の車が置いてあるのを見て、間違って来ている主任司祭を可哀想に思ったのでしょう、福江教会に戻ってミサをしてくれました。久しぶりに、言い訳のきかない間違いをしました。

今週の朗読で私の目に留まった箇所は、最後のところの「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10・45)この箇所です。「身代金」はあまり身近な言葉ではありませんが、今、現役で仕事をしている人には無関係な言葉ではありません。

職場ではパソコンがどこででも使われています。ときおりそのパソコンに不審な画面が現れ、「おたくらのパソコンの中身をそっくり盗んだ。返してほしければ『身代金』を払え」と脅迫のメールが入るのです。日本の会社で身代金要求の脅迫メールが来て仕方なく要求に応じたケースで、平均的な身代金の額は1億2300万円だそうです。

イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言っています。仮に金額が一億円だとして、私は二つのことを考えました。一つは、これまで何人の身代金のために自分の命を献げてくださったことか、ということです。今世界の人口は81億人と言われています。おそらく、100億人分の身代金が支払われたのでしょう。イエス様の命は、100億人の身代金に値する献げものだったのです。

もう一つ考えたのは、私のためにも、すでに一億円の身代金が支払われた、ということです。私はこれまでに2千万円分の現金しか見たことがありません。私のパソコンが乗っ取られ、「一億円用意しろ、でないとパソコンの中身をばらす」と言われ、すべてを現金化しても用意できる金額ではありません。そのような身代金として、もうすでに私のためにイエスの命が献げられている。これは驚くべきことだと思います。

身代金が支払われて多くの人が自由の身となりました。その自由を、あなたはどのように使うでしょうか。自分の自由のために使いますか?それも可能です。しかし中には、次のような自由のために、使うことも可能です。それは「多くの人が自由に生きられるお手伝いのために使う」ということです。

今日午後から、牢屋の窄殉教記念ミサが開催される予定でした。現地でのミサは天候悪化のために中止となりました。牢屋の窄で命を献げた人々は、自分の信仰の自由のために命を献げました。

そして同時に、日本でキリスト教を信じる多くの人の自由のために、命を献げたと言って良いでしょう。イエスの命という身代金で買い戻された自由を、自分のためだけでなく、多くの人の自由のために使ったのです。

私はこれを、司祭召命、奉献生活の召命にも結び付けて話すこともできると思います。司祭の召命・奉献生活の召命は、どちらかと言うと自分の自由のためではなく、多くの人の自由のために命を使う道です。

このような生き方を選ぶ人が十人に一人、いや百人に一人いれば、多くの人が自分の自由のために思い切って生きることができるのではないでしょうか。司祭や奉献生活者の生き方を選ぶ人は、多くの人の自由に奉仕する、仕える生き方。私はそう考えました。

イエス様がご自分の命という尊い身代金を払って、私たちは自由に生きるチャンスを与えられました。私たちに自由に生きるチャンスが与えられたのは、命を献げてくださったイエス・キリストのおかげですと、声を大にして語る人が、百人に一人くらいいてくれたら。世界宣教の日にあたり、そのような希望を持ちながら、ミサを続けたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(マルコ10:46-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会で、「祈りの年から聖年へ」という指導をいただいた。「主の祈り」が残されているマタイ福音書とルカ福音書は、それぞれ深い祈りだと教えてもらった。マタイ福音書の主の祈りが詳しくて、ルカ福音書の主の祈りが簡潔な形なのかと考えていた。
▼祈りの年も、残り少なくなってきている。今回の黙想を通して、残りの祈りの年の期間を有意義に過ごしていきたい。

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今週の1枚
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第927回目。黙想会中に「十字架山」と呼ばれる場所でロザリオ。手入れが?

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† 神に感謝 †
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年間第28主日(マルコ10:17-30)あなたに欠けているものが一つある

2024-10-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/10/13(No.1319)
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年間第28主日(マルコ10:17-30)
あなたに欠けているものが一つある
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10月10日に、浦上教会でヤコブ山内豊神父様の葬儀ミサが行われ、葬儀ミサの説教をお願いされましたので思うところを話しました。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」(二コリ9・6)という箇所を、コリントの信徒への手紙二から引用して、豊神父様は文字通り、「豊か」な生き方で司祭職をまっとうしました、そのように話しました。

27年ご無沙汰していた浦上教会の説教台に上がって説教したのですが、不思議と福音書朗読の時も説教の時も落ち着いていました。長らく上がったことのない場所に上がれば、少しは緊張するかなと思っていたわけですが、その兆候さえありませんでした。落ち着き払っていました。

しかし、それが実は落とし穴だったかも知れません。念のため録画と録音をして持ち帰り、あとでチェックしているうちに、なんか奢りとかが見え隠れするなぁと思えたわけです。精一杯考えた内容なので誰にも恥じるところはありませんが、肝心の山内豊神父様には、「あんたのそういう所は、直さんといかんね」と言われている気がしました。

一つのことを長く続けていると、自分が歩いた時間・経験にあぐらをかいてしまって、自分が今どう映っているか見えなくなることがあります。一つの生き方を貫く中でも、同じことがあります。今週の福音朗読で登場した「金持ちの男」は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10・17)とイエス様に尋ね、イエス様は一つの答えを示しました。

それに対し金持ちの男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10・20)と答えます。皆さんは、この答えを純粋な答えと受け取ったでしょうか?わずかに、ドヤ顔しているように聞こえなかったでしょうか。今年はB年ですからマルコ福音書から朗読が取られていますが、関連する箇所はマタイ福音書にもあって、マタイでは「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(マタイ19・20)と答えています。明らかにドヤ顔していますよね。

そこへイエスは付け加えるのです。冷たく突き放すのではなく、彼を見つめ、慈しんで言います。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10・21)

あっと驚く指示だったので、金持ちの男は「気を落とし、悲しみながら立ち去った」(10・22)となっています。この金持ちがその気になれば、全財産を売り払っても、また同じだけの財産を築くことは出来たでしょう。だから立ち去る必要は無かったはずですが、そこまでの信頼をイエスに持てなかったので、立ち去ってしまったのだと思います。

中田神父は、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」このことばよりももっと注意すべきことばがあると思っています。それは「あなたに欠けているものが一つある」ということばです。イエス様は、金持ちの男にだけでなく、私たちすべてに、「あなたに欠けているものが一つある」と声をかけることができるお方なのです。

今日、一人の大人の方が洗礼をお受けになります。洗礼名はマルコを選びました。今年はマルコ福音書を主に朗読していきます。できれば、これからマルコ福音書に親しみをもって読み続けてくださればと願います。マルコ福音書は、洗礼を受けて間もない人々を導くために書かれた福音書と言われます。またいちばん短い福音書、簡潔に描かれた物語ですので、これからの信仰生活にぴったりだと思います。


ぜひマルコ福音書の中で語りかけるイエス様のことばによく心を開き、仮に「あなたに欠けているものが一つある」という声が聞こえたときも、その声に耳を澄まして、何が欠けているのか、考える人になってほしいです。洗礼を受ける心構えは出来たでしょうか。それではこれから洗礼の儀式に入りたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(マルコ10:35-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼山内豊神父様は長らくマークIIグランデを愛車として乗っておられた。鯛ノ浦時代、巡回教会の信者がトヨタのディーラーとなっていた関係もあると思う。その信者は田平支店の店長だった関係もあって、ずっとその車を愛用していた。
▼しかし私が田平に赴任して数年してから、周りから「もう車は手放したら?」と言われたのだろう。仕方なくマークIIを手放した。しかしお茶目な豊神父様は田平教会内にある案内所に来て私を呼び、「新車を買ったぞ」と言って驚かせた。「運転が心配だなぁ」と思って見せてくれたのは、なんと「セニアカー」だった。
▼集まった皆で笑いながら、「いい車を買いましたね!」と喜び合った。かつて走り屋だった面影は残っていた。案内所から帰るとき、そのセニアカーを全速力で駆って、家まで走って行った。豊神父様、本当にお疲れさまでした。天国でゆっくりお休みください。

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今週の1枚
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第926回目。ヤコブ山内豊神父様。本当に、豊かな生涯を生き抜いた師でした。

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† 神に感謝 †
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年間第27主日(マルコ10:2-16)神は結婚する男女に恵みも与えてくださる

2024-10-05 | Weblog
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「今週の説教」
2024/10/6(No.1318)
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年間第27主日(マルコ10:2-16)
神は結婚する男女に恵みも与えてくださる
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下五島地区のスポーツ大会が無事開催されそうです。一時は台風でどうなることかと思いましたが、心配して祈ってくださった皆さんのおかげで開催にこぎ着けることが出来そうです。

地区長である私は「地区長賞」を準備するように依頼されていたので準備しましたが、地区長は出費のかさむ役回りですね。司祭団ソフトボール大会にも寸志を出しました。教区が「地区長手当て」を新設してくれたらなぁと本気で思います。

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(10・5)ファリサイ派の人々は「モーセが離縁状を書いて離縁することを許しました」(10・4)と主張しましたが、モーセがこのような考えに至ったのは人間の頑固さに妥協したというより、人間の頑固さを告発するためだったとイエスは説明します。

ファリサイ派の人々は結婚を掟の立場からしか見ていません。結婚に神が込めてくださった意義や尊さを見ようとせず、結婚した人が掟に触れずに妻を離縁する抜け道までも議論していたのです。

イエスは神の思いである結婚の意義や尊さこそ大切にされるべきであると反論しました。イエスは旧約聖書の創世記を引用しながら、結婚が本来わたしたちに求めていることは何か、考えさせようとしています。わたしたちもイエスに導かれて結婚の意義や尊さを再確認しましょう。

イエスがファリサイ派の人々のために引用したのは創世記2章です。その中で神は「彼に合う助ける者を造ろう」(創2・20)とお考えになりました。一組の男性と女性が力を合わせて生きる者となるとなることについて「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(同2・24)と宣言しました。この部分をイエスは引用します。

ここから読み取れるのは、結婚の意義と尊さは、男女のカップルが対等に向き合う者として創造されたのだということです。男性を支えるためだけに女性が与えられたわけではありません。二人は一体となって結婚生活のさまざまな場面を体験し、ときには難局を乗り越えていく。そこに結婚生活の意義と尊さがあるということです。

人が前に向かって歩いていくためには、さまざまな問題を分析し、決断し、行動する必要があります。たいていは一人で決めるわけですが、一人で決めることは危険な場合もあります。その際、「向き合って助けてくれる者」がいて、力をもらえるのはどんなに有難いことでしょう。すぐそばに、助ける者がいる。それが、結婚生活なのだと思います。

また人間の成長のためには、苦しみの道を避けては通れません。苦しみがどんな意味を持っているのか、なぜこのような苦しみを通らなければならないのか、自分一人では背負いきれないこともあるでしょう。苦しみの道を通って、人間として成長する。結婚した男女は、避けて通れない苦しみを、もはや二人ではなく一体となって、乗り越える力を互いに与え合うのです。

もしかしたら、お互いへの興味や関心は次第に薄れていくかもしれません。毎日聞く話は同じように聞こえ、退屈かもしれません。また、年齢を重ねて次第に衰えていくことを互いに受け入れることは耐えられない、想像できないと思えるかもしれません。

けれども、結婚した二人は、神が結び合わせてくださっているのですから、神はたえず、必要な力と恵みを与えてくださいます。こうして結婚は、単に人間に求められている掟の一つにとどまらず、互いに成長し、互いの完成のために関わり合って生涯を全うする召し出しのです。

結婚を数ある掟の中の一つと見るファリサイ派の人々は、神が結婚に求めている心を忘れて形式主義に陥り、形式に触れなければよいといった抜け道にまで議論が及んでいきました。イエスは結婚を定めた神の思いに目を向けさせました。

結婚の意義や尊さを神が用意してくださった恵みなのだとあらためて気づけば、夫婦で担っていく苦しみさえも尊いものに変わります。神が与えてくださった恵みに感謝する一週間といたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(マルコ10:17-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼「怖いけれども、怖いものを見たい」そういう人がいる。大雨の時、決して外の様子を見に行かないでと放送しているのに見に行く人がいる。「一度でいいから、詐欺の電話がかかってこないかな」と考えたことがある。「お父さん?オレ。オレやけど。」
▼個人の電話を引いたのが1993年。去年電話を休止したが、ついに一度も「詐欺電話」はかかってこなかった。今はネット社会。代わりに「ニセ請求書」「ニセ脅迫」がスマホに入ることがある。「料金未納の為、法的措置を取らせていただきます。」
▼生前、父に詐欺の電話がかかったそうだ。「オレ、オレだけど。会社に迷惑をかけてこのままだと刑務所に行かないといけない。お金を用意してほしい」「おー。それなら仕方ない。刑務所に行って罪を償ってこい」「本気で言っているのか!オレが刑務所に行っても構わないのか!」
▼「罪を犯したのなら償え。刑務所にも行ってこい」「それでも親か!」身振り手振りでその時の様子を説明してくれた。あれは本当に騙されていたのか?それとも芝居だったのだろうか?私もその芝居をしてみたくて、福江教会の電話を毎日取っている。

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今週の1枚
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第925回目。料金未納の為、電気を止めると言う。詐欺ショートメールの典型。

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