こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第14主日(マタイ11:25-30)神の愛といつくしみに触れるための軛でありたい

2023-07-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/7/9(No.1245)
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年間第14主日(マタイ11:25-30)
神の愛といつくしみに触れるための軛でありたい
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水曜日、葬儀ミサを終えて火葬場に向かいました。火葬場で、同業他社に会いました。体型は助任司祭の一人にそっくりでした。「別の教会で葬式を頼まれていたのかな?」と勘違いするほどでした。様子を見ているとその方が車の脇で白い布を何枚か重ね着して、最後に烏帽子をかぶったので「ああ、神主さんか」と理解しました。

福音朗読に移りましょう。今週の朗読は、偶然かも知れませんが葬儀のミサで頻繁に選ばれる朗読です。故人を振り返って「疲れた」「重荷を負った」いろんなことがあった人生に、イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11・28)と招くのは本当に慰められます。

もちろんイエスは、人生を終えたときのことだけを言っているのではありません。「だれでもわたしのもとに来なさい」と言っておられます。今「疲れている人」、今「重荷を負っている人」そういう人にも「来なさい」と招いています。

「だれでもわたしのもとに来なさい。」これは「もしよければ来てもいいよ」ではなさそうです。強い促しを感じます。そこにはそれなりの理由があるに違いありません。二つのことを考えてみました。

「疲れた者」は、疲れを実際に感じている人のことでしょう。「あー疲れた」と言える人は、休みが必要だと理解していて、休む場所を探しています。イエスはその人たちを休ませてくださいます。「重荷を負う者」は、疲れていることに気づいていない人たちかも知れません。最近中田神父は休養日にしている水曜日に二週連続で公務が入りました。助任司祭に任せて良かったかも知れませんが自分で引き受けました。

その後、用事があって御像を製作している中田ザビエル工房に電話をしたのですが、用件を話している私に「こうじ神父様、声に元気なかよ。大丈夫ね?」と心配されたのです。それは明らかに、疲れているのに本人が疲れに気づいていない状態でした。

イエスはどちらにも「休ませてあげよう」と言ってくださいます。疲れていると自覚している人も、疲れていることに気づいていない人にも、イエスは配慮してくださり、休ませてくださるのです。「私は誰からも気づいてもらえない」そんな無力感に打ちのめされた経験がある人は、ぜひイエスの「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」との招きに信頼を寄せることにしましょう。

イエスがご自分のもとで休むようにと強く促す理由がもう一つあると思います。それは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」この招きが示しています。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」しかしなぜ、軛を負うことが、安らぎを得られることになるのでしょうか。たいてい、軛を負うことは、新たな重荷を負わされることに繋がります。すでに疲れて、重荷にあえいでいるのに、さらにイエスの言う軛を負う。なぜ安らぎを得られるのでしょうか。

そこで「軛」について見直してみると次のような説明がありました。「軛」とは、人間が生きるようにと神が与える指示に、心を開くという態度を指すそうです。当時のユダヤ教指導者も、律法を忠実に守ることが神の前に正しく生きることだ教えていました。しかし、自分たちは律法を実行していると誇る彼らから見れば、それを果たせない弱い者は神の救いからのけ者にされていると考えていました。

こうしてユダヤ教指導者の「軛」は神と人とを結ぶものにはならず、むしろ圧迫となってしまったのです。イエスはこのような「重荷」を負わされて疲れ果てた人々を招いて、全く新しい神と人とを結ぶ「軛」を示したのです。イエス自身が身をもって示したこの生き方こそ、新しい「軛」であり、神と人とを結ぶ「絆」だったのでした。

イエスの生き方、イエスが共に生きるようにと招く「軛」は、神の愛といつくしみに結ばれる「軛」です。ですからイエスの軛には安らぎがあります。イエスの「軛」が負いやすく軽いのは、神の愛といつくしみに人を結び合わせたいという神の思いを知るイエスが、その人の横に立ってともに背負ってくれるからです。

私たちは今週もこうして教会に来て、ミサに参加しています。「義務」に縛り付けられてここまで来ているなら、それは「疲れ」と「重荷」でしかありません。ミサに来ることが、神の愛といつくしみに少しでも触れる機会となっているなら、たとえミサ参加が「軛」であってもその軛は軽いはずです。

このミサが、参加する皆さんを休ませてあげるミサとなりますように。祭儀を執り行う司祭はもちろん、毎週の典礼奉仕者も、ミサが「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とのイエスのみことばを参加者一人ひとりに感じるものとなるよう、努めていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マタイ13:1-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼スマートフォンは電話料金とデータ料金の両方が請求書に含まれる。データ料金は何段階かに分かれ、最初の料金設定は1ギガ以下になる。この範囲内のデータ使用で一ヶ月を過ごすのは(携帯電話会社の思惑だろうが)なかなか難しい。
▼しばしば、次の20日くらいになると、「残りのデータ量が無くなりつつあります。制限を超えると、より高い料金の利用帯に移ります」みたいな案内が来る。先月は乱暴だが、残り一週間は「機内モード」に切り替えて乗り切った。迷惑を掛けた人もいたに違いない。

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今週の1枚
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第852回目。最初のデータ使用限度を超えなかったが、かなり荒っぽい手段だ。

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† 神に感謝 †
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