こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第18主日(ヨハネ6:24-35)イエスが与えてくれるものなら何でも

2018-08-04 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/180805.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/8/5(No.956)
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年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
イエスが与えてくれるものなら何でも
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今週の福音朗読で群衆が問いかけ、イエスが答えるやり取りが出てきます。群衆とイエスの、しりとりのような言葉のやり取りはまったく噛み合っていません。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」この噛み合わないやり取りが今週の学びを与えてくれます。

お願いして、司祭館の西側にゴーヤーで目隠しを作ってもらいました。緑のカーテンで日陰の恩恵を受けるのはもう少しかかりそうですが、ゴーヤーの実はいくつかぶら下がりはじめました。何個ぶら下がっていると思いますか?「5」(ゴーヤー)です。涼しくなったでしょうか。

さて群衆とイエスの噛み合わない対話の最後はこうでした。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」これは、イエスが招く場所にたどり着けない人間の、変わらない姿なのかもしれません。多くの人がいろんな場面で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と問いかけるのですが、考えの及ばない私たちは、命のパンであるイエスにたどり着けないのです。

主任司祭が切に「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願い求める場面があります。それはカトリック信者の最期を看取り、神様のもとに送り出す「葬儀」の場面です。私の葬儀ミサの説教は、8月号の「瀬戸山の風」にも触れましたが、「この人はどのように神とつながって生きてきたか」「この人はどのようにこれから神とつながることができるか」この一点に集中しています。

亡くなった人が信仰生活の中でどのように神とつながってきたか、関係者に聞くこともあります。ですがたいていの場合、私は説教を準備する時間の中で、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願っているのです。

もう少し付け加えると、「この人があなたからいただいたパンは何ですか。どこで命のパンをいただいて生きていた人ですか。私がそれを見送る人々に知らせますので、どうか教えてください」そう言いながら説教を考えているのです。

ただ、主任司祭もまた、考えの及ばない人間の一人に過ぎません。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と熱心に問いかけますが、いのちのパンであるイエスとの関わりにたどり着けない時もあります。すると葬儀の説教の中では「私の力が及ばず、本当に申し訳ない」そんな気持ちです。

これからも私は葬儀の説教で、できるだけ一人ひとりのことを思い巡らしながら「この人は命のパンを携えて旅立っていきました。この人はこのような形で、命のパンをいただいていたのです」と紹介して送り出したいと思っています。

私自身が身近に感じる場面を紹介しましたが、一人ひとり自分の生活に当てはめてください。たとえば、家庭で忠実に朝晩の祈りをしている家族がいらっしゃると思います。お祈りをして、私たちが求めていることは何でしょうか。家族の健康でしょうか。家庭の平和でしょうか。それとも、別の答えでしょうか。

何か学び始めている人もいます。カテキスタ養成講座に参加している人たちはこれに当てはまります。学びながら、何かの答えを求めていることでしょう。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。もちろんイエスの答えは「わたしが命のパンである」なのですが、それが予期せぬ答えだったらどうでしょうか。

もしも、予期せぬ別の答えだとしたら、私たちは受け入れることができるでしょうか。私たちはか弱い人間なので、イエスの示す答えと噛み合わないことがあり得るわけです。「自分はそういう答えを考えていませんでした」と。

けれども「予想と違う」と言っている私たちと「わたしが命のパンである」と言われるイエスと、どちらに合わせるべきでしょうか。私たちがイエスの答えを驚き怪しまないために、次のような心構えが必要です。「イエスが与えてくださるものなら何でも。」パンをくださいと願う私たちにどんな答えが示されようと、私たちは受け入れる。そんな心構えが必要だと思います。

イエスは命のパンとしてご自身を私たちに与えてくださいます。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「イエスが与えてくださるものなら何でも」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎新聞に、「五輪教会のキリスト像が傷つけられる」という記事が掲載されていると教会案内所の人に教えてもらった。十字架像が置かれている祭壇の奥は、一般的に会衆席より数段高くなるように段が設置されている。そこに侵入してイタズラをするのは悪質である。
▼一般の日本人は、段差をつけた場所を見れば「ここは特別な場所として設定されているのだな」と思い、勝手には踏み越えないものだ。見ている人がいてもいなくても、心の中で「越えてはいけない所」と考えるものだ。どうしてキリスト像のある境内内の祭壇まで踏み込んだのだろうか。
▼以前長崎市内の教会で、祭壇の聖櫃を荒らされたことがあった。祭壇を会衆席と分けていることで、「ここはさらに聖なる場所です」と、構造でそれを表そうとしているのに、どうしても伝わらないのだろう。残念でならない。
▼こうした人たちは、聖堂内でどんな時間の過ごし方をしたのだろうか。「キリストなしでも生きていける」そんな時間の過ごし方をしたのだろうか。壊したのはキリスト像の一部かもしれないが、壊されたのは実は「キリストなしには生きていけない」そう思う多くの人々の心だった。
▼物は、修理すればほぼ元通りになる。だが傷ついた心は、簡単には修復できないことを知るべきだ。正直に名乗り出て、関係者に謝罪し、与えてしまった心の傷を癒やすためになにか償いをしてほしい。償いは、心の傷を癒やすのに人間ができる数少ない道だ。

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今週の1枚
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第563回目。平戸地区全体で小学生中学生合同黙想会。けっこういるもんだ。

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† 神に感謝 †
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