こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(マタイ28:16-20)司祭修道者信徒がみ摂理に信頼して生きる

2015-05-31 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150531.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/05/31(No.771)
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三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
司祭修道者信徒がみ摂理に信頼して生きる
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今週は三位一体の主日です。父と子と聖霊の三位は一体であり、同じ思い、同じ働き、同じ栄光に満ちておられます。父と子と聖霊の働きが唯一なので、どの時代の人も、どの国の人も、三位一体の神を信じることができるのです。わたしたちは、三位一体の神を信じていることを、どのように証しすることができるでしょうか。

月曜日から金曜日まで長崎にいました。月曜日は、西日本の司祭たちが90人集まって教区対抗ソフトボール大会でした。わたしは長崎教区チームに出たのですが、福岡教区と対戦した第一試合、福岡教区の同級生ピッチャーの球をまったく捉えることができず、3打席連続ピッチャーフライ。次の試合からは一切使ってもらえませんでした。

大会は非常に熱の入った好プレーの連続でした。面白いプレーもありました。高松教区・広島教区連合チームが、長崎教区チームと対戦していた時のことです。わたしは第一試合で大ブレーキだったのでベンチに入れず、教区報の写真を撮っていたのですが、高松教区・広島教区連合チームが、長崎教区チームのピッチャーの足元を狙えということで、バントを仕掛けてきました。

ルール上、スローピッチの試合でバントは禁止なのですが、他に長崎教区チームに付け入る隙がないと判断したのでしょう。しかも1イニングに3人バントを仕掛けてきたのです。狙いは的中、2人まではバントで出塁できました。

味をしめたか、3人目の打者である高松教区司教さまもバントして走り出したのですが、足が絡まって半分も行かないうちにドラム缶のように転がってしまいました。ちなみに、足元を狙われた長崎教区のピッチャーとは、今年浜串小教区の黙想会に招いた先輩です。

火曜日から金曜日は、教区司祭の黙想会でした。イエズス会の大木神父さまが黙想指導をしてくださいました。エリート校である栄光学園とか広島学院で教鞭をとり、その後ネパールで教育者として、さらに障害者の育ての親として長く献身した方です。ネパールで働くようになったころには、栄光学園や広島学院での教え子たちが社会のあらゆる面で活躍していて、大木神父さまを全面的に支えてくれたそうです。

たとえば、ネパールの学校教育に20年間使用した校舎が老朽化して使えなくなり、1千万円の費用を工面しなければならなくなりました。大木神父さまは1日で工面して帰って来ると告げて首都カトマンズに向かいます。みんなはそんなことできるはずがないと思っていましたが、カトマンズに駐在する日本大使はなんと栄光学園の教え子だったのです。すぐ日本政府の支援を取り付けてお金の目処がついたそうです。生涯のすべてが、神さまの摂理を感じる体験だったと言っていました。

わたしは今年の黙想会の中で、神さまの摂理を深く信じる司祭として生きるようにという教えを学んで帰りました。どんな場面でも、神さまの摂理の中にある。それを信じて生きる司祭でなければならないということです。摂理に信頼して行動するなら、きっと神さまが先に立って道を開いてくださる。この信念に揺らぎのない司祭であれと、89歳の大木神父さまは教えていたのだと思いました。

今週与えられた福音朗読は、弟子たちに対し、宣教してすべての民をわたしの弟子に招くようにと命じています。これは、弟子たちが信じたことを証しし、同じ信仰に招くということです。一人ひとりが信じるものを信じればよいというのではなく、明確に、父と子と聖霊を信じるように証を立てる必要があります。

どのようにして、証を立てればよいのでしょうか。証を立てるのは三者です。司祭、修道者、信徒です。三位一体の神が唯一であるように、そのように司祭、修道者、信徒の三者が唯一の証を立てるならば、わたしたちの証はより説得力を持つはずです。

どのように証を立てるのでしょうか。司祭、修道者、信徒はそれぞれ置かれている場所が違っていて、同じ行動を起こすことは困難です。それでいて、三者が唯一の証を立てることは可能でしょうか。

どのような道であれば、三者が唯一の証を立てることができるでしょうか。黙想会で学んできたことをここで活かしたいと思います。神さまのみ摂理に全面的に信頼して生きること、これならば三者は唯一の証を立てることが可能です。司祭も、修道者も、信徒も、神さまの計らいはわたしたちを導くのに十分であると確信し、少しも疑いなく生きることです。

神さまは、どんな場面をも御手の中に治めておられる。だからわたしたちは心配せず、置かれた場所で精いっぱい生きよう。この基本姿勢を崩さないなら、キリストを知らないまま生きている人々もわたしたちの生き方を見て「どこに、あなたたちの生き方の基本があるのですか。なぜ司祭も修道者も信徒も、同じ生き方を貫くことができるのですか。その生き方はわたしにも可能でしょうか」このように考える人が現れるに違いありません。

御父御子聖霊の三位一体の神は、わたしたちが唯一の証を立てて、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、だれもが生き方の基本に取り入れることができる唯一の道に人々を招くよう常に助けをくださいます。「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)と仰ったイエスに信頼を寄せましょう。わたしたち三者が、唯一の生き方を証しすることで、三位一体の神がおられることを人々に示すことができるように、力と勇気を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
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ちょっとひとやすみ
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▼"Contemplatio Amorem"と言っていた気がする。ラテン語でありながら、正確にはどのように言われたか自信がない。いずれにしても、「神の愛を観想すること」と理解できる。神の愛がどれほどであったかを観想すれば、わたしたちの取るべき態度はおのずと明らかになるということだ。
▼司祭、修道者、信徒はそれぞれの生活の場があり、それぞれ違っている。だが、神の愛を観想し、神の愛にどのように答えていけばよいかを考えれば、それぞれの場で求められている生活が必ず見つかるはずだ。
▼神は、人間に憐れみをかけ、一滴の涙を流せばそれで人類のすべての罪を赦すことができたはずである。その神が御子を世に与えてくださった。これほどの愛に、司祭、修道者、信徒は、それぞれの場所で愛を返すように求められている。
▼司祭であるわたしは、福音と向き合い、福音が語るように促している声を言葉にし、それを語り続ける。できるだけ分かりやすく、語りかける声を忠実に届けようと思っている。
▼6月28日には、たまたま修道者に向かって講話をするチャンスがある。そこで修道者はどのように神の愛に答えていくかの参考になるような例をあげてみたいと思う。信徒には、来年の黙想会で話すことにしよう。
▼黙想会の説教師が紹介してくれたDVDを手に入れた。フランスのルルドで聖母マリアの出現に立ち会った聖ベルナデッタを扱った映画である。子供たちにぜひ見せてあげようと思い購入したが、150分以上の大作である。5回に分けよう。

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今週の1枚
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第378回目。黙想指導してくださった大木師に心から感謝。

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