こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第33主日(ルカ21:5-19)滅びないものを証しする必要があります

2007-11-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/11/18(No.326)
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年間第33主日
(ルカ21:5-19)
滅びないものを証しする必要があります
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今週の朗読は見事な石と奉納物で飾られている神殿に感心する人々の話から始まっています。見事な神殿を目の前にして、この建物は永遠に続くのではないかと考えたのでしょう。実際は紀元70年、ローマ軍の侵攻によって跡形もなく壊されてしまいました。

また、「大きな地震」「疫病」「いろいろの恐ろしい現象」、さらに「偽預言者の出現」「戦争や暴動」などは人間社会を根底から揺るがす出来事です。「迫害する者の出現」や「家族からの裏切り」も積み上げてきた人生を壊される辛い場面です。これほど多くの事象が続けば、この世界は混乱のうちに滅び、終わってしまうのではないかと思わせることでしょう。

けれども、混乱をもたらすものがどれほど頻発しても、「壊れないもの」「消えてなくならないもの」「無駄にならないもの」があるとイエスは言います。この世界に何も固く立っていられるものはないのだと思える中で、キリスト者はその滅びない何かを証ししなければならないと言うのです。

キリスト者が証しするその「滅びない何か」とは何でしょうか。2つ、示してみたいと思います。1つは、中田神父が常々思っていること、もう1つは、朗読された福音の中から拾ってみたいと思います。

あらためて言うまでもありませんが、この世の物は滅びると思います。貯金していたものも、先祖代々受け継いできたものも、いつかはなくなってしまいます。それはこの世の物だからです。そんなこの世にあって滅びないものは、「永遠の世界」「神の国」とつながったものだけが、滅びることなく永遠に残るのではないでしょうか。

例えばそれは、信仰心です。「わたしは神であるあなたを信じてきました」「わたしはあなたを愛していました」この信仰心は、私がこの世で生きている間も、またこの世を去って神のもとに呼ばれてからも、消えてなくならないのです。

この世で大切にしていたもの、この世でとても役に立っていたものがいろいろあったとしても、それらはどれも、神のもとまで持って行くことができないのです。反対に、神への信仰心は、この世を旅立つときに手放すことなく持って行くことができます。唯一、持って行くことができるものと言ってもよいでしょう。

この信仰心を、私たちは世に対して証しする必要があります。「この世の物はいつか終わりが来ます。そんな中で、私はいつまでもなくならない宝を見つけました。それは信仰です」。言葉はこの通りでなくても、何かそのような意味合いの証しを、世に対して示していくべきだと思います。

もう1つは福音から拾ってみましょう。キリスト者が証しする「滅びない何か」とは何でしょうか。今日の朗読箇所の最後にそのヒントがありました。「忍耐によって」私たちは永遠に滅びないものを証しすることができるのではないでしょうか。ここで言う「忍耐」は、「辛抱強く神を待ち望む」ことと、「この世に耐え忍ぶ」ことの両方の意味があると思います。ありとあらゆる災難が降りかかってもうおしまいだ、もうダメだと思えるようなときでも、キリスト者は周りがあっと驚くような忍耐で決して滅びない何かを世に示していくのです。

さらに、忍耐は希望と深く関わっています。希望するものがあるから、人は忍耐することができます。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(21・15)「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21・18)。これらの言葉を希望しているから、迫害の中にあったキリスト者は忍耐することができました。

今日の朗読箇所からすると、キリスト者が忍耐によって世に証しするのは「希望」ということになります。神は希望する者を必ず救ってくださると信じて日々を生きる。どんな災難もこの生き方だけは壊すことができません。忍耐によって神への希望を証しするキリスト者が増えるなら、この世界には滅びないものがあることを人々に示すことができます。聖パウロがローマの信徒への手紙の中で言っている通り、「希望は私たちを欺くことがない」(ローマ5・5)のです。

私たちは、この世にあって滅びない何かを証しするキリスト信者になっているでしょうか。滅びていくものの中に反対に埋もれてしまっていないでしょうか。滅びないものを知っていることで、私たちは地の塩、世の光となることができます。


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ちょっとひとやすみ
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▼中学、高校、大学と10年間も英語を勉強すれば、しかも「苦手科目」でなかったとすれば、いくら何でも英語の基礎はできているはずである。そのことを最初に経験したのはフィリピンでの研修だった。わずか10日間の日程だったが、いよいよになれば英語は口をついて出てくるものだと実感した研修だった。
▼10日間のうち、1週間は日本からの研修生同士で共同生活、あいだで3日間ホームステイという日程だった。ホームステイ期間中、ホストファミリーは日本語を知らないので、完璧に英語付けの生活となった。どうやって過ごしたのか、思い出せなくなってきているが、ホームステイから帰って研修生と残りの日程を過ごし始めて効果が現れた。
▼研修スタッフのIさんが、用事で私たちの班の部屋をノックした。昼寝をしていた時間だったが、起きた私の口から出たのは"Yes. Who is it?"(はーい、どなた?)だった。私はまったく意識していなかったのだが、Iさんが、「おっかしいー。神父さん、今英語で返事したよ」と指摘したのだ。それで分かったのだが、私は「はーい、どなた?」と言わずに、"Yes. Who is it?"と言ったようなのである。
▼過ぎた週は嵐のような1週間で、大事なものを失った週だった。ションボリしていたが、それでも通夜・葬儀ミサが中町教会を会場にして1度、葬儀社の建物を会場にして1度、1週間の中に2度入っていたのでできるだけ移動の船の中で頭を整理しようと努力した。
▼ぼんやり出来事を振り返っているときにフッと脳裏に浮かんだ言葉があった。"Too much. Too fast."実際には正確な引用ではなかったが、かなり前によく勉強していた通信講座のテキストにあった一節が思い浮かんだのだった。テキストに当たってみたところ、正確には次の1文だった。"Too much had happened, too fast."
▼何ともやりきれないが、この言葉が日本語を介さずにダイレクトに理解できた瞬間だった。悲しい場面で、自分も同じ悲しさを覚えて、母国語を介さずに1つのセンテンスが理解できた瞬間だった。

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今週のセンテンス
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第6回目。"Too much had happened, too fast."を含む部分。直読直解できました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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