4月17日に父が永眠した。お葬式までの長い3日間の出来事をまとめておきたいと思った。
4月17日(父死亡)
4限目の授業終了後、新しいゼミ生と大学院生と一緒に新しい動作解析システムを動かして操作練習をしていたところに田舎の母親から携帯に連絡が入った。
いつもとは違う少しうわずった声で、父が危ないとの連絡だった。
すぐに後片付けは学生に任せてゼミを終了し、自宅に向かった。途中携帯で家内と連絡を取り合い、いったん私だけが父の元へ駆けつけることにする。
そうこうしていたら母から第二報が入り、父が亡くなったとのこと。
それを家内に連絡して自宅に帰ると、小学生の息子が外出用のリュックを背負って待っていた。
そんな格好をしてどうしたんだと聞くと、じいじのところへ帰るのだという。
家内に聞くと、私と家内の電話連絡をそばで聞いていて父の死を感じたらしく大泣きしたという。夜遅いし明日は学校があるから後で落ち着いてから帰ろうと言っても絶対に帰ると言って聞かないのだという。
仕方がないので家族全員で帰ることにした。
高速に乗り、ライトアップされた瀬戸大橋を走っていても景色は目に入らず父のことがいろいろと思い出される。
自宅が近くなって電話をしたら、もう既に病院から自宅に帰ってきているというので自宅の方へまっすぐ帰った。
きれいに整えられて布団に横たわる父は、思いの外安らかな寝顔で今にも起き出して来そうに見えた。最後の瞬間はあまり苦痛を感じることもなく安らかに息を引き取ったそうだ。
集まった親戚やご近所の人といろいろな話をして、死亡したのが遅かったので葬式には死後24時間あけなくてはならないため、通夜は18日夜7時30分から、葬儀は19日正午からと決まった。場所は父の遺言で葬儀場ではなくて自宅で行うことになっていた。喪主は母ではなく私がすることにした。18日午前10時頃葬儀社の人が打ち合わせに来てくれるとのことだった。18日朝一番にはご近所の係の人が身内に代わって死亡届と火葬の予約に行ってくれるとのことで、死亡届に必要事項を記入した。これまで死亡診断書はたくさん書いてきたが、その見開き左側にある死亡届を書くのは生まれて初めての経験である。
今夜はまだ通夜ではないので「病人」として扱うとのことで、線香も焚かず顔に白い布もかけずそのまま座敷に寝かすことになった。私と息子は布団を敷いて父の横で一緒に寝ることにした。父は元気な頃はお酒が好きだったので、息子の発案で一緒に酒を飲むことにした。父の分はコップについで枕元に置いてやった。
4月18日(通夜)
朝早くから訃報を聞いたご近所の方が何人もやってきた。今日はまだ葬式ではないので仕事に出る前に寄ってくれた人もいたようだ。次々に来てくれる人に挨拶をして、時間を見て吉備国際大学と岡山大学整形外科教室に訃報のための情報を書いてFAXを送った。そうこうしていると葬儀社の方が来られて明日の葬儀の打ち合わせが始まった。お葬式というのは地域地域で流儀があるようで、同じ真言宗だからと言っても隣町とでは微妙にやり方が違うのだそうだ。私には詳細はよく分からない。母や親戚の叔父などにも意見を聞きながら詳細を詰めていった。
打ち合わせをしていると市役所から誰か来られているというので出てみると、市の総務部の方が二人来られていた。何でも父は市議を8期30年勤めたので地方自治に貢献したとのことで叙勲の対象になるのだとか。一瞬驚いたが、きっと父が生きていたらすぐに辞退しただろうと思うので断ろうかとも思ったが、母とも相談して後で返事をすることにしていったん帰っていただいた。結局この件は生前報われることのなかった父の仕事に何か形あるものが残るのも良いのではないかと思い直して受けることにした。
葬儀当日は忙しいので、通夜が終わったら身内で納棺をすますことにした。納棺は単にきれいに入れればよいというものではなくて、何だかよく分からない小道具を身につけさせて決まった位置に決まったものを入れてあげなくてはいけないのだそうだ。足袋をわざわざ左右反対に履かせることの意味は理解できない。何でも亡くなったばかりの人は、それを身につけて修行の旅に出るのだとか。そんな説明をひとしきり葬儀社の方からしてもらった。
ひっきりなしにいろいろな人が出たり入ったりして、携帯にも親族から連絡が入ったりして全く休むことができない。
しとしとと雨が降り、4月とは思えないくらい寒い。裏に見える豊受山山頂には雪が積もっていた。
夜になるとお寺から住職が来られて通夜が始まった。もう既に戒名が決まっていて忌日表というものを渡された。
父の戒名は「徳光院勤政武恩居士」と決まった。
正座して1時間近くも念仏を聞かされるというのはたまらない。終わった頃には足がしびれて立てなかった。
驚いたことに、呼ばれて玄関に行ってみると学科長の平上先生がわざわざ来てくださっており、みんなから預かってきた香典を渡してくださった。
夜10時くらいから、残った親族で父の体をお棺に納めて昼間葬儀社の人から聞いたとおりに整えてあげた。
今夜は通夜なので線香とろうそくの火は絶やしてはいけないことになっている。また、私達夫婦と息子と甥が同じ部屋に寝て面倒を見ることにした。
4月19日(お葬式)
天候が心配だったが昨日とはうって変わって晴天で暖かい。
早朝からご近所の組内が集まって自宅葬の準備に取りかかってくださった。葬儀社の方も来て幕を張ったり祭壇を組み立てたりてきぱきと会場準備が進んでいく。ありがたいことにたくさんの生花も次々と届けられた。
私は葬儀の時にアナウンスの方に読んでもらう弔電を選び出したり、たくさん届けられた生花をどういう順番で並べるかなど指示を出したりして忙しかった。11時頃になるとアナウンスの方が来られて、具体的な打ち合わせを行った。あわただしく昼ご飯の精進料理を食べたら、もう葬儀本番である。
正午少し前から住職が来られて葬儀が始まった。よく内容が理解できないお経の後、弔辞があり、弔電の紹介と進行した。そのあと、飾っていた生花の花を切って棺桶の中にみんなで飾り、ふたをして釘打ちを行った。
出棺して棺桶を数回回して庭で待っていた霊柩車に積み終わった後、私が喪主としてお礼の挨拶をさせていただいた。父は生前庭作りが好きだったので自分が作った庭のある自宅でみんなに鄭重なお見送りを受けてさぞ喜び感謝しているだろう旨を述べた。
型どおりの長いクラクションを合図に霊柩車は出発して斎場へ向かった。
斎場では最後のお別れのあと父の遺体は機械的に中へ運び込まれ、私が喪主として火葬のための点火スイッチを入れた。少しどきどきした。
それから1時間半ほど待って、骨を拾った。ちょうど背骨の所に数年前に脊椎圧迫骨折で入れた固定用の金属ロッドが茶色く焼けて残っていた。
足の部分から骨を拾い始めて、一番上の真ん中にのど仏(私には軸椎に見えた)を置き、最後に頭蓋骨で蓋をするように覆って骨壺に収めた。
今回はそのままお墓に持って行き納骨した。初めて河村家のお墓の中に潜ってみたが、かなり広くて3段の棚があり、2段目の一番左に父の遺骨を安置した。
そのあといったん自宅に帰り、午後5時より近くの集会所で精進上として手伝ってくださったご近所の組内の方や親戚と夕食を食べた。
最後に午後7時30分から御念仏と言って住職と共に念仏を唱えて葬儀は滞りなく終了した。
4月17日(父死亡)
4限目の授業終了後、新しいゼミ生と大学院生と一緒に新しい動作解析システムを動かして操作練習をしていたところに田舎の母親から携帯に連絡が入った。
いつもとは違う少しうわずった声で、父が危ないとの連絡だった。
すぐに後片付けは学生に任せてゼミを終了し、自宅に向かった。途中携帯で家内と連絡を取り合い、いったん私だけが父の元へ駆けつけることにする。
そうこうしていたら母から第二報が入り、父が亡くなったとのこと。
それを家内に連絡して自宅に帰ると、小学生の息子が外出用のリュックを背負って待っていた。
そんな格好をしてどうしたんだと聞くと、じいじのところへ帰るのだという。
家内に聞くと、私と家内の電話連絡をそばで聞いていて父の死を感じたらしく大泣きしたという。夜遅いし明日は学校があるから後で落ち着いてから帰ろうと言っても絶対に帰ると言って聞かないのだという。
仕方がないので家族全員で帰ることにした。
高速に乗り、ライトアップされた瀬戸大橋を走っていても景色は目に入らず父のことがいろいろと思い出される。
自宅が近くなって電話をしたら、もう既に病院から自宅に帰ってきているというので自宅の方へまっすぐ帰った。
きれいに整えられて布団に横たわる父は、思いの外安らかな寝顔で今にも起き出して来そうに見えた。最後の瞬間はあまり苦痛を感じることもなく安らかに息を引き取ったそうだ。
集まった親戚やご近所の人といろいろな話をして、死亡したのが遅かったので葬式には死後24時間あけなくてはならないため、通夜は18日夜7時30分から、葬儀は19日正午からと決まった。場所は父の遺言で葬儀場ではなくて自宅で行うことになっていた。喪主は母ではなく私がすることにした。18日午前10時頃葬儀社の人が打ち合わせに来てくれるとのことだった。18日朝一番にはご近所の係の人が身内に代わって死亡届と火葬の予約に行ってくれるとのことで、死亡届に必要事項を記入した。これまで死亡診断書はたくさん書いてきたが、その見開き左側にある死亡届を書くのは生まれて初めての経験である。
今夜はまだ通夜ではないので「病人」として扱うとのことで、線香も焚かず顔に白い布もかけずそのまま座敷に寝かすことになった。私と息子は布団を敷いて父の横で一緒に寝ることにした。父は元気な頃はお酒が好きだったので、息子の発案で一緒に酒を飲むことにした。父の分はコップについで枕元に置いてやった。
4月18日(通夜)
朝早くから訃報を聞いたご近所の方が何人もやってきた。今日はまだ葬式ではないので仕事に出る前に寄ってくれた人もいたようだ。次々に来てくれる人に挨拶をして、時間を見て吉備国際大学と岡山大学整形外科教室に訃報のための情報を書いてFAXを送った。そうこうしていると葬儀社の方が来られて明日の葬儀の打ち合わせが始まった。お葬式というのは地域地域で流儀があるようで、同じ真言宗だからと言っても隣町とでは微妙にやり方が違うのだそうだ。私には詳細はよく分からない。母や親戚の叔父などにも意見を聞きながら詳細を詰めていった。
打ち合わせをしていると市役所から誰か来られているというので出てみると、市の総務部の方が二人来られていた。何でも父は市議を8期30年勤めたので地方自治に貢献したとのことで叙勲の対象になるのだとか。一瞬驚いたが、きっと父が生きていたらすぐに辞退しただろうと思うので断ろうかとも思ったが、母とも相談して後で返事をすることにしていったん帰っていただいた。結局この件は生前報われることのなかった父の仕事に何か形あるものが残るのも良いのではないかと思い直して受けることにした。
葬儀当日は忙しいので、通夜が終わったら身内で納棺をすますことにした。納棺は単にきれいに入れればよいというものではなくて、何だかよく分からない小道具を身につけさせて決まった位置に決まったものを入れてあげなくてはいけないのだそうだ。足袋をわざわざ左右反対に履かせることの意味は理解できない。何でも亡くなったばかりの人は、それを身につけて修行の旅に出るのだとか。そんな説明をひとしきり葬儀社の方からしてもらった。
ひっきりなしにいろいろな人が出たり入ったりして、携帯にも親族から連絡が入ったりして全く休むことができない。
しとしとと雨が降り、4月とは思えないくらい寒い。裏に見える豊受山山頂には雪が積もっていた。
夜になるとお寺から住職が来られて通夜が始まった。もう既に戒名が決まっていて忌日表というものを渡された。
父の戒名は「徳光院勤政武恩居士」と決まった。
正座して1時間近くも念仏を聞かされるというのはたまらない。終わった頃には足がしびれて立てなかった。
驚いたことに、呼ばれて玄関に行ってみると学科長の平上先生がわざわざ来てくださっており、みんなから預かってきた香典を渡してくださった。
夜10時くらいから、残った親族で父の体をお棺に納めて昼間葬儀社の人から聞いたとおりに整えてあげた。
今夜は通夜なので線香とろうそくの火は絶やしてはいけないことになっている。また、私達夫婦と息子と甥が同じ部屋に寝て面倒を見ることにした。
4月19日(お葬式)
天候が心配だったが昨日とはうって変わって晴天で暖かい。
早朝からご近所の組内が集まって自宅葬の準備に取りかかってくださった。葬儀社の方も来て幕を張ったり祭壇を組み立てたりてきぱきと会場準備が進んでいく。ありがたいことにたくさんの生花も次々と届けられた。
私は葬儀の時にアナウンスの方に読んでもらう弔電を選び出したり、たくさん届けられた生花をどういう順番で並べるかなど指示を出したりして忙しかった。11時頃になるとアナウンスの方が来られて、具体的な打ち合わせを行った。あわただしく昼ご飯の精進料理を食べたら、もう葬儀本番である。
正午少し前から住職が来られて葬儀が始まった。よく内容が理解できないお経の後、弔辞があり、弔電の紹介と進行した。そのあと、飾っていた生花の花を切って棺桶の中にみんなで飾り、ふたをして釘打ちを行った。
出棺して棺桶を数回回して庭で待っていた霊柩車に積み終わった後、私が喪主としてお礼の挨拶をさせていただいた。父は生前庭作りが好きだったので自分が作った庭のある自宅でみんなに鄭重なお見送りを受けてさぞ喜び感謝しているだろう旨を述べた。
型どおりの長いクラクションを合図に霊柩車は出発して斎場へ向かった。
斎場では最後のお別れのあと父の遺体は機械的に中へ運び込まれ、私が喪主として火葬のための点火スイッチを入れた。少しどきどきした。
それから1時間半ほど待って、骨を拾った。ちょうど背骨の所に数年前に脊椎圧迫骨折で入れた固定用の金属ロッドが茶色く焼けて残っていた。
足の部分から骨を拾い始めて、一番上の真ん中にのど仏(私には軸椎に見えた)を置き、最後に頭蓋骨で蓋をするように覆って骨壺に収めた。
今回はそのままお墓に持って行き納骨した。初めて河村家のお墓の中に潜ってみたが、かなり広くて3段の棚があり、2段目の一番左に父の遺骨を安置した。
そのあといったん自宅に帰り、午後5時より近くの集会所で精進上として手伝ってくださったご近所の組内の方や親戚と夕食を食べた。
最後に午後7時30分から御念仏と言って住職と共に念仏を唱えて葬儀は滞りなく終了した。