katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

棟梁とリピーターさんの相席教室とモンゴルの額の下絵の続き

2018-02-06 00:39:38 | モザイク教室
今日は棟梁とリピーターさん教室。この2人は自宅でもやっているので、進み具合も良く日に日に完成へ向かっている感じなのね。


そんな中、当然なんだけれど、進み具合が良い・・・って事が良いって事は、それと引き換えのものがあるのね。それが肥える眼だと思うのね。要するに味覚なら舌が肥えるなんて言い方があるように、目が肥えるなんて事もある。最初は出来ないと思った事が出来た事だけで楽しめた。

しかしながら、キャリアが増せば当然、それだけ身に付く。身に付けば欲が出る・・・こんな単純な仕組みに思いがちだろうけれど、そんな単純なものでは無いのね。人ってのは・・・。これが1か月に1回だけの場合、かなり進み具合は悪くなるから、大作をすれば果てしなさは半端無いのね。

そりゃ誰でも判る。ただ、相席ともなれば人の作品を見る事になる。もし相手が自分より上手い人なら、自分との差を比較しても左程意識は薄く済む。つまり卑下する事無く、眼が肥える事になる。そう眼がね・・・ただ月に1回だったとしたら?眼だけが先行する事になる。

これがリピーターさんの最初の頃の話。最初はkameyaさんの1回だけだった・・・・だから、月に1回の趣味だったのね。それがアトリエにも来るようになって、月に2回となった。これで倍。それなのに、自宅でもやるようになった。もはや最初の頃の何倍もやっている事になる。

これによって当然、切る・・・これを何回もしている事になる。ただ、これだけの作品をやっているので、張らないで・・・と言ってあるので、パーツの仕込みだけで、切るのみの繰り返しになっているのね。これは、1つの特訓でもあるのね。スペシャリスト的な指導と考えると、繰り返しの動作を覚える

事になるのだけれど、これが切る、張ると2つの動作があるとして、張らなくて良い・・・って言うのは、一番重い責任を1つ無くすと言う事なのね。何しろ切る・・・は張っていないから、まだやり直しが利くが、張ってしまっていては、剥がす・・・つまり壊さないとならなくなる。重いでしょ?

つまり切るだけ・・・って言うのは、これで良いのかな?って不安の中で、張るような人には気持ち的に楽になるのね。そもそもこう言う人は、先に進みたい・・・では無くて、やって置けば少し進めるし・・・みたいな人だから。これが逆に、どんどん進みたい人は、失敗する意識はほとんど無いので、

ただ進みたい一心なので、無謀と素直の同居の中で進めるのね。これがハイリスクハイリターンになる。上手く行けば、とんでもなくやってあるし、失敗すれば、取返しが付かない程、やってしまったりして・・・場合に寄っては教えていない部分にも手を出していたりもする。

こんな事を踏まえて、リピーターさんはちょっとでも進められれば・・・側の人なんで、仕込んで来たパーツをここで確認の元、張るのだから張る事に失敗は無いのね。つまり仮に切ったパーツが不揃いがあったら、これは切り直して・・・ってこれだけで済むのね。

所がここが大事で、折角切って来たのに・・・ってダメージを受けたとする。だとすると、もし張っていたとしたら?・・・そのダメージは何倍にもなる。そう思うと、今は切って来たパーツのダメ出しに慣れるだけで十分で、大きな失敗はしないまま進める事にしているのね。

もし今の段階の仕上がりが良く見えていたとするのなら?この方への指導は合っている事になると思うのね。これをクリア―出来たら、外枠の彫った所に入って、今度はここで1つ完成させて、それを見て張って来て・・・に指導は切り替わる予定なのね。

んで、話を戻して、軽い人となりが判ったとして、そんな方が、どうなっているか?って言うと、眼が肥えたってのは、kameyaさんで見られる作品は、かぐやの作品とアトレの時の作品。これが、アトリエに来て、色んな人の作品を見る事になり、刺激を受けたと言う事なんだろうと推測するのは、

誰でも出来るが、そんな単純では無くて、心の中はそんなにザックリじゃないものなのね。例えば、かぐやの作品を見ても感情移入がしずらいものなのね・・・それは上手い人だから・・・と安易に諦められるから。それは棟梁も同じで、この方からすれば棟梁も上手い人になる。

けれど、いつか・・・って思えるか?思えないか?となった時、果てしなさが違って来る。つまりその果てしなさが、棟梁ですら雲の上の人なんて表現をする。じゃ凄く上手いから諦めるとして・・・アトリエに来ると、初めて見る作品が並んでいる・・・1人じゃなくて色んな人の。

ここが分岐点で、かぐや1人を見ていた時は、凄い・・・で済んだのに、色んな人が凄いに変わると、もしかしたら自分も出来るかな?・・・って、思えたりするか?無理無理ぃぃって思うか?なのね。正直、kameyaさんだけの時は、どちらか?と言うと、消極的に見えたのね。

ただ大きく変わったのは、先日のビックサイトのイベントに1人でいらした事。足がお悪い中、結構な距離を歩いて見えたあの姿は、熱意以外の何物でも無く、そこにいた人達と会った事で、作品と作り手の顔も一致して、親近感も沸いたり、特別な人が作っている訳じゃない事も見たと思うのね。

こんなたわいも無い事がぁ?・・・・って思う人もいるだろうが、やる気スイッチなんてそんなもんなのね。私には無理・・・とか、そんなには・・・とか、全ては自分で決めていた事なのね。そのスイッチを、出来るのかな?・・・・に入れた瞬間、人は変わるモノなのね。

そのスイッチが人に寄って違うにせよね。どの場面、どの人、どの作品、環境、状況、何でも良いけれど、そんなきっかけを見逃さなかったか?どうか?であって、そんなのは誰も教えてはくれないからね。ヒカルの碁のsaiのような人は、何処にもいないし、ヨーダがいるのなら、先生に欲しい。

まっ、いずれにせよ、俺自身の見る、この方の人となりと、この方自身の差が少なくなればなるほど、指導はしやすくなるし、距離感が縮まれば、より繊細な指導も出来るのね。そんな事に引っ掛けた話としては、先日また棟梁に根付風味の小物の下地を頼まれたのね。

そこに名前を平仮名で入れるって言うのだけれど、教科書の字みたいな事を言う訳が無いのね。それは判っているのね。それを自分で描いてくりゃ良いのに、丸投げなのね・・・ただ、3文字だし・・・ってのもあって、まっ良いかと思うも、和風が好きなのは知っていたんで、勘亭流とか、江戸文字

風味はどうかな?・・・って書いといたら、そうじゃなくて、スラスラとか、長くて読めない字みたいな・・・はいはい、草書とか、俺の字ね。って、サラッと書いたら、それそれって・・・。大体、お任せってこんなもんなのね。決まっている癖に最初にきちんと伝えないから、こうしてやり直す。

モンタージュみたいなもんだから、こんな感じ?こんな感じ?ときちんと向き合わないと、真実に近づくはずが無いのね。それが、そんな話のやり取りを聞いて、しかもサラッとそれそれってたどり着くのを見て・・・笑っていたが、要するに人となりの話。きちんと向き合っていれば、こうかな?

と判り合えるが、そこに至るまでは色んな話をしている訳で・・・。本当にたわいも無い話を、棟梁ならどう思う?ただこれだけ。けれど、適当に受け答えして、先に進む方が大事・・・って事だと、人となりはいつまでも判らない。判らないからこちらも冒険も出来ないし、受け答えも失敗の無い、

安全安心・・・つまり普通になるか、消極的になる。要するに技術の指導だけが指導では無いのね。みんな同じ言葉で、同じ比喩で、同じ説明って言うのは学校やら、大人数の場所であり、個人やら少人数って言うのは、その人へ・・・のアドバイスがあるものなのね。

そうすりゃ良いじゃん・・・って言うのは、それが出来る人への声掛けであり、出来ない人への声掛けでは無いのね。出来ない人は、それが出来ないから困っていたり、そこに気が付いて無かったりしているからであって、答えを教えてその場を凌ぐのでは無くて、あくまで一人で切り抜ける方法や

逃げ切るすべ、術って言う事なのね。それを、そうすりゃ良いじゃん・・・で出来るのなら、頑張ってぇぇって100回も言えば、誰でも合格、誰でもレギュラー、誰でもプロだわっ・・・って話。そう言う意味では、この2人のバランスはとても良いのね。きっとどちらにも勉強になるはず。

そんな後は、モンゴルの額縁の下絵・・・って言うよりも絵じゃなくて、寸法も考えているから図面も兼ねて・・・。


四隅に来る場所の寸法が合わず・・・こんな事、何回やっているんだか・・・。知識賢者がいれば、何も困らずにすんなり行くのだろうが・・・。ただ俺もこうしている・・・簡単に何でもやっている訳じゃないのね・・・。

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