こうのとりの揺り藍は昔もあった。貧困のため育児を諦めた親たちは、間引きと称する風習で新生児の命を絶った。藩医として高山郷に派遣された江田玄碩は、むごい風習が黙認できず、新生児をもらい受けて育てた。しばらくすると、「カライモでも食べさせて育てますから、赤児をください」と言って、頭を下げてもらい受けていったという。その子たちは、自分の生い立ちを知り、立派に成人し、江田玄碩が世を去ると、「江田玄杏の墓」を建て、生涯、花香を絶やさなかったと伝えられる。江戸時代末期のこうのとりの揺り藍であった。
肝付町 竹之井敏(82) 2007/5/4 毎日新聞鹿児島版掲載
肝付町 竹之井敏(82) 2007/5/4 毎日新聞鹿児島版掲載