松山市城北地区歴史散策 8
画像は、愛媛県立松山北高等学校第二体育館で、秋山好古が大正13年4月に北豫中学校校長に赴任し、大正15年に講堂として建築されここで好古は講義をした。
現在は、第二体育館として卓球と柔道場として使われていて歴史ある建物である。
昭和20年7月26日の松山大空襲で殆どの校舎は焼失したが奇跡的に残った。
松山市の攻撃は、5回に渡り、内4回は松山飛行場であった。
第1回目が、昭和20年3月19日、5月4日、5月10日、5月14日で、昭和20年7月26日が松山大空襲、恐れられていたB29(スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞)長距離爆撃機がサイパンから飛来23時5分頃から27日の午前1時20分頃の間に896トンの焼夷弾を投下し一瞬にして松山市内は焼け野原となった。
北豫中学校も爆撃を受け殆どの校舎は焼失したが、好古校長時代に建築した講堂(現 第二体育館と武道場・小使い室)が残った。
現在は、講堂(現 第二体育館)だけが現存する。
なお、松山の爆撃対象外にあげられたのが、道後温泉、松山城、松山陸軍病院であったが、誤って松山城に焼夷弾が落された。
註:松山大空襲は、米側資料によると、攻撃機は、米陸軍第73爆撃団(サイパン、イスレイ飛行場)所属で、B-29・350機が大牟田・松山・徳山攻撃の為に飛び立ち、内128機が四編隊に区分され、投下高度1万1千フィート、攻撃開始時刻は、23時08分に松山を攻撃したとある。
「松山爆撃に参加したカリフォルニア出身のスミス中尉の談話。
松山の火災は此れまでに私が見たベストのものだった。全市が燃えた。煙はゆうに上空1万8千フィート(6000m)に達していた。」
私は、この状況を温泉郡川上村北方から見たがすさまじい炎であった。5歳の時であった。
画像は、愛媛県立松山北高等学校第二体育館で、秋山好古が大正13年4月に北豫中学校校長に赴任し、大正15年に講堂として建築されここで好古は講義をした。
現在は、第二体育館として卓球と柔道場として使われていて歴史ある建物である。
昭和20年7月26日の松山大空襲で殆どの校舎は焼失したが奇跡的に残った。
松山市の攻撃は、5回に渡り、内4回は松山飛行場であった。
第1回目が、昭和20年3月19日、5月4日、5月10日、5月14日で、昭和20年7月26日が松山大空襲、恐れられていたB29(スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞)長距離爆撃機がサイパンから飛来23時5分頃から27日の午前1時20分頃の間に896トンの焼夷弾を投下し一瞬にして松山市内は焼け野原となった。
北豫中学校も爆撃を受け殆どの校舎は焼失したが、好古校長時代に建築した講堂(現 第二体育館と武道場・小使い室)が残った。
現在は、講堂(現 第二体育館)だけが現存する。
なお、松山の爆撃対象外にあげられたのが、道後温泉、松山城、松山陸軍病院であったが、誤って松山城に焼夷弾が落された。
註:松山大空襲は、米側資料によると、攻撃機は、米陸軍第73爆撃団(サイパン、イスレイ飛行場)所属で、B-29・350機が大牟田・松山・徳山攻撃の為に飛び立ち、内128機が四編隊に区分され、投下高度1万1千フィート、攻撃開始時刻は、23時08分に松山を攻撃したとある。
「松山爆撃に参加したカリフォルニア出身のスミス中尉の談話。
松山の火災は此れまでに私が見たベストのものだった。全市が燃えた。煙はゆうに上空1万8千フィート(6000m)に達していた。」
私は、この状況を温泉郡川上村北方から見たがすさまじい炎であった。5歳の時であった。