EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その13 愛媛県今治市大西町の石碑

2021年05月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今治市大西町の石碑情報を頂き、お世話になった方は私の知人で、今治市史談会でご活躍されている「菅 正憲氏」である。

菅 正憲氏は、松山市史談会の会合によく参加されており、その都度秋山兄弟生誕地にも訪れよく懇談した。

紹介します石碑は、漢詩で碑文を揮毫しており好古が揮毫した石碑53基の内この石碑のみで非常に貴重な石碑である。

NHK松山放送局が制作した番組「碑文に残された好古の思い」で取材された石碑である。

ある時
菅 正憲氏から連絡があった。

今治市大西町にある秋山好古揮毫石碑は調査済みですかと連絡が届いた。

未だ取材はしておりませんので詳細な所在地と、碑文をお教えくださいとお願いの返信をした。

直ぐに詳細な情報が送られてきた。

同時に秋山氏の祖先は今治の出で、ある神社に秋山氏の社が有り、秋山一族は毎年小規模ではあるが祝祭をしていますと・・この事も添えて連絡があった。

秋山氏の社は次回の機会にブログに掲載します。

大西町の石碑。

碑文を漢詩で揮毫した石碑はこの碑「「衆心和暢化乃成」1基のみである。

衆心和暢化乃成の意味はこのあと説明します。

なお、揮毫の肩書には陸軍大将とは書かれていないのは、好古は昭和4年に陸軍大将を退役し軍人でなくなっていたからである。

秋山好古夫妻で右が妻、多美さんです。

好古は、足の状態が思わしくなく昭和4年北豫中学校長を辞任するつもりで、東京から奥さんの多美さんを松山に呼び住居の整理やお世話ななった人達に夫婦で挨拶をし、辞任届けを提出東京に帰る支度をした。

辞表を井上要理事長に提出するも受理されず辞任は1年延長された。

秋山好古の略歴

安政 6年:1月7日、伊予松山藩徒目付、秋山平五郎久敬の三男、名は秋山信三郎元服して好古となる。                      

明治 8年:大阪師範学校入学(現、大阪教育大学)(17歳)

明治 9年:同学校卒業、名古屋師範学校(現、愛知教育大学)附属小学校教諭(18歳)

明治10年:同校依願退職し陸軍士官学校騎兵科入学(19歳)

明治16年:陸軍大学校第1期生として入学(25歳)

大正 2年:第13師団長(新潟県高田)この時に新潟市の石碑「忠魂碑」を揮毫(55歳)

大正 3年:近衛師団長(57歳)

大正 5年:陸軍大将(58歳)

大正 9年:教育総監(62歳)

大正12年:元帥に推薦されるも之を辞退・大元帥から特旨として官位従二位を拝命(65歳)

同   年:予備役

大正13年:北豫中学校長就任(66歳)

大正14年:後備役(67歳)

昭和 4年:陸軍大将退役(71歳)

昭和 5年:北豫中学校長辞任(72歳)

同   年:11月4日逝去

秋山信三郎好古の信条は

簡単明瞭質素倹約 清く正しく心豊かであれ・・そして元気な間は働けであった。

母の教え⇒大きくなったら「世のため、人のため、故郷のために尽くせる人になるようにと躾けられた。」

新潟市の北方文化博物館、第7代故・伊藤文吉館長は、江戸時代の武士の教養を身に付けた、現代日本では見られない風格を感じる人物と称され、今日本に必要とされる人であると言われた。

28センチ榴弾砲をバックに小島要塞研修会

ここからは、平成25年4月8日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしている研究員18名の館外研修会が毎年開催されており今回は、今治市来島小島にある芸予要塞跡・今治城・好古揮毫石碑の研修の回顧である。

現地案内説明は、私の知人・今治市史談会の菅正憲氏にお願いした。

先ず

小島の芸予要塞跡から始まった。

日露戦争で203高地奪回に苦労していた乃木希典第3軍司令長官の指揮をみていた児玉源太郎・満州軍参謀長は、満州軍総司令長官・大山巌の許可を得て小島の芸予要塞にあった28センチ榴弾砲2基を移設し、これを持って203高地を攻略した。

瀬戸内海来島海峡にある芸予要塞・小島。

今治市小島に展示保管されている「28センチ榴弾砲」。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部「二〇三高地」のロケで使われた実物で、ロケ終了後記念にとNHKは松山市に贈り、松山城ロープウェイ山麓駅舎2階広場に展示した。

その後今治市から28センチ榴弾砲はもともと小島芸予要塞にあったものだから今治市に譲ってほしいと請願された。
松山市は、関係者と相計い、今治市に譲ることとした。現在は小島港に展示してある。今治市は元あった所に移設することも考えたが、心無い者により傷つけられてはいけないと考え誰もが監視できる港に設置した。

今治市小島に展示保管されている「28センチ榴弾砲」説明板。

松山城ロープウェイ山麓駅舎3階広場に展示してあった当時の28センチ榴弾砲。

28センチ榴弾砲の大きさは、実物大で、全く鋼鉄で製作されているように見えるが、実は強化プラスチック製で、製作は映画撮影機材を造る京都市の専門会社で製作された。

本物の大砲は、瀬戸内海にある小島に設置されていたが児玉源太郎が大山巌の了解を得て旅順に運び203高地を攻略した大砲である。

展示場所は、松山城ロープウエイ東雲口駅舎3Fに展示してあった。人と比較して大きさを見て下さい。

小島砲台28cm榴弾砲跡。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲第3部「二○三高地・後編」に出てくる28cm榴弾砲跡。

日清戦争以降、帝政ロシアが中国大連に総督府を置き、旅順に軍港を造るなど南下政策を強めるなか、来たる日露戦争に備え、国防力の強化が至上命題となっていた。
こうした時代を背景に、瀬戸内海の交通の要衝、来島海峡にある小島では、明治31年の陸軍省告示により、30万円(当時)の巨費を投じて、翌32年から軍事要塞の建造工事が始まった。島の南部、中部、北部の順に砲台が築かれ、合計16門の大砲が設置された(明治35年工事完了)。
小島砲台にあった28cm榴弾砲のうち2門は、日露戦争(明治37~38年)において、実際に旅順に運ばれ、同地攻略に大いに力を発揮した。

画像は

小島芸予要塞でこの位置に28センチ榴弾砲が設置してあったその跡地である。

ロケに使われた28センチ榴弾砲は当初ここに設置する予定であった。

28センチ榴弾砲基地からは、視野不能なので小島山頂にある司令塔からの方位角度等々の指示を下して砲弾を撃つ。

画像は、小島芸予要塞司令塔跡。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部「二〇三高地」の映像。

小島砲台にあった28cm榴弾砲のうち2門は、日露戦争(明治37~38年)において、実際に旅順に運ばれ、同地攻略に大いに力を発揮した。

203高地は当初あまり重要視されなかったが、旅順港停泊中のロシア海軍太平洋第一艦隊(通称旅順艦隊)に砲撃しようとする際、着弾を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山眞之少佐が、この高地を攻略することを児玉源太郎、満州軍参謀長に進言した。
203高地から、旅順港が良く見通しが出来る高地で、日露戦争の決する重要な鍵を握る場所になった。

今治市小島に展示保管されている「28センチ榴弾砲」。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部「二〇三高地」ロケに使われた実物である。

芸予要塞での研修が終わり、次の研修地である今治城に移動した。

画像は、藤堂高虎の騎馬像と20万石であった今治城天守。

現在の天守は、今治初代藩主藤堂高虎が築城した天守とは違う望楼型天守で、何故か今治市は造った。

藤堂高虎が五重天守を創建したと伝わる形は、当時最新鋭の層塔型であったと言われており、高虎の伊賀・伊勢転封と同時に解体され徳川家康に寄進された。

家康は、これを丹波亀山城天守として使ったとのいわれがある。

現在の今治城天守は、昭和55年に市政60周年記念として本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守である。
藤堂高虎が創建した天守は、最新鋭の層塔型天守であったのに、専門家たちは何故今治市は望楼型にしたのか訳が知りたいと言われている。

今回最後の秋山兄弟生誕地研究員の研修地は、今治市大西町に建立されている好古揮毫石碑の見聞で研修は予定通り全て終了した。

この日は絶好の研修日和であった。

今治市大西町山之内の石碑。

1.揮毫碑文  :衆心和暢化乃成

2.所在地   :今治市大西町山之内小山「山之内薬師堂境内」

3.建立年月日 :昭和3年1月

4.揮 毫 者 :好古

5.建立者   :建設連名:代表 近藤 大作

6.碑石大きさ :高さ・3m30㎝ 横幅・1m60㎝ 厚み・13cm

参考資料1

碑石建立は、好古を最も尊敬していた、近藤大作氏が揮毫をお願いして標記碑文の碑を建立したと言われている。碑石の石材は花崗岩であるが石碑裏面に建立に関係した建設者36名・世話人8名の氏名が刻印されているが名前の読み取りが困難である。

 

 ※ 衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだい)成(せい)とは

衆心⇒みんなの心が 

和暢⇒やわらぎのどかであれば(のびやか) 

化⇒教育は 

乃⇒まさに(間違い無く)  

成⇒実ってゆく 

出展ナシ 

地域を豊にするには、心から豊にしていかねばいけない、意識改革を起こしていくと新しい社会が生まれていく、それが教育の真髄。・・その意を籠めて好古は揮毫した。                    

参考資料2

近藤 大作は:
明治11年越智郡朝倉の古谷で長井家の次男として誕生し、愛媛県師範学校を卒業、小学校教員となる。
明治41年この地の近藤家の養子となり弓削小学校校長、大正3年新居郡視学・愛媛県視学と歴任。(現在の新居浜市・西条市)大正10年今治第二尋常高等小学校(現 美須賀小学校)校長に就任。
大正13年病気療養の為退職。(秋山好古北予中学校校長就任・松山で元内閣総理大臣、清浦奎吾氏との出会いの年)
昭和2年小西村村長に就任、昭和21年まで連続5期村長を務めた。

参考資料3
小西村は、藩政時代、伊予松山藩に属し明治になり町村制施行が行われ愛媛県野間郡小西村が誕生。その後明治30年越智郡に統合され愛媛県越智郡小西村となり、昭和30年大井村と合併し大西町となり、平成の大合併で今治市に吸収合併され現在に至る。

石碑建立は昭和3年(昭和天皇即位大典)、近藤大作が村長に就任して間もない頃、陸軍大将従二位の偉人であり教育者、そして北豫中学校長として名声高きの秋山好古を、近藤大作は尊敬していたので、この石碑建立にあたっては是非好古校長にとの思いで揮毫を依頼した。

秋山好古の信条、簡単明瞭・質素にして清く正しく心豊かであれ。そして世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人間になるようにと、母貞から小さい時から強く躾をされた。
此れを胸におき人生を送って来たその生き方に尊敬の念を抱いていた、
近藤大作(小西村長)は、好古に揮毫を依頼し、好古も石碑建立の経緯を確かめ、その事に感銘をうけ好古オリジナルの漢詩で答えたのである。

石碑裏面に建立に関係した建設者36名・世話人8名の氏名が刻印されているが名前の読み取りが困難である。

近藤村長の思いは、小西村を住みよい村を構築せねばならない、それには村長が先頭に立って村民団結し、村づくりを行うには、基礎となる教育が必要。
現在の、学校教育、家庭教育、社会教育の充実で、そして昭和3年は即位の礼(御大典紀念)昭和天皇の誕生で元号も昭和となる。
その記念に村の座右の銘となる言葉を秋山好古北豫中学校長に依頼し好古は、近藤村長の意を汲み漢詩で「衆心和暢化乃成」を作り以って之に答えた。
近藤大作村長は、建立地は何時も村民の目に触れる所、薬師堂入口に建て村民教育を推進した。

石碑の上にある山内薬師堂で、ご本尊は薬師如来である。

薬師堂は、薬師如来を本尊とする仏堂の呼称である。
薬師如来が病気平癒の仏とされることから、製薬や医療の分野でも「薬師堂」の名前が使われることがある。また、薬師堂があった場所の地名となっているところもある。

小西村の村民の健康維持と村の平和、五穀豊穣を祈念して自分はもちろん、家の人などが長く治らない病気になったときにこのお堂に泊り込み、病気が治るよう薬師様にお祈りをしたのだと言い伝えがある。

その事を鑑み近藤大作村長この地に石碑を建立した。

薬師堂から見た石碑。

私が取材したのは平成19年であったが、当時は説明板が無く「衆心和暢化乃成」の意味が分からず、知人の今治市史談会・菅正憲氏にお願いしましたところ画像の説明板が設置された。

令和2年10月1日現在の全国に建立されている秋山好古揮毫石碑所在一覧である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その12 NHK松山放送局 「碑文に残された好古の思い」

2021年05月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山兄弟生誕地に展示された秋山好古揮毫の石碑写真展。

NHK松山放送局 放送部編成専任部長・阿部さんは、秋山兄弟生誕地に来られて好古揮毫石碑写真展示をご覧になり話された。

秋山好古については、いろんな資料が数多く残っているが、好古が揮毫し全国に存在する石碑調査をこれだけ綿密に調査していることに驚き、そして揮毫から建立に至るまでの経緯が詳細に記されている事が貴重なものだと評価して頂いた。

そして、番組を編成企画し制作立案しましょうと言って頂いた。

遂に番組制作が決定しロケが行われることになった。

放映は、スペシャルドラマ・坂の上の雲第3部が始まる前に、現地ロケを行い放映することに決定した。
この時点で好古揮毫の石碑は全国に48基が発見されていた。

NHK松山放送局が制作して頂き放映されたタイトルは⇒「碑文に残された好古の思い」となった。

私は、番組編成部長の阿部さんの指示にしたがい、私が取材撮影した48基の石碑画像と説明文をCDにコピーして送った。

ロケ収録は、平成23年10月20日に決定、午後2時にNHK松山放送局に来るよう連絡があった。

放映は時間に制限があるので、現地での収録は、ニヶ所の石碑にみとなった。

一つは、松山市神田町1番7号、厳島神社にある「表忠碑」で、もう一つは今治市大西町山之内の石碑は「衆心和暢化乃成」である。この日は雨天で雨の中のロケ収録であった。

現地収録第一現場、松山市神田町1番7号、厳島神社にある「表忠碑」で、収録については事前にNHK松山放送局が、厳島神社に許可を取っていた。

私が持参するものは、石碑取材に使ったカメラを持参するようNHK担当者からあり、雨天決行ですと連絡があった。
そして午後2時にNHK松山放送局舎に来るよう連絡があり、NHKの車で現地に移動した。

当日は、雨天であったのでカメラさんは雨合羽を着用し、スタッフに傘をさしてもらっての撮影となった。

放映されたのは、スペシャルドラマ・坂の上の雲第3部が始まる前の平成23年12月16日から坂の上の雲第3部放映の紹介を兼ねて数回放映された。

雨天の中収録は始まった。

松山市神田町1番7号、厳島神社境内にある「表忠碑」。

厳島神社は境内が広く、この広い境内に合わせるかの如く大きな立派な石碑です。

神社は、松山の秋祭りのなかで、市内で一番早い宮出しと神輿の鉢合わせが行われる有名な神社である。(暁の宮出しと言われ早朝4時に境内で鉢合わせが行われる。)

松山市神田町1番7号、厳島神社境内にある「表忠碑」で天候が良い日に私が撮った石碑で秋山好古揮毫の石碑の中(53基)一番大きな石碑、高さ4m63cmある。

石碑の概要

1.碑   文 : 表忠魂

2.所 在 地: 松山市神田町1番7号 厳島神社

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 裏面に世話人8名の記載有り判読困難

5.建立年月日: 記載無し 

6.碑石大きさ: 高さ 4m63㎝ 横幅 2m50㎝ 厚み53㎝

「表忠碑」の裏面で、三津浜地区から日清・日露戦役に出征し、戦病死された264柱の氏名が合祀され記載されている。

 

松山市神田町1番7号、厳島神社の表忠碑の収録が終わり、次の収録地今治市大西町山之内薬師堂に移動、距離は松山から約40kmあり1時間程掛かる。今治市大西町に着いたのは午後4時30頃で雨天なので、周囲は霧が掛かりすこし薄暗い状態であった。

私は、編成部長の阿部さんに採光が良くないですが綺麗な画像が撮れますかと伺うと、雨天の画像も情緒があっていいですよ、腕のいいカメラマンですからと返事が帰ってきた。

腕のいいカメラマンと、使用するカメラは業務用仕様のカメラですから問題なかった。

放映された画像をTVで見ましたが流石プロの画像だと改めてその凄さを痛感した。

予定の収録も無事終わり松山のNHKに帰ったのは、午後6時過ぎであった。

今治市大西町に着いたのは午後4時30頃で雨天なので薄暗い状態での映像でレンズに雨粒が写っていた。

映像「碑文に残された好古の思い」の語りは、NHK松山放送局アナウンサーの田中紀英さんでした。

※碑文=衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだい)成(せい)とは

衆心⇒みんなの心が 

和暢⇒やわらぎのどかであれば(のびやか) 

化⇒教育は 

乃⇒まさに(間違い無く)  

成⇒実ってゆく 

NHK松山放送局編成部長・阿部さんは、現地収録に二つの石碑を選んだのは、一つは日本の國を左右する大きな戦い、日清日露戦役で戦病死された方々を敬う表忠碑ともう一つは、地域の発展には老若男女の教育が必要である。この事を考えて選定されたんだと私は考えた。

秋山好古は陸軍大将まで上り詰めたが、人生の出発点は、福沢諭吉の学問のすゝめを読み教育の必要性を鑑み、大阪師範学校(現・大阪教育大学)を卒業し名古屋師範学校(現・愛知教育大学)の付属小学校の教師として社会に出ていった。

郷土の先輩、和久正辰(名古屋師範学校教務官)と名古屋鎮台山本忠昭武官の強い勧めで陸軍士官学校に入学し日本の騎兵隊を創設し、日本騎兵の父と言われた。

その後大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。
大元帥は元帥を辞退した秋山大将に、特旨として官位従二位を与えた。

好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊予松山から要望に答え北豫中学校長として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任した。
同年11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。

最後は、教壇に立ち北豫中学校長として故郷のために尽くした。

番組「NHK松山放送局制作・碑文に残された好古の思い」はこの画面から始った。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑で、日清戦役で戦死をした秋山好古の騎兵隊員15名が戦死その哀悼の意を籠めて秋山好古自身が建立した。

画像の大きな石碑の右側の小さな石碑である。

東京都世田谷区池尻にある哀悼碑の碑文。

新潟市江南区沢海にある忠魂碑で日本海側に発見された貴重な石碑である。

新潟日報・愛媛新聞にも大きく報道され、NHK松山放送局も現地取材をした。

何故新潟市にあるのかは、日本騎兵育ての父秋山好古が、短い期間であったが新潟県高田市に大正2年1月15日、第13師団長として着任していた。

当時揮毫嫌いとして有名であった秋山好古に揮毫してもらうには、新潟県知事から揮毫を頼むしか手立てはないと、新潟県中蒲原郡横越村(現、新潟県新潟市江南区)神田又一村長は考え、伊澤多喜男新潟県知事に「忠魂碑」の揮毫を秋山好古に依頼してもらった。

伊澤知事の前任地は愛媛県であり秋山好古とは懇意の間柄であった。

そして石碑は

新潟市江南区沢海にある北方文化博物館・神田勝郎館長の努力で平成26年3月13日、新潟市民文化遺産に認定された。

その後NHK松山放送局は新潟市江南区沢海日枝神社にある(北方文化博物館に隣接する日枝神社境内にある秋山好古揮毫の忠魂碑)石碑を取材している。

註1:第13師団は大正2年4月12日、新潟県高田市から満州遼陽に移転、そのため第4代師団長秋山好古は渡満する。新潟県高田市には僅か2ヶ月間しか居なかった。

註2:伊澤多喜男新潟県知事は前任地愛媛県知事時代、住友別子銅山の精錬所から出る亜硫酸ガスによる農作物煙害が大きな課題となっていた。この大問題を解決した。その後新潟県知事・警視総監・台湾総監・東京市長等々の重職を努め活躍された。

秋山好古揮毫した石碑・忠魂碑が、北方文化博物館神田勝郎館長さんの働きで、平成26年3月13日、新潟市民文化遺産に認定された認定書である。

秋山好古は、郷土の先輩、和久正辰(名古屋師範学校教務官)と名古屋鎮台山本忠昭武官の強い勧めで、明治10年陸軍士官学校騎兵科に入学し日本の騎兵隊を創設し日本騎兵の父と言われた。

郷里の伊予松山からの強い要望に答え北豫中学校長として、大正13年3月から昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任し同年11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在、東京青山霊園に眠っているが、北豫中学校長時代一切軍服を着ることはなく、軍人時代の話を一切しなかった。

軍馬慰霊之碑。

最後の揮毫となった石碑が、千葉県船橋市にある陸上自衛隊習志野駐屯地基地内に「軍馬慰霊之碑」が昭和5年10月5日に揮毫されこの筆が絶筆となった。石碑は同年11月建立された。

昭和11年11月1日、東京市麹町区丸ノ内二丁目18番地、秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」である。

この秋山好古の背文字は、陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」を写したものである。

秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」は「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」の署名写したものである。

伊予松山城天守から撮った北豫中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)。

北豫中学校校長として活躍し、好古校長が赴任してから校風がガラッといい方に変わったそうです。

好古校長は、出張以外は大正13年3月から昭和5年3月迄の6年間、松山で一人で生活をし、一日の休暇も取らず校長職を貫いた。

秋山好古が北豫中学校校長時の卒業証書。

肩書に従二位と官位が記載されているが、教職員がこの官位を持つものは秋山好古ただ一人である。

北豫中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)から見た松山城天守。

現在の愛媛県立松山北高等学校で、秋山好古校長資料館の前で秋山好古校長を偲ぶ在校生。

 

秋山好古、無言の教訓・無為の感化

北豫中学校長時代の秋山好古は学校到着は、毎朝決まって始業20分前。
好古の通勤する姿を見て沿道の人々が時計を合わせ直したという話まである時間厳守。
欠勤の教員がいると、好古自身ができるだけ代講を務め、休講になってしまうのを極力避けようとした。
たとえば、西洋史の教員が欠勤の時、好古は、英語で書かれた歴史書を教室に直接持って行って、その場で翻訳しながら生徒に語って聞かせたという。

漢文は、伊予松山藩藩校、明教館仕込み、英語・フランス語にも堪能で、獣医学をはじめ自然科学にも明るかったので、たいていの科目の代講を務めることができたようである。

校長がこのようであるから、学校全体が引き締まり、生徒の欠席や教職員の欠勤も随分と減っていったとある。

 

愛媛県西条市の幻の記念碑

北豫中学校長在任中、西条市から一級河川「加茂川」の改修工事が完了したのでその記念碑を建立したいので文字を揮毫してほしいと頼まれ快く引き受けた。
そしてその記念碑が完成したので竣工式を行うので臨場の連絡があり、且つ農民の為になるような講演を頼まれた。

好古は、延々と2時間農事に関する最近の事情、農耕に関する新式の方法等にも及ぶ話をした。

聴衆一同すっかり驚いた。

しかし「加茂川」の改修工事が完了の記念碑の所在が今持って不明である。もしかしたら暴れ川加茂川が反乱した時に石碑は倒壊埋もれたのか?未だ不明である。

加茂川は改修工事後も反乱している。

西条神社の宮司さんと一緒に石碑を捜索したが発見できなかった。久松定武愛媛県知事時代の改修工事記念碑はありましたが。

NHK松山放送局制作の「碑文に残された好古の思い」の終わりの画像。

そしてスペシャルドラマ坂の上の雲、第3部の紹介画面が流れた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その11 愛媛県松前町北川原の石碑

2021年05月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今回の石碑取材にご協力頂いた方は、愛媛県伊予郡松前町北川原在住の大西宏和氏である。

大西さんは、元公益財団法人常盤同郷会理事・鷹尾氏の友人で、連絡頂いた石碑は、宏和氏の曽祖父、和一郎さんの「米壽記念碑」で、普段は屋敷内に建立されているから外から見ることは出来ない。

記念碑は、大西和一郎氏88歳・米壽のお祝いに家族が建立し、揮毫は秋山好古

にお願いした。

門を潜ると、主屋まで花崗岩で敷き詰められた石畳がありその途中に記念碑「米壽記念」がある。

米壽記念碑建立については、北予中学校に多大な支援をして頂いたお礼に好古は揮毫した。

個人の邸宅にある石碑は、令和2年10月現在53基の石碑が発見されているが屋敷内にある石碑はこの一基だけである。

一般の方は見る事が出来ない。石碑を見学するには主の許可が必要である。

主屋の玄関手前に、高さ1m53cmの立派な石碑が建立されている。

1.碑   文 :  米壽記念

2.所 在 地:  伊予郡松前町北川原347番地  大西 宏和氏邸宅内

3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:  大西 二郎

5.建立年月日:   昭和 4年 3月 「御大典奉祝記念」

6.碑石大きさ:   高さ・1m 53cm  幅・52cm  

 

大西和一郎氏は、

天保12年(1841)生まれで、好古より18歳年上である。

20歳の時、母と6人の子供をの残し父に死なれ苦労した。その後努力をして大西家の基礎を築きあげ、伊予郡役所に奉職し郡長の補佐役を務めるまでになり県知事からも認められる役人に成長した。

温泉郡生石村の立て直しを県知事に託され就任、村内種々の難問を解決、また地元の耕地整理にも多大な尽力をしされ、後年は政界、実業界に活躍された。

教育についても理解があり特に北予中学校については、秋山好古との関係で側面から多大なる支援したと言われている。

昭和4年4月 米壽お祝いを記念して石碑を建立したあとまもなく逝去された。

米壽記念碑建立については、北予中学校に多大な支援をして頂いたお礼に好古は揮毫した。

個人の邸宅にある石碑は、令和2年10月現在53基の石碑が発見されているが屋敷内にある石碑はこの一基だけである。

石碑側面に「昭和四年三月・北川原中」と刻印されていた。

大西家の家紋で、「米壽記念碑」の傍に置かれていた。

大西和一郎氏に迎えられた松山歩兵第22連隊旗とその旗手。

松山歩兵第22連隊は明治16年6月創設された。昭和2年伊予郡岡田村で22連隊の秋季演習時がありその時に際し第22連隊旗とその旗手が大西邸に宿泊した時の記念写真である。画像左から二人目が大西和一郎氏である。

22連隊長と連隊旗が宿泊した由緒ある家系で、歩兵連隊旗が個人の屋敷に宿泊するなど超珍しい事である。

陸軍歩兵第22連隊は、愛媛県松山で編成された日本陸軍の歩兵連隊で、数々の戦役に出征して武勲を重ね『伊予の肉弾連隊』と称され、日本軍屈指の精鋭部隊であった。

特に、日露戦争での奉天の戦いに参加して激戦を展開し、この当時の戦いぶりは、22連隊旗手・櫻井忠温中尉の戦記、肉弾は有名である。

また、大東亜戦争末期の、激戦沖縄戦では、22連隊から多くの戦死者を出している。

参考事項

明治22年町村施行により伊予郡大字西古泉・恵久美・大間・北川原・庄之内・上高柳・西高柳の7か村が合併し、伊予郡岡田村として発足。

昭和30年3月31日、 松前町と北伊予村が合併して伊予郡松前町となり、岡田村は自治体としては消滅した。

大西宅は、旧伊予郡岡田村大字北川原、現在は、伊予郡松前町で平成の大合併では、どの自治体とも合併はしなかった。愛媛県内で合併せず単独の道を歩んだのは、松前町と北宇和郡松の町のみである。ただし、松野町は合併を拒否している

わけではないため、その意味で愛媛県内で唯一、合併しない決断をした自治体である。

同町には、東レ愛媛工場があり、複合材料技術の開発部署も設置されており東レの炭素繊維・複合材料の生産・開発拠点であり、ボーイング787型機用の炭素繊維の生産が、日本では東レ愛媛工場で行われている。PAN系炭素繊維メーカーとしては、世界最大手である。

松前地区は、一級河川、重信川があり、伏流水が豊富で自治体領地には山も丘もない全国でも珍しく、農地は、耕地整理がされており農作物の耕作がやりやすくはだか麦の生産が県内第2番めである。

藩政時代、伊予松山藩20万石の初代藩主、加藤嘉明が以前居住していた城松前城(正木城)があった地で、加藤嘉明が徳川家康の許可を得て松山城を築城、居を松山城に移す際松前町の商人達を移住させた所が現在の松山市松前町である。

令和3年3月現在の人口は、30,491人である。

ここからは、道草をしてボーイング787型機にふれてみよう。

愛媛県伊予郡松前町にある東レ愛媛工場で生産されている炭素繊維(複合素材)を使い、次世代中型機としてボーイング社が制作した787型機(愛称・ドリームライナー)を世界で始めて日本で就航した。

平成25年1月16日から松山空港に駐機していたANAボーイング787型、JA811A機。機器の不具合が発覚し全てのボーイング787型は営業運行停止となった。

787型機には、愛媛県伊予郡松前町(松山市の南隣町)にある東レ愛媛工場で生産されている炭素繊維(複合素材)を機体に使い軽量化した結果、燃費がよく、揺れが少なく、騒音も軽減され機内も、照明はLEDにし窓も従来機の1,3倍の大きさにした。機内の湿度も高く設定でき、肌に優しく特に女性には喜ばれている。

ボーイング社と全日空の整備士が松山空港に来て点検修理をした。

松山空港は大きな格納庫がなく屋外で作業は行われた。

エンジンカバーを開けて詳細な点検。

エンジンは、ロールス・ロイス社製で、ロゴが表示されていた。

全日空は次世代中型機としてボーイング787型機(愛称・ドリームライナー)を世界で始めて日本で就航した。

平成25年1月26日山口空港発東京羽田行きの787型機が発煙トラブルで高松空港に緊急着陸、その後787型機は運行停止となり、松山空港でも一機が駐機し緊急修理した。

ボーイング社はバッテリーの交換、配電盤等々の修復等を施し試験飛行を重ねた結果、平成25年4月21日改修指示書が届き、22日から松山空港に駐機中の787型機もボーイング社と全日空15名の整備士が新しいバッテリーの交換やエンジンの点検をした。

改修作業は5月から6月はじめまで掛かり商業運航は6月中旬以降になった。
松山の787型機は改修が終わると試験飛行を兼ねて東京羽田に回送してから再度試験運航を行いその後の結果商業運航再開となった。

画像は、平成25年4月3日、撮影したANAボーイング787型機ドリームライナーである。

松山空港を離陸するボーイング787型機(愛称・ドリームライナー)。

羽田空港に向かって松山空港を飛びたったボーイング787型機(愛称・ドリームライナー)。

私、平成24年3月24日と同年10月28日に松山から羽田間にボーイング787型機に搭乗したが、この時は何のトラブルも無く快適な飛行であった。

機内の照明は、節電型のLEDが使われていた。

ボーイング787型機のトイレ、綺麗でした。

ボーイング787型機の主翼で他の飛行機よりも主翼が細い。機体が炭素繊維で仕上げてあり軽いから細くて大丈夫なのか?

撮影したのは、相模湾上空で雲がなければ主翼の下に富士山が見えるがこの日は残

念に見えなかった。
東京に行く時は必ず左の窓側の席を予約する。富士山を撮るために。

松山から羽田空港の飛行ルートは、西日本最高峰・石鎚山上空を飛び遠州灘上空に来ると天候が良ければ、北アルプス穂高連峰のシンボルである槍ヶ岳を見ることが出来る。そして間もなく、画像のように富士山が見える。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする