EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

四国最大の城 松山城本丸に存在する 21棟の重要文化財を辿る

2021年08月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

画像は、松山城本丸を真上からみたもので、上部中央が本壇である。中央左が搦手であり裏鬼門にあたる。
本丸地図・建造物一覧の左側の建造物、赤い番号21棟が重要文化財に指定されている建物で、右側の白い数字の建物は、戦後復元された建造物です。なお、星印の建造物は、令和元年、本壇の9棟が登録有形文化財に指定された建物です。

昭和8年7月9日、放火のため本壇の小天守(こてんしゅ)および廻廊11棟が焼失、大天守(おおてんしゅ)は焼失を免れた。

松山城本壇で、昭和43年、本壇の小天守をはじめ3年計画で廻廊を復元し、往時の形に復元以降、年次計画的に本丸建造物は復元されていき29棟全て木造で、1棟は鉄筋コンクリート造の外観復元された。

注1:松山城本丸建造物は、

昭和10年5月13日、国宝に指定された。
昭和  8年7月9日、放火のため本壇の小天守および廻廊11棟が焼失。
昭和20年7月26日松山大空襲の戦災で、11棟の建造物(旧国宝)が焼失した本丸の建造物を、昭和33年から文部省に提出した資料(基本設計図・図面)に基づき、なおかつ文化庁の指導により忠実に復元工事を始めた。
最初に復元工事に着手した建造物は馬具櫓だった。
馬具櫓は、文化庁の指示により地盤の関係上、鉄筋コンクリート構造で外観復元となっ

ている。馬具櫓が一番最初に復元された理由は、本壇・本丸城郭復元工事の司令塔(指揮管理事務所)となる必要な建物であった。現在も本丸・本壇管理の重要な設備が設置されており、また本丸に勤務する職員の事務所となっている。

その後昭和43年、本壇の小天守をはじめ3年計画で廻廊を復元し、往時の本壇の形にし、以後年次計画的に本丸建造物は復元されていき29棟全て木造で復元された。
最後の復元建造物は、平成2年、太鼓門西塀の復元でこれをもって松山城本丸の建造物の復元工事は完結した。
実に32年の長い年月を掛けての復元工事であった。

注2:太鼓櫓から馬具櫓と紫竹門西塀の間には続塀があったが、松山市はあえて復元工事は控えた。その理由は、132mの本丸まで登城し続塀があれば15万石の城下町の眺望が出来なくなるために復元工事はしなかったのである。

注3:登録有形文化財とは、平成8年に文化財保護法の改正により創設された制度で、有形文化財のうち,重要なものを「重要文化財」に指定し,さらに世界文化の見地から特に価値の高いものを「国宝」に指定して保護を図るとある。

国宝に指定されるには、先ず有形文化財に登録され、次に重要文化財に指定されなければならない。国宝は、重要文化財の中から指定されるからである。

注4:昭和25年5月、文化財保護法の制定により、国宝であった松山城本丸の建造物21棟は、重要文化財に指定変更された。現存12天守は全て国宝であったが、保護法制定に伴い「松本城・犬山城・彦根城・姫路城」が国宝に、「弘前城・丸岡城・備中松山城・松江城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城」は、重要文化財に指定変更された。松江城は平成27年7月8日、国宝に指定された。

注5:昭和24年1月26日の法隆寺金堂の火災により、法隆寺の金堂の壁画が焼失したことがきっかけに、文化財保護法の法律が制定された。法隆寺の火災がなかったら現存12天守は今も国宝であったかもです?。

注6:文部科学省は、国宝であった物が重要文化財に指定替えされたことについて「格が下がったかの様に思われるが、そうではないと注意書きがあるが、国民は格下げだと感じている。

本丸本壇には、我が国の城郭のうち連立式建築の最も完備した形式とされる天守を中心にした建造物が26棟あり、その内重要文化財指定の建造物が14棟、復元された建造物が12棟ある。

松山城本壇に築かれた形を、連立式城郭と呼ばれる。天守が並立する二基以上の城櫓によって形成したものをいい、中庭の設えがある形態が整然と構築されているものを言う。

この様式を持つ城郭とその名を全国に知られているものには、姫路城と和歌山城と松山城があるが、なかでも松山城は、江戸時代の古城郭として最も新しい完全なものとして注目される。

これが、日本三代連立式天守と言い、全国の城郭愛好者の皆さんが鑑賞・観光に来られる由縁です。

天守は、城の象徴な存在で連立式天守は城郭建築の最高の形式である。

日本三代連立式天守は、姫路城・和歌山城・伊予松山城で、和歌山城は戦後鉄筋コンクリート構造で外観復元された天守で、姫路城・伊予松山城は江戸時代の古城郭である。ただし姫路城の中庭は一般公開されてないので中に入れない。

現存12天守の中で国指定の重要文化財指定の建造物が一番多く存在するのは、国宝姫路城(国宝8棟・重文74棟)で次いで多く現存するのが伊予松山城である。

松山城は、昭和10年5月13日、国宝に指定されたが、昭和25年5月制定された重要文化財保護法という法律により重要文化財に指定変更された。重文に指定された城郭建造物は、21棟で、内訳は、天守を含む櫓7棟、城門7棟、続き塀7棟である。

今回は、重要文化財21棟を画像でご案内します。

では、ロープウェイ山頂駅からご案内しましょう。

戸無門。

ロープウェイ山頂駅から登城すると眼前に本丸一の高石垣(17m)が現れ、待合番所跡に出る。
ここは東雲口からと二ノ丸からの登城道が合流する地点である。
東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の筒井門に迫る重要地であった。それに沿って行き右旋回した道は、石塁と石垣で構築された「隘路」となってその奥に戸無門が現れる。

門の形式は、高麗門で本瓦葺、慶長年間の創建である。全国の城郭でも非常に珍しく、戸が無いのは、ここまで進入した敵を一応通過させ次の筒井門・隠門の攻防戦において一挙に撃破する構えである。

戸無門、内側で筒井門に通じる枡形から撮影。

隠門。

次に筒井門(復元された城門)の東側に隠門がある。大手で最も重要な筒井門・隠門の構えに遭遇する。石垣で隠され寄り手に秘匿された形で隠門が設けられている。

筒井門は昭和24年、狂人の放火により焼失。昭和45年復元された。隠門は、城内建造物のうち、乾櫓・野原櫓に次ぐ古い建築物で筒井門復元工事の時に戸無門と共に修理が行われた。門の形式は、櫓門形式で本瓦葺。

隠門続櫓。

隠門の上に、隠門続櫓がある。一層櫓で本瓦葺。筒井門と接続しており、戸無門を通過し、筒井門に殺到した敵に予期せぬ側面急襲を加え一挙に撃退する構えで、櫓内部は、武器弾薬の保管となっていて壁は銃撃されても耐えられる分厚い土に固形物を混ぜ造り上げている。

紫竹門。

紫竹門は、乾門から東進すると左手に本檀石垣がそびえ、右手には乾門東続櫓からの屏風折れした石垣上に続塀がある。東西続塀ともに本丸広場を内側とし搦手乾門側を寄手側とした構えになっている。・・観光者はこの構えを不思議に感ずる方がいる。

形式は、脇戸付高麗門、本瓦葺。

紫竹門内側。

本壇一ノ門同様に両開きの扉は上下とも格子造りとなっている。これは敵軍か友軍かの確認

するためである。

紫竹門西塀。

本丸を防御する最重要な紫竹門と共に西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う本丸防御の重要諸点、ここを破られると本壇へと敵は侵入進撃して来る。

長さ14、47m、狭間10ヶ所、本瓦葺。

紫竹門西塀(内側)。

紫竹門東塀(内側)。

本丸を防御する最重要な紫竹門と共に東塀・西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う。また東塀は、その内側が本壇入口通路で一ノ門にと繋がる。

長さ16、57m、狭間11ヶ所、本瓦葺。

野原櫓。

紫竹門から外に出ると本丸西広場に出る、そこに野原櫓が見えてくる。

野原櫓は、乾櫓の東に位置し本丸西北を防備するための櫓である。この櫓は騎馬櫓とも称し、築城当時に新しく建築された本丸では一番古い建物で、2層一部1層の建物であるが、下層の大入母屋屋根の中ほど、一回り小型の2階を載せた形となっている。これは戦国時代豪族が、その居館の屋根上に望楼を乗せ見張り様に用いていた。その望楼が次第に拡張されて、犬山城に見られるわが国独自の天守建築に発展したとされる。
天守望楼起源説の一過程を示すものとして注目される貴重な櫓である。造りは、2層2階(一部1層)櫓、本瓦葺。

注1:野原櫓の名称は、古町にあった豪商、野原氏が寄進したので、野原櫓と言われたとの諸説がある。

乾櫓。

乾櫓は、本丸搦手を防備するための櫓で、乾門を過ぎて本丸西広場に出ると西方に乾櫓がある。2層一部矩折1層のこの櫓は三面を本丸石垣に托し、その北面は山麓に面し隣接する野原櫓に横矢掛りをみせ、西面は乾門の上にあり、南面は乾門前の枡形を射撃するという多くの任務を課せられた櫓である。
この建物は、加藤嘉明が松前城時代のものを移築したもので、城内一番古い建物である。本丸の西北隅すなわち乾の隅に立つのでこの名前があり裏鬼門の方角にある。

2層2階(一部1層)隅櫓、本瓦葺。

これから本壇にと進入してみよう。

一ノ門。

本壇入口、本丸広場から本壇入口は上り坂になっており、その路の左側は紫竹門東塀(現切符売り場)で右折すると正面は高さ5mの石垣上に筋鉄門東塀、右手には、一ノ門南櫓、左手には小天守があって堅固められている。

一ノ門は、高麗門形式で本壇入口最初の門である。主屋根は両妻をそれぞれ櫓下の石垣に託し、木割りも大きく豪放な構え、両開きの扉は上下とも格子となって見通しをよくしている。脇戸附高麗門、本瓦葺である。

一ノ門内側。

一ノ門南櫓。

一ノ門南に接続し本丸広場から本壇に進入して来る敵に対し、攻撃防御する櫓で突き上げ格子窓・狭間・石落しを備え他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩の貯蔵を主たる目的としながら、本壇最後の防御手段としての合わせ持つ櫓として重要な櫓である。・・これは、二ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じ事が言える。造りは、1層櫓、本瓦葺。

一ノ門東塀で、一ノ門南櫓と二ノ門南櫓を結ぶ続塀で本丸広場からの本壇に侵入する敵を攻撃するものである。
長さ10、14m、狭間10ヶ所、本瓦葺である。

二ノ門南櫓。

二ノ門南櫓は、二ノ門東塀に接続し本丸広場から本壇東にある艮門から進入して来る敵と、一ノ門内の枡形の敵を阻止する櫓である。狭間・石落しを備え、他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩を貯蔵する一ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じである。
造りは、1層櫓、本瓦葺。

二ノ門東塀。

二ノ門東塀は城内で一番規模の小さな続塀で、二ノ門と二ノ門南櫓を繋ぐ続塀である。
長さ3、72m、狭間3ヶ所、本瓦葺。

二ノ門。

二ノ門は、一ノ門内の枡形を過ぎて左折し、急な石段を上ると二ノ門がある。この門は城内で唯一つの薬医門形式の門である。
薬医門というのは、もともと医者の門として用いられたのでこの名になった。しかしその前の語源は、矢喰門(敵の矢を喰う門)と呼ばれていた。
画像のように屋根が一つで、松山城内で唯一二ノ門のみである。
脇戸附薬医門形式の本瓦葺である。

二ノ門内側。

三ノ門表側。

三ノ門は、高麗形式の門で、屋根の一端は天守建物下部に接する。これを過ぎると正面に三ノ門南櫓があり、そこを右折すると天守南側石垣と筋鉄門東塀に仕切られた細長い進入路となり、その奥に本壇最後の守り筋鉄門に達する。

造りは、高麗形式、本瓦葺である。

三ノ門南櫓。

三ノ門南櫓は、天守に至る曲折した進入路に沿って設けられ、一ノ門南櫓、二ノ門南櫓同様に突き上げ格子窓・狭間・石落しを備えていて、本壇最後の防御手段として備えてある。造りは、1層櫓、本瓦葺。

画像は、中央に三ノ門南櫓があり、その左に三ノ門東塀、右が筋金門東塀である。

三ノ門東塀で、左側は三ノ門に接続、右側は三ノ門南櫓に接続している。

長さ14、20m、狭間10ヶ所、本瓦葺。

筋金門東塀。

筋金門東塀の左側は、三ノ門南櫓に接続し、右側は筋金門に接続している。
筋金門東塀の下は、一ノ門枡形である。

長さ11、13m、狭間10ヶ所、本瓦葺。

仕切門。

仕切門は、天神櫓前から天守台を西に進むと仕切門に達する。この門も高麗形式で、屋根の一部は天守下部に接し、他の端は仕切門内塀に接続している。
仕切門左に見える石垣は、天守台の石垣である。

脇戸附高麗門、本瓦葺。

仕切門内側。

仕切門内塀。

仕切門奥には直角に設けられた枡形がある。石垣を登ってくる寄り手を、弓・鉄砲・石を落とす狭間が設けられている。本壇北面を防御する重要な続塀である。
続塀は、弓・鉄砲・石を落し等々で防御不能となったとき、最後の手段として控柱取り払い塀ごと突き落とす。
長さ24、56m、狭間16ヶ所、本瓦葺。

大天守。

中庭から見た天守。

天守は、本壇中央に位置し、本壇地盤から高さ4mの石垣で天守台を造り、その上に天守が築かれている。地下一階の内部は内側から石垣が築かれている。地下一階は米蔵として築かれたため湿度調整の配慮から内側の石垣は、安山岩で築かれ、使用する部材は楠木で防虫効果を図り、床は素焼きの瓦が敷かれている。これも湿度調整を考えてのことである。

米蔵には2千俵の米の貯蔵が可能であった。
この時代の職人は、湿度・防虫等々を考慮して建造している。必要な個所に必要な部材を持ちいて築城している。
米蔵の出入口は、現在は天守観光の入口となっている。

3層3階天守、地下1階附、本瓦葺。

近世(安土桃山時代~大政奉還迄)の時代に築城された天守の中で、各階の床面積が一番広い天守は松山城天守のみである。
もともと5層の天守台に3層の天守に改築したためである。

参考資料:平成6年3月31日、松山市役所発行 松山城・増補五版引用

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重要文化財・伊予松山城を探索する その2(平成の保存大修復工事)

2021年08月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

幕末、276の藩あり、そのうち城持ち大名は135藩で城には天守があった。

明治6年2月、政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。

伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。

存続を願い、伊佐庭如矢は、大蔵卿大久保利通に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと存続を上申した。

維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿木戸孝允は公園化を条件で認め存続の許可が下りた。

松山城を含め政府は19城の天守の存続を認めた。先の大戦で6城の天守が焼失、松前城天守は火災で焼失、残った12城が現在の「現存12天守である。」

松山城は

幾人かの努力により、災難を乗り越え、保存修復を繰り返しながら存続している現存12天守の一つ松山城天守です。

近々では、平成16年10月19日から文化庁の指示指導に従い、天守他4棟の保存修理「平成の大修復」工事が行われた。

その時の様子を画像で回顧してみましょう。

保存修復工事は、平成16年6月から始まった。

先ずは工事用足場が必要です。現在、足場は鉄製ですが、以前は丸太を組合わせて、8番線の特殊な針金を特殊工具一本で職人さんが手際よく括り留めて造っていた。

保存修復工事に必要な資材を運び上げる道路も整備し、資材置場は本壇天神櫓南塀の下にある広場を使った。

足場の建設が完備され安全保護用のネットが張られた。

天守は工事中でも観光が出来たので、観光者の安全を護るためその安全には最大の注意をはらった。

本壇、築竹門東塀からの天守で、足場が設営されていった。

本壇、築竹門東塀からの天守南面。

足場を設営する作業員。

手前の作業員が居る所は、三ノ門南櫓。

天守最上階からの画像で、作業用足場を組み、作業台を造り工事は始まった。

工事は、天守を観光する観覧を受け入れしながら作業は進められた。

作業台には、剥ぎ取った古い瓦等が置かれ、地上に降ろすまでの仮置場である。また新しい瓦等の置き場になる。

天守は、瓦・漆喰の壁等を剥ぎ取ると、軒桁の中はこんな状態に腐食していた。

天守の垂木もシロアリで傷んでいた。

天守軒桁の漆喰の中もこんな状態、今回の大修理は漆喰壁も剥し新たにやり変えた。

天守三階屋根の野地板で、腐食がある板のみ取外し新しい板と取替えた。

天守二階の屋根瓦の下は画像のようになっている。

作業手順は当時の技法の通りに修復していく。

天守保存修復工事記念の行事が天守中庭で行われた。

天守に新しく揚げる瓦に氏名を記載する「あなたの名前を松山城に残しませんか」のイベントです。

「あなたの名前を松山城に残しませんか」の受付風景。

観光に来られた方が記念に氏名を記載された。

県内外から来られた2万人の方々の氏名が書かれた瓦。

瓦は愛媛県今治市菊間瓦で、京都御所にも使われた優秀な製品で有名な瓦である。

その中に、当時松山市長であった中村時広さんも名前を書かれていました。

現在は、愛媛県知事として活躍されていて、今は新型コロナ蔓延防止のために日夜尽力されています。

愛媛県の中でも松山市の蔓延が多く、蔓延防止等重点措置が実施されることとなり、令和3年8月20日から9月12日まで、松山城・道後温泉を休館することを決定した。

皆さんの名前が書かれた新しい瓦が葺かれ、漆喰で仕上げていく。

天守最上の屋根には新しく製作された「鯱」と三つ葉葵の鬼瓦が上がった。

鯱の製作者は、奈良市の小林さんで、小林さんは文化庁の文化財選定保存保持者で鬼瓦職人の第一人者である。

鯱には「雄の鯱」と「雌の鯱」があり、画像は雄の鯱・・松山城天守の鯱の愛称を募集した結果「雄鯱を・天丸」「雌の鯱を・まつ姫」と決定した。

天守の瓦の葵の紋は、松山藩第3代目から徳川親藩になります。
3代目藩主が、徳川家康の異父同母の弟の嗣子、松平定行が伊勢国、桑名藩から入府しますので葵の紋になりました。

初代藩主:加藤 嘉明「カトウ ヨシアキ」外様  20万石 家紋:蛇の目
2代藩主:蒲生 忠知「ガモウ タダチカ」外様  24万石 蒲生氏郷の孫 家紋:左三ツ巴
3代藩主:松平 定行「マツダイラ サダユキ」親藩 15万石 家紋:三つ葉葵

平成18年12月3日、午前10時30分に伊予水軍太鼓を合図に、平成の保存大修復の完成式典が本丸広場で行われた。

平成の大修復で化粧替えをした天守をバックに完成式典に馳せ参じた東雲神社の神輿と担ぎ手達。

平成の大修復工事完成祝に駆けつけた松山市民。

平成の大修復で新装なった松山城天守・・小天守から撮影。

安政元年に復興されました国指定重要文化財「松山城天守」は度重なる苦難を乗り越え(火災・地震・台風等々で)破損がひどく、平成16年12月から文化庁の指示に従い保存修復工事を実施した。

 

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重要文化財・伊予松山城を探索する その1

2021年08月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

松山市のシンボル・松山城を色んな角度から探索してみましょう。

現在の松山の基礎築いた初代伊予松山藩主加藤嘉明は、賤ケ岳の戦いの七本槍の一人、文禄の役(1592年)の戦功により豊臣秀吉から伊予国正木(松前)城主6万石を拝領した。

関ヶ原の戦いでは東軍の武将として参戦武勲をあげ徳川家康から伊予国の半分20万石を与えられた。後の半分20万石は藤堂高虎に与え高虎は今治城を築城した。

松山城本壇の天守は三層で小さいが何故か美しさを感じると観光に来たから言われる。

松山城大手門跡から見た風景で手前に見える太鼓櫓、その奥に天守を望む景色、俳優で画家の榎木孝明さんが一番お勧めの松山城です。

さて

松山俚人談によると、嘉明は、松山城築城の位置を3ヶ所の候補地を選び家康に許可願いを上申した。
当時家康は築城候補地の2番候補地に許可が下りていたので、嘉明は築城したい勝山を2番候補地にした。1番候補地が「天山」3番候補地に「御幸寺山」であった。

結果は、2番候補地「勝山」に築城許可が下りたとの説話がありこの伝説はひろく世に知られているが歴史上の根拠は発見されていない。

慶長7年(1602年)正月15日の吉日に勝山にあった神社を移転し、築城の工を起こした。

同8年10月、嘉明は家臣と住民とともに居を新城下に移し、この地を「松山」と言う名称が公にされた。これが現在の松山の誕生である。

第1番 松山城築城候補地の天山。(奈良県橿原市南浦町の天香久山と姉妹の山)

撮影は、天守最上階から。

第2番 松山城築城候補地の勝山。(撮影は、淡路ヶ峠展望デッキから)

第3番 松山城築城候補地の御幸寺山。(撮影は、天守最上階から)

松山城築城候補地、三候補地の位置関係。撮影は、淡路ヶ峠展望デッキから。

松山城は、短時間に完成したわけでなく松山城が完成するのは26年の歳月がかかった。その期間築城に要する費用は藩民からの年貢の取り立てで賄い、高い年貢の取り立てで藩民の生活は苦しかった。

嘉明は完成1年前寛永4年(1627年)に会津若松に40万石で転封、2代目城主は、出羽国の上丿山城主であった蒲生忠知が24万石で松山藩主に任じられ入城、忠知は有名な蒲生氏郷の孫である。

寛永11年(1634年)8月忠知は参勤交代の途中、京都で病死、忠知には子供がなく蒲生家は断絶、在城すること7年4ヶ月であった。松山城は、蒲生忠知時代に完成した。

忠知は、年貢の取り立てが高く質素な生活をしていた農民から、馬の飼料に必要な稲わら等々を買い上げ農民の生活の糧になるよう配慮した優しい藩主であった。

城主を失った松山城は、幕府の命令により大洲藩主の加藤泰興に預けることとした。その間11ヶ月であった。

現在の松山城天守は三層層塔型であるが、松平定行が改築した。それまでは五層望楼型であった。三層に改築してから天明4年(1784年)落雷で焼失し70年間天守はなかった。

現在の天守は、安政元年(1854年)2月8日に復興した天守である。

寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主の松平定行が松山藩主15万石に封じられた。定行は徳川家康の甥にあたり、松山藩は親藩となり、松平氏(久松)は15代、233年続いた。現当主・久松定智氏は、19代である。

定行は天守を始めとする建造物の改修を幕府に願い出て、寛永16年(1635年)五層の天守を三層に改築した。その理由は天守ほか建造物の保存上の安全を期するためであったと記述にある。

昭和8年7月9日、放火により本壇の小天守・多門櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関・内門が消失した。

五層時代の松山城鳥瞰復元図で、ニ之丸が完成しているから2代目藩主、蒲生忠知時代の復元図である。

第3代松山城主、松平定行は、三層の天守に改築した。

松平定行は徳川家康の甥で定行の父である久松定勝は徳川家康の異父同母弟で、母は、於大の方、晩年の伝通院である。水野家から松平広忠に嫁ぎ竹千代(家康)を出産、その後ある事情で離縁され、再婚したのが久松俊勝、その子が定勝で第3代松山城主、松平定行の父である。

定勝が病気で床に伏せる身となった時、第2代将軍秀忠から「35万石を与える」とのお墨付きが届いた。

定勝は、「ありがとうございます。今までに沢山頂きました。もはや、寝ている身なので畳1枚のほか何もいりません」と辞退した。その後第3代将軍家光から、定勝の子、定行に伊予松山15万石、定綱に桑名14万石、定房に今治4万石、定政に苅屋2万石を賜った。

その時、家光は定房に対し今治から兄、定行を補佐するようにと命じられたそうです。

この時藤堂高虎が築城した天守は解体されなかった。高虎は、幕府の命令で津藩主に転封の際に解体した天守を家康に寄進、家康は丹波亀山城天守として再建した。天守の形態は、層塔型であった。

本壇にある城郭の瓦には「三ツ葉葵」の家紋が掲げられている。

徳川家康は、久松定行が桑名藩城主時代、松平氏を名乗り家紋を三ツ葉葵にとの指示で以後明治維新まで松平を名乗り、維新以後新政府の指示で旧姓の久松に複姓し、家紋も星梅鉢に帰した。

久松の祖は、菅原道真でその子供の1人に菅原久松丸がいた。久松丸は、菅原姓を名乗らず、久松を名乗りこれが久松の始まりである。そして14代後の久松俊勝が妻に迎えたのが於大の方(伝通院)でその子が久松定行(松平定行)である。

松山本壇の表鬼門を守護する天神櫓があるが、この櫓は天守の表鬼門を守護するもので、櫓内部には菅原道真を祀る社が創られている。

天神櫓内部で、社の造りは小さいがしっかり表鬼門を守り、菅原道真は、嗣子の繁栄と松山の未来永劫を護っている。社に使われている神前幕には、菅原道真の星梅鉢の紋が付けられている。

         

              久松・松平家の家系図。

文久4年(1864年)、第13代藩主・松平勝成時代の松山城古図である。

歴代の藩主の名に「定」が付くのであるが、12代と13代には定が付けられていない。

この時代の第13代将軍が徳川家定であったので遠慮して定の字を外し、12代を松平勝善に13代に松平勝成とした。

第14代から定が復活し、松平定昭となる。

現在の当主は第19代久松定智である。

注:伊予松山藩主は、第3代目から松平氏になるが、明治新政府は伊予松山の松平氏に対し本姓に服すよう指示があり、指示の翌日に久松氏に帰した。

松山城三之丸から見た松山城。

金子某書留の一文に寛永12年(1635年)9月6日、伊勢国桑名城主の松平定行が入部し、馬に乗って城下町を巡見した時の記録が伝えられている。

それによると「家中の屋敷は極めて質朴で、家屋も杉葺・藁葺のものが多く、表側の囲は篠を用い、掛塀はほとんど見受けられない。さらに家屋の構造を見ると、物見連子の類も篠囲を切り抜き、又掛塀の下地を塗り残し、格子など付けてるはなし、組家町家杯も道筋至て不同にして、離れ離れに建ったるもの也」武士たちは納戸茶染の木綿を着用し、町人・百姓はみな浅黄紺色の衣服を着用している。・・との記述がある。

松山藩は城が大きすぎて維持管理費に費用がかかり藩士の家禄は低く、農民・町民の暮らしは厳しかったのだろう。
厳しい生活を耐えて城を残し後世のためにと我慢した結晶が今の松山城があり、松山市がある。祖先の努力の賜物である。

松山城がなければ全国から松山には観光に来ていただけなく発展はないと思います。

 

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