画像は、松山城本丸を真上からみたもので、上部中央が本壇である。中央左が搦手であり裏鬼門にあたる。
本丸地図・建造物一覧の左側の建造物、赤い番号21棟が重要文化財に指定されている建物で、右側の白い数字の建物は、戦後復元された建造物です。なお、星印の建造物は、令和元年、本壇の9棟が登録有形文化財に指定された建物です。
昭和8年7月9日、放火のため本壇の小天守(こてんしゅ)および廻廊11棟が焼失、大天守(おおてんしゅ)は焼失を免れた。
松山城本壇で、昭和43年、本壇の小天守をはじめ3年計画で廻廊を復元し、往時の形に復元以降、年次計画的に本丸建造物は復元されていき29棟全て木造で、1棟は鉄筋コンクリート造の外観復元された。
注1:松山城本丸建造物は、
昭和10年5月13日、国宝に指定された。
昭和 8年7月9日、放火のため本壇の小天守および廻廊11棟が焼失。
昭和20年7月26日松山大空襲の戦災で、11棟の建造物(旧国宝)が焼失した本丸の建造物を、昭和33年から文部省に提出した資料(基本設計図・図面)に基づき、なおかつ文化庁の指導により忠実に復元工事を始めた。
最初に復元工事に着手した建造物は馬具櫓だった。
馬具櫓は、文化庁の指示により地盤の関係上、鉄筋コンクリート構造で外観復元となっ
ている。馬具櫓が一番最初に復元された理由は、本壇・本丸城郭復元工事の司令塔(指揮管理事務所)となる必要な建物であった。現在も本丸・本壇管理の重要な設備が設置されており、また本丸に勤務する職員の事務所となっている。
その後昭和43年、本壇の小天守をはじめ3年計画で廻廊を復元し、往時の本壇の形にし、以後年次計画的に本丸建造物は復元されていき29棟全て木造で復元された。
最後の復元建造物は、平成2年、太鼓門西塀の復元でこれをもって松山城本丸の建造物の復元工事は完結した。
実に32年の長い年月を掛けての復元工事であった。
注2:太鼓櫓から馬具櫓と紫竹門西塀の間には続塀があったが、松山市はあえて復元工事は控えた。その理由は、132mの本丸まで登城し続塀があれば15万石の城下町の眺望が出来なくなるために復元工事はしなかったのである。
注3:登録有形文化財とは、平成8年に文化財保護法の改正により創設された制度で、有形文化財のうち,重要なものを「重要文化財」に指定し,さらに世界文化の見地から特に価値の高いものを「国宝」に指定して保護を図るとある。
国宝に指定されるには、先ず有形文化財に登録され、次に重要文化財に指定されなければならない。国宝は、重要文化財の中から指定されるからである。
注4:昭和25年5月、文化財保護法の制定により、国宝であった松山城本丸の建造物21棟は、重要文化財に指定変更された。現存12天守は全て国宝であったが、保護法制定に伴い「松本城・犬山城・彦根城・姫路城」が国宝に、「弘前城・丸岡城・備中松山城・松江城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城」は、重要文化財に指定変更された。松江城は平成27年7月8日、国宝に指定された。
注5:昭和24年1月26日の法隆寺金堂の火災により、法隆寺の金堂の壁画が焼失したことがきっかけに、文化財保護法の法律が制定された。法隆寺の火災がなかったら現存12天守は今も国宝であったかもです?。
注6:文部科学省は、国宝であった物が重要文化財に指定替えされたことについて「格が下がったかの様に思われるが、そうではないと注意書きがあるが、国民は格下げだと感じている。
本丸本壇には、我が国の城郭のうち連立式建築の最も完備した形式とされる天守を中心にした建造物が26棟あり、その内重要文化財指定の建造物が14棟、復元された建造物が12棟ある。
松山城本壇に築かれた形を、連立式城郭と呼ばれる。天守が並立する二基以上の城櫓によって形成したものをいい、中庭の設えがある形態が整然と構築されているものを言う。
この様式を持つ城郭とその名を全国に知られているものには、姫路城と和歌山城と松山城があるが、なかでも松山城は、江戸時代の古城郭として最も新しい完全なものとして注目される。
これが、日本三代連立式天守と言い、全国の城郭愛好者の皆さんが鑑賞・観光に来られる由縁です。
天守は、城の象徴な存在で連立式天守は城郭建築の最高の形式である。
日本三代連立式天守は、姫路城・和歌山城・伊予松山城で、和歌山城は戦後鉄筋コンクリート構造で外観復元された天守で、姫路城・伊予松山城は江戸時代の古城郭である。ただし姫路城の中庭は一般公開されてないので中に入れない。
現存12天守の中で国指定の重要文化財指定の建造物が一番多く存在するのは、国宝姫路城(国宝8棟・重文74棟)で次いで多く現存するのが伊予松山城である。
松山城は、昭和10年5月13日、国宝に指定されたが、昭和25年5月制定された重要文化財保護法という法律により重要文化財に指定変更された。重文に指定された城郭建造物は、21棟で、内訳は、天守を含む櫓7棟、城門7棟、続き塀7棟である。
今回は、重要文化財21棟を画像でご案内します。
では、ロープウェイ山頂駅からご案内しましょう。
戸無門。
ロープウェイ山頂駅から登城すると眼前に本丸一の高石垣(17m)が現れ、待合番所跡に出る。
ここは東雲口からと二ノ丸からの登城道が合流する地点である。
東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の筒井門に迫る重要地であった。それに沿って行き右旋回した道は、石塁と石垣で構築された「隘路」となってその奥に戸無門が現れる。
門の形式は、高麗門で本瓦葺、慶長年間の創建である。全国の城郭でも非常に珍しく、戸が無いのは、ここまで進入した敵を一応通過させ次の筒井門・隠門の攻防戦において一挙に撃破する構えである。
戸無門、内側で筒井門に通じる枡形から撮影。
隠門。
次に筒井門(復元された城門)の東側に隠門がある。大手で最も重要な筒井門・隠門の構えに遭遇する。石垣で隠され寄り手に秘匿された形で隠門が設けられている。
筒井門は昭和24年、狂人の放火により焼失。昭和45年復元された。隠門は、城内建造物のうち、乾櫓・野原櫓に次ぐ古い建築物で筒井門復元工事の時に戸無門と共に修理が行われた。門の形式は、櫓門形式で本瓦葺。
隠門続櫓。
隠門の上に、隠門続櫓がある。一層櫓で本瓦葺。筒井門と接続しており、戸無門を通過し、筒井門に殺到した敵に予期せぬ側面急襲を加え一挙に撃退する構えで、櫓内部は、武器弾薬の保管となっていて壁は銃撃されても耐えられる分厚い土に固形物を混ぜ造り上げている。
紫竹門。
紫竹門は、乾門から東進すると左手に本檀石垣がそびえ、右手には乾門東続櫓からの屏風折れした石垣上に続塀がある。東西続塀ともに本丸広場を内側とし搦手乾門側を寄手側とした構えになっている。・・観光者はこの構えを不思議に感ずる方がいる。
形式は、脇戸付高麗門、本瓦葺。
紫竹門内側。
本壇一ノ門同様に両開きの扉は上下とも格子造りとなっている。これは敵軍か友軍かの確認
するためである。
紫竹門西塀。
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う本丸防御の重要諸点、ここを破られると本壇へと敵は侵入進撃して来る。
長さ14、47m、狭間10ヶ所、本瓦葺。
紫竹門西塀(内側)。
紫竹門東塀(内側)。
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に東塀・西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う。また東塀は、その内側が本壇入口通路で一ノ門にと繋がる。
長さ16、57m、狭間11ヶ所、本瓦葺。
野原櫓。
紫竹門から外に出ると本丸西広場に出る、そこに野原櫓が見えてくる。
野原櫓は、乾櫓の東に位置し本丸西北を防備するための櫓である。この櫓は騎馬櫓とも称し、築城当時に新しく建築された本丸では一番古い建物で、2層一部1層の建物であるが、下層の大入母屋屋根の中ほど、一回り小型の2階を載せた形となっている。これは戦国時代豪族が、その居館の屋根上に望楼を乗せ見張り様に用いていた。その望楼が次第に拡張されて、犬山城に見られるわが国独自の天守建築に発展したとされる。
天守望楼起源説の一過程を示すものとして注目される貴重な櫓である。造りは、2層2階(一部1層)櫓、本瓦葺。
注1:野原櫓の名称は、古町にあった豪商、野原氏が寄進したので、野原櫓と言われたとの諸説がある。
乾櫓。
乾櫓は、本丸搦手を防備するための櫓で、乾門を過ぎて本丸西広場に出ると西方に乾櫓がある。2層一部矩折1層のこの櫓は三面を本丸石垣に托し、その北面は山麓に面し隣接する野原櫓に横矢掛りをみせ、西面は乾門の上にあり、南面は乾門前の枡形を射撃するという多くの任務を課せられた櫓である。
この建物は、加藤嘉明が松前城時代のものを移築したもので、城内一番古い建物である。本丸の西北隅すなわち乾の隅に立つのでこの名前があり裏鬼門の方角にある。
2層2階(一部1層)隅櫓、本瓦葺。
これから本壇にと進入してみよう。
一ノ門。
本壇入口、本丸広場から本壇入口は上り坂になっており、その路の左側は紫竹門東塀(現切符売り場)で右折すると正面は高さ5mの石垣上に筋鉄門東塀、右手には、一ノ門南櫓、左手には小天守があって堅固められている。
一ノ門は、高麗門形式で本壇入口最初の門である。主屋根は両妻をそれぞれ櫓下の石垣に託し、木割りも大きく豪放な構え、両開きの扉は上下とも格子となって見通しをよくしている。脇戸附高麗門、本瓦葺である。
一ノ門内側。
一ノ門南櫓。
一ノ門南に接続し本丸広場から本壇に進入して来る敵に対し、攻撃防御する櫓で突き上げ格子窓・狭間・石落しを備え他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩の貯蔵を主たる目的としながら、本壇最後の防御手段としての合わせ持つ櫓として重要な櫓である。・・これは、二ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じ事が言える。造りは、1層櫓、本瓦葺。
一ノ門東塀で、一ノ門南櫓と二ノ門南櫓を結ぶ続塀で本丸広場からの本壇に侵入する敵を攻撃するものである。
長さ10、14m、狭間10ヶ所、本瓦葺である。
二ノ門南櫓。
二ノ門南櫓は、二ノ門東塀に接続し本丸広場から本壇東にある艮門から進入して来る敵と、一ノ門内の枡形の敵を阻止する櫓である。狭間・石落しを備え、他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩を貯蔵する一ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じである。
造りは、1層櫓、本瓦葺。
二ノ門東塀。
二ノ門東塀は城内で一番規模の小さな続塀で、二ノ門と二ノ門南櫓を繋ぐ続塀である。
長さ3、72m、狭間3ヶ所、本瓦葺。
二ノ門。
二ノ門は、一ノ門内の枡形を過ぎて左折し、急な石段を上ると二ノ門がある。この門は城内で唯一つの薬医門形式の門である。
薬医門というのは、もともと医者の門として用いられたのでこの名になった。しかしその前の語源は、矢喰門(敵の矢を喰う門)と呼ばれていた。
画像のように屋根が一つで、松山城内で唯一二ノ門のみである。
脇戸附薬医門形式の本瓦葺である。
二ノ門内側。
三ノ門表側。
三ノ門は、高麗形式の門で、屋根の一端は天守建物下部に接する。これを過ぎると正面に三ノ門南櫓があり、そこを右折すると天守南側石垣と筋鉄門東塀に仕切られた細長い進入路となり、その奥に本壇最後の守り筋鉄門に達する。
造りは、高麗形式、本瓦葺である。
三ノ門南櫓。
三ノ門南櫓は、天守に至る曲折した進入路に沿って設けられ、一ノ門南櫓、二ノ門南櫓同様に突き上げ格子窓・狭間・石落しを備えていて、本壇最後の防御手段として備えてある。造りは、1層櫓、本瓦葺。
画像は、中央に三ノ門南櫓があり、その左に三ノ門東塀、右が筋金門東塀である。
三ノ門東塀で、左側は三ノ門に接続、右側は三ノ門南櫓に接続している。
長さ14、20m、狭間10ヶ所、本瓦葺。
筋金門東塀。
筋金門東塀の左側は、三ノ門南櫓に接続し、右側は筋金門に接続している。
筋金門東塀の下は、一ノ門枡形である。
長さ11、13m、狭間10ヶ所、本瓦葺。
仕切門。
仕切門は、天神櫓前から天守台を西に進むと仕切門に達する。この門も高麗形式で、屋根の一部は天守下部に接し、他の端は仕切門内塀に接続している。
仕切門左に見える石垣は、天守台の石垣である。
脇戸附高麗門、本瓦葺。
仕切門内側。
仕切門内塀。
仕切門奥には直角に設けられた枡形がある。石垣を登ってくる寄り手を、弓・鉄砲・石を落とす狭間が設けられている。本壇北面を防御する重要な続塀である。
続塀は、弓・鉄砲・石を落し等々で防御不能となったとき、最後の手段として控柱取り払い塀ごと突き落とす。
長さ24、56m、狭間16ヶ所、本瓦葺。
大天守。
中庭から見た天守。
天守は、本壇中央に位置し、本壇地盤から高さ4mの石垣で天守台を造り、その上に天守が築かれている。地下一階の内部は内側から石垣が築かれている。地下一階は米蔵として築かれたため湿度調整の配慮から内側の石垣は、安山岩で築かれ、使用する部材は楠木で防虫効果を図り、床は素焼きの瓦が敷かれている。これも湿度調整を考えてのことである。
米蔵には2千俵の米の貯蔵が可能であった。
この時代の職人は、湿度・防虫等々を考慮して建造している。必要な個所に必要な部材を持ちいて築城している。
米蔵の出入口は、現在は天守観光の入口となっている。
3層3階天守、地下1階附、本瓦葺。
近世(安土桃山時代~大政奉還迄)の時代に築城された天守の中で、各階の床面積が一番広い天守は松山城天守のみである。
もともと5層の天守台に3層の天守に改築したためである。
参考資料:平成6年3月31日、松山市役所発行 松山城・増補五版引用