EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第111回松山植木まつり開催

2015年10月31日 | 伊予松山歴史散策
市民に良質で安価な花木を提供しようと、展示・販売し、また緑の相談所を設け、都市緑化の推進と、緑化樹木に対する知識の向上を図るために、松山市・松山植木まつり協力会が主催で10月23日から開催され、天候もよかったので久しぶりに行ってみた。
開催期間は、平成27年10月23日(金曜日)~平成27年11月3日(火曜日)、午前9時~午後5時まで(最終日は午後4時まで)、場所は、松山総合公園 第3駐車場 (松山市朝日ヶ丘1丁目1633番地2)、開催内容は、庭木、花、庭石などを展示販売され、出展数は、昨年よりも少なく、特に大型の庭木は展示を控えていた。松の木は最近人気がなく出展されてなかった。
会場には「緑の相談所」が開設してあり、庭木や花の育て方などについて相談に応じていた。緑の相談所には私の知人が相談員として詰めていたので暫く談話をしてきた。市民が相談に来た。それは、「夜来香・エイライシャン」の実生からの育て方の指導を伺っていた。夜来香は歌での言葉を知っていたが、花が存在するとは初めて知った。昼は花の香りはしないが、夜になるといい香りが漂う不思議な花だそうです。
それから知られていないのが、市内に生け垣又は庭木を設置する場合に奨励金が交付される事で、詳細は松山市役所に問い合わせる事。
今回は、小さな花から大きなものまで約250種類の植物のほか、庭石や植木鉢なども販売。展示・販売物の総数は約3000点にも及ぶと係員は言っていた。


















知人と談話をしていたら、市民が相談に来た。それは、「夜来香・エイライシャン」の実生からの育て方の指導を伺っていた。夜来香は歌での言葉を知っていたが、花が存在するとは初めて知った。昼は花の香りはしないが、夜になるといい香りが漂う不思議な花だそうです。


松山植木祭りの会場の総合公園山頂には画像の様なヨーロッパ調の城を模した展望台がある。


展望台か見た松山城。


帰りに松山市役所前を通り本庁舎を見ると!


12階建ての本庁舎には沢山の懸垂幕が掲げてあった。・・市の勲章の如く。
最近松山市役所職員の不祥事が多く発生している。しっかりと襟を但し、市民の全体の奉仕者として職務に専念せよだ。
市長をはじめ管理職はノーネクタイで職務をしているが、厚い季節も終わり、やはりネクタイを締め管理職は仕事をしてもらいたい。・・だらしがない!!
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淡路ヶ峠に18年振りに登った 5

2015年10月28日 | 伊予松山歴史散策
10月27日午後3時過ぎに最後に残しておいたコース繁多寺側から登った。
このコースが18年前に登った道で、今回は最後になった。この日は気温が高く夕方から降雨の予報が出ていたが、昨日ネットで購入したウオーキングストックが届いたので此れの使い勝手も試しての事である。
バイクでみかん小屋まで行徒歩開始。18年前はアマチュア無線機をアルミ製の「キャリー」で背負って登った。大分県両子山の局と電波伝搬通信実験を行うためにであった。伝搬通信実験に使った周波数は10,1GHz帯を使った。
当時と、登り口は変貌しており岩場の道など無かった気がする。急な坂道があったのは記憶がある岩場ではなかった。
18年前の記憶を辿りながら今にも雨が降りそうな足元の悪い道を大汗を掻きながら上がった。
4コースを登ってみたが、一番楽なのは、マドンナコースである。此れからはこのコースオンリーで上がる。健康と体力維持の目的を兼ねて。そして展望デッキで見知らぬ人と会話が出来る楽しみがあるから!


松山市内東部に位置する「淡路ヶ峠」標高273mのハイキングコース。
登山コースは4コースあり楽しめるハイキングコースである。



四国88ヶ所霊場第50番繁多寺山門。


本殿をお参りしていざ最後のコース繁多寺から登る。


淡路ヶ峠入口は、繁多寺山門前にある溜池の手前を左に折れ農道を通る。


右手に無人の小さな野菜やみかんを販売する店がある此を左に見て道なりに。
その手前にみかん小屋があるので此処を右折すると淡路ヶ峠登山道である。小さな掲示板がある。私は此処にバイクを置き登った。


直進すると掲示板がある。此処からは蜜柑山、入山禁止、淡路ヶ峠登山道ではありません。・・とある。


バイクを置いた所から、約150m程歩くと小さな小屋と、その横に、モノレールの線路があるので、それをまたいで登山道に入る。


画像の様な鬱蒼とした雑木林の中を歩く。


所々淡路ヶ峠の表示板が出る。
暫く歩くと岩場の急な上り坂になる。岩が丸出しなので足元に気を付けて。滑ると大変な事になるので。18年前無線機を背負って登ったがこんな道では無かった。多分蜜柑山の中を上がった様な記憶がある。


暫く歩くと岩場の急な上り坂になる。岩が丸出しなので足元に気を付けて。滑ると大変な事になるので。18年前無線機を背負って登ったがこんな道では無かった。多分蜜柑山の中を上がった様な記憶がある。急な岩場はかなり続く。
雨上がりは滑るので気を付ける事。


この掲示板からが淡路ヶ峠ハイキングコースとして整備されている。
山頂まで490mと掲示してある。此れより下は地権者の反対があり整備が出来なかったそうだ。


岩場の急な坂道を過ぎると四国電力の鉄塔が二つありその下を潜って登る。


二つ目の四電送電線鉄塔から見た淡路ヶ峠の展望デッキ、273m。


四電送電線鉄塔からみた南面、四国山地に山々で、右から、皿ヶ嶺・上林峠・陳ケ森で、陳ケ森山頂には、NTTの中継大型アンテナと、愛媛レピータ研究会が管理する、アマチュア無線レピータ局が設置されている。設置場所は、久万高原町畑野川、コールサインは、JR5WC局で439,82MHzと1292,82MHzの2局がある。
陳ケ森は標高1207mある。皿ヶ嶺が、1271m、上林峠が、1076mである。


淡路ヶ峠ハイキングコースの掲示板を過ぎると足場の良い木製の階段が設置してありベンチもあるが、画像の通り眼下に松山の市街地が見えていたのか?今は雑木林で何も見えない。


淡路ヶ峠ハイキングコースの掲示板を過ぎると足場の良い木製の階段が設置してある。


山頂近くに祠があり一礼して通ると山頂。


山頂の東屋と展望デッキが見えて来る。


約35分で山頂展望台に到着、此れで4コース全て制覇した。
昨日(10月27日)は、午前中晴天であったが午後から曇天となり3時過ぎから雨天となった。
ところで、
桑原小学校歌に「淡路が峠に朝日が映え、石手の川に夕日浮く」・・と歌うれている。
淡路が峠の隣に、芝が峠(久米地区)がある。兄弟姉妹峠である。
久米中学校歌にも久米のシンボルである「芝が峠」が詠われている。
久米中学校歌、「緑色濃き芝が峠 流れも清き内川の 久米の里」・・と歌うれている。
淡路が峠も芝が峠も(峠・とうげとは言わず、とう、呼ぶ。」


10月27日、午後1時28分撮影、天気予報は午後3時頃から雨天とあったので写真を撮り直ぐに下山した。誰も上がっていなかった。


10月27日、午後1時28分撮影曇天でしたが、松山城と興居島がくっきりと見えた。此処は伊予松山の市街地を見るには絶好の地点である。
昨日購入したウオーキングストックは実に有効に使用で来た。収縮するので(52cmに)バイクで持ち運びも楽である。
明日松山は快晴で気温が下がると様が出ているのでカメラ持参で午前中登る事にする。・・淡路ヶ峠気に入った。ブラボー。


今回購入したうウオーキングストック、使ってみて歩きよく頼りになるストックである。
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淡路ヶ峠に18年振りに登った 4

2015年10月26日 | 伊予松山歴史散策
10月22日午前中に、ゆっくりマドンナコースで登山して順光で写真を撮り、午後からは青い空坊っちゃんコース1000mを歩いてみた。
このコースは、桑原中学裏手に登山口があるが、中々見つからなく、近所の司商店のおばさんに聞き登山口を発見近くにバイクを置き登坂開始した。
このコースの、登山口はみかん畑の側を登り、そこを過ぎると急な登り道で細い道、つまずきよろけると下に落ち大変な事になるから慎重に歩く事寛容である。
途中四国電力の鉄塔の下を歩く。どうもこの道は四電鉄塔の管理道でこれを利用させてもらっているらしい。
淡路ヶ峠は、期待以上の絶景です是非登ってみて下さい。
此処から松山花火大会の花火を撮ってみたい。夜景も素晴らしいと思う。


桑原中学裏山に掲示板があるが、バイクで走ると気が付かない。


青い空・坊っちゃんコースの登山入り口に掲示されていた。


みかん畑の淵を通り登り始める。


道は細く気を付けて歩く事、つまずくと下に落ち大変な事になる。


峠まで730m地点、道は毎日奉仕活動として地元の方が熊手で綺麗に整備されている。気持ちのいい道整備ご苦労様です。


峠まで600m地点で、ガンバル赤シャツコース880m(砂防ダム)コースと合流する地点。


合流地点からの画像で視界が開けてくる。しかしこの日は霞が掛かっており眺望は良くなかった。


鉄塔の下を潜り。


四電の高圧電流送電線鉄塔の下を潜り登る。平地にある四電の鉄塔は周囲柵がり中にはへ入れないが、此処は設置場所を通してくれる。


鉄塔の真下から、平地ではこんな画像は撮れない。


峠まで50m地点を通過。


峠の説明板下に記念の石碑が建立されている。
城主林淡路守通起拾世。伊藤博文は子孫にあたる。 平成9年で四百七回忌と揮毫されている。裏面は、淡路ヶ峠 海抜二百七拾三米 と書かれている。


午後は逆光で、この日は特に霞が掛かり眺望悪し。
淡路ヶ峠は何度登っても気持ちのいいお山、カーボン製のストックも購入した事だしこれから度々上がる事にする。松山では最高のハイキングコースである。
この日石手寺から毎日歩いて登る方に出会った。78歳と言われたが健脚の持ち主です。


山頂東屋には俳句ポストが設置してある。一句読んでみるか。
峠にて 博文しのぶ 伊予の秋
博文を 淡路ヶ峠で 偲ぶ秋


展望台から、石手寺裏山に建つ、弘法大師立像を撮る。
空海は、唐長安青龍寺で修業したので、長安を向いて立っている。


松山一番の展望が出来る淡路ヶ峠、期待以上の絶景です。

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淡路ヶ峠に18年振りに登った 3

2015年10月25日 | 伊予松山歴史散策
18年振りに登った淡路ヶ峠にて、順光で松山の風景を撮ろうと昨日に続いて午前7時30分バイクで登山口まで行き登坂した。今朝は、17年前に上浮穴高校の先生が作ってくれた杖を使って登った杖があると楽である。
コースは4コースあるが、今朝は、一番距離の短く急な坂の少ないコースを歩いた。このコースは道幅が広く四駆の軽自動車であれば上がれる。
30分で山頂に出た。下山は、このコースは歩きにくい、道は砂利道なので滑りそうになるので気を付けて歩く事寛容。杖を使いながら歩かないと。杖は効果抜群、カーボン製のウオーキングポール を早速ネットで購入する事にした。これから度々登る事にする。
では、マドンナコース700m(駐車場)を画像で御覧下さい。




マドンナコース700m(駐車場)登山口表示板。


マドンナコースで駐車場と、簡易トイレが設置されていた。


駐車場までの道は舗装されているが、登山道は未舗装で石がゴロゴロして歩きにくい特に下山は滑りそうで足をとられる。


途中所々に峠まで600mと言う風に表示板が設置してあるので気持ちとしては歩きやすい。


峠まで200m地点通過。


峠まで50m地点通過。このコースは鬱蒼とした雑木林の中を歩くので風景は全く見る事は出来ない。


歩きはじめてから30分、山頂の東屋の後ろに出て来る。


山頂に展望デッキからの伊予松山の市街地風景。山の木々の一部は紅葉していた。


山頂の東屋南側に小さな瓦製の祠がある。初代内閣総理大臣伊藤博文公の祖先を供養する祠か?現在はこの地は私有地で皆さんに開放されているそうで、管理は、淡路ヶ峠遊歩道整備協議会が行っている。


このバイクと杖を持ってここからマドンナコースを登った。
この日は、午後も登山した。午後は、1000mコースの桑原中学裏からのコース、青い空坊っちゃんコース1000m(桑原中学)所要時間は、40分掛かった。
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淡路ヶ峠に18年振りに登った 2

2015年10月24日 | 伊予松山歴史散策
湯築城の関係は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の命を受けて小早川隆景は湯築城を攻め落とし、河野通直他一族たちは伊予を追われた。林淡路守道起は、現在の山口県熊毛郡に移り、伊藤家に入った。その11代目の嗣子が明治の元勲、初代総理大臣伊藤博文である。
小早川隆景は湯築城主となるが天正15年(1587)豊臣秀吉から知行替えを命じられ伊予を去り、その後秀吉の直臣である福島正則が伊予に入部する。
正則はすぐに府中の国分山城に支配拠点を移す。この時南北期以来一貫して伊予一国の中心であった湯築城は廃城とされた。湯築城主河野通直は、親戚関係に当たる毛利氏を頼って安芸の竹原に移り住み病死した。々一族の林淡路守道起は、現在の山口県熊毛郡に移り住む。そして中世の社会は終焉し近世の時代と移り、やはり秀吉の直臣である加藤嘉明は文禄の役の戦功により正木(松前)城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の合戦の功により20万石に加増され松山城を建設し政治経済の地は松山城に移り現在の松山市の発展の基礎となった。
この淡路ヶ峠、273mからは湯築城跡と松山城が眼下に良く見える。そして今や松山市の人口は51万6千人四国一の人口を抱える都市として発展した。眼下に見える住宅街は、江戸時代は20万石の藩主を支えた穀倉地帯であった。こんな事を考えながら淡路ヶ峠展望デッキから風景を眺めた。


一昨日(10月22日)順光で写真を撮るため午前8時に登って来た。コースは、ゆったりマドンナコース700m(駐車場)を歩いた。松山はこの所夏日に近い気温で、大気の水蒸気が多くこの日も少し霞んでいた。画像は展望デッキ。


展望デッキには、眼下に見える松山市の主な所在が描かれ掲示してある。


主な地名を画像に記載してみた。


画像中心を左右に緑が見えるのが松山城の外堀の役目を果たした石手川。


松山市は、現在515、932人。(平成27年9月1日)
慶長8年10月、加藤嘉明は、松前城から居を新城に移し、その時この地を松山と称すとして松山が誕生。その後明治22年12月15日、松山市政施行愛媛県初の市が誕生。当時の町数は、100町、戸数は7,519戸、人口は32,916人であった。


松山市南部と、伊予郡砥部町、松前町、伊予市を遠望。


松山市東北部で右側に旧松山藩主、久松家の屋敷跡がある。現在の当主は、第19代である。
伊予松山藩は、初代加藤嘉明、2代目蒲生忠知(がもうただちか)3代目松平定行で明治以後本姓の久松に復姓する。
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