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松山市城北地区歴史散策 6

2010年06月24日 | 往年の名車 メグロ
松山市城北地区歴史散策 6

画像は、来迎寺の東にある松山大学御幸キャンパスにある新田長次郎翁蔵髪塔である。
昭和12年7月17日建立と碑の裏面にある・・亡くなった一年後に建立した「昭和11年7月17日」逝去

新田 長次郎は安政4年5月29日(1857年)伊予松山藩温泉郡山西村で新田喜惣次の次男として出生した。
生家は農家であったが代々新田を名乗り、南北朝時代、足利尊氏に敗れ各地に分散した新田氏の流れをくんでいる。松山市日浦地区に新田氏を祀る両新田神社がある。

明治5年15歳になった時家で取れた野菜の行商を始めた。
安政2年4月生まれの仙波太郎が魚の行商する姿を長次郎はよく見かけた。
太郎は、温泉郡久米村福音寺の庄屋の出であったが維新後没落して家計の支えとして行商をしながら勉強をし、後の陸軍中将となる人物である。(桂太郎・宇都宮太郎とともに陸軍の三太郎と呼ばれた。)

長次郎は行商に城下町に何時も行っていた。ある日大柄で広い背に焚き木を背負った少年をよく見かけた。南徒町にある戒田風呂で風呂焚きをしている秋山信三郎であった。
ある日、長次郎と信三郎は「学問のすすめ」を通じて親しくなり生涯の友となるのである。
昭和5年3月北豫中学校長を退任し東京に帰るとき大阪に立ち寄り一晩長次郎氏と語り明かし東京に帰り同年11月4日逝去する。

長次郎氏は、好古の訃報を聞き、信さんは、私に最後の別れに大阪に来てくれたのだったか、もっといろんな話をしたかったと号泣したとある。
長次郎氏と好古は生涯、長さん、信さんと呼ぶ親友であった。(好古は、秋山信三郎好古が正規の名前)

好古は教師を志大阪師範学校に、長次郎も大阪に出て一会社員として就業するが後には、東洋一の革ベルト王(現 ニッタの創業者)になり、青少年の教育の場である学校を造り教育に貢献して行った。

その一つが、有隣尋常小学校(現在の大阪市立栄小学校)の設立であり、故郷松山に西日本で初めてとなる、松山高等商業学校(現在の松山大学)の設立であった。

晩年創設した琴ノ浦温山荘園は紀州の名園として名高く、清浦奎吾、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられている。

琴ノ浦温山荘園は、建物が平成10年に国指定登録有形文化財に、庭園が平成22年国指定名勝になっている。
琴ノ浦温山荘園の命名は、元日本海軍連合軍司令長官、元帥東郷平八郎である。
所在地は:和歌山県海南市船尾370
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