EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

電動自転車サイクリング 4

2010年05月31日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 4
 
画像は、眞之の像の前に置かれている。秋山眞之と廣瀬武夫との友情の証しの石である。
この石は、旅順港閉塞作戦で使用された同じ石の一つで大分県竹田市の廣瀬神社から送られて来た記念の石である。

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電動自転車サイクリング 3

2010年05月31日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 3
 
画像は、現在の眞之の像で2代目、戦後昭和38年5月12日に復元され四国88ヶ所第51番札所石手寺の駐車場にあったのを昭和43年9月この地に移転設置したものである。
台座は、昭和6年眞之13回忌と日本海海戦25周年記念に製作建立された当時の台座である。
台座正面上部には旗艦であった戦艦「三笠」が描かれている。
「智謀如湧」は元帥伯爵東郷平八郎の揮毫である。

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電動自転車サイクリング 2

2010年05月31日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 2
 
画像は、現在の眞之の像で2代目、戦後昭和38年5月12日に復元され四国88ヶ所第51番札所石手寺の駐車場にあったのを昭和43年9月この地に移転設置したものである。
台座正面には旗艦であった戦艦「三笠」が描かれている。
この像と同じものが昭和18年まで松山市の道後公園(中世の城跡・湯築城跡)にあった。
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電動自転車サイクリング

2010年05月31日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング
 
今日は、三津浜・高浜地区に行ってみた。

高浜地区の松山市梅津寺(ばいしんじ)町に秋山好古・眞之兄弟の銅像がある。
秋山兄弟生誕地の銅像は、好古が騎馬像で眞之は胸像だが、ここの銅像は兄弟共に立像である。

現在の眞之の像は、2代目で戦後復元建立しれたが、初代の銅像は、昭和6年眞之13回忌と日本海海戦25周年記念に元海軍技士奥平清貞の主唱により道後公園に造られた。しかし昭和18年好古の騎馬像ともども金属供出で潰された。

しかし台座は昭和6年当時の物で、元帥伯爵東郷平八郎が特別に「智謀如湧」と揮毫した。東郷平八郎は長寿であったので部下の将校達にいろんな揮毫をしているが、秋山眞之には、多くの知恵が何処から沸いてくるのか凄いと感じ書いたものだと言われている。

銅像の前には、旅順港閉塞作戦に使用したものと同じ石の一つが置かれている。
この石は、秋山眞之と廣瀬武夫との友情の証しの石とされている。
大分県竹田市にある廣瀬神社から送られて来たのである。

昭和6年に製作建立された銅像は、昭和18年太平洋戦争時金属供出兄、好古の騎馬像とともに潰された。

画像は、戦後昭和38年5月12日に復元され四国88ヶ所第51番札所石手寺の駐車場にあったのを昭和43年9月この地に移転設置したものである。
台座正面には旗艦であった戦艦「三笠」が描かれている。

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自転車専用道路 2

2010年05月31日 | 往年の名車 メグロ
自転車専用道路 2
 
今日は、重信川、河口に行ってみた。
重信川と石手川が合流しる地点は自転車道が複雑で、また国道56号線と松山自動車道松山ICの取り付け道路等々工事中でなおのこと行ったり来たりであった。

画像で紹介しますが、重信川と石手川が合流する出合いには正岡子規の句碑と、水原秋桜子が来松し松山城から、五十崎古郷と石田波郷の生誕地を展望して詠んだ句碑があった。
また「札の辻から一里十四丁」の碑もある。

重信川と石手川共に足立重信が改修した河川で特に石手川の改修が行われて加藤嘉明が1602年1月15日に松山城築城の工を起こした・・そして1603年10月に松前城から新城下に居を移しこの地を松山という名称が公にされた・・・松山の誕生である。

長い間この地に居たが今日初めて重信川 河口に行った・・皆さん盛んに潮干狩りをしていた。
今日は引き潮だったので河口に降りてみた・・60年以上松山に居りながら初めて重信川の河口に降りた。
左手奥が坂本龍馬が脱藩して長州に船で向った長浜も見えた。

出合いにある子規の句碑
子規が東京で遊学中、松山の名所重信川と石手川が合流する出合い付近を懐かしい思いを起こしながらその早春の風景を詠んだもの・・「秋山眞之と語らいなながら???」明治25年6月17日松山の河東碧梧桐に宛てた手紙に「出合」と題して

「若鮎の 二手になりて 流れけり」として送られたとある。
建立場所は、旧国道56号線の松山市側の橋の袂

帰りは石手川の河川敷公園を通り懐かしい風景を見た・・それは、旧愛媛県自動車運転免許試験場のコースで、このコースで、四輪車・三輪車・自動二輪車の免許をここで当時の皆さんは受験した。

未だ残っていた・・私は、このコースで自動二輪の運転免許を取った・・未だ学生で学生服を着て・・自動二輪車は、愛媛県警が使っていた白バイ、500CCのキャブトンでした。県警が使っていた払い下げ車両、当時愛媛県警の白バイは、陸王・メグロ・キャブトンの3機種であった。

そして、石手川河川敷公園には、原爆死没者慰霊碑も建立されている
広島・長崎で被爆され愛媛県で眠る方たちの慰霊の碑です・・昭和49年4月建立です


画像は、大正15年6月、南海新聞(現・愛媛新聞)主催で読者投票によって選定された伊予12景の一つ重信川河口にある重信川・石手川が合流近くに有る正岡子規の句碑
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